12. 運命を支配せよ 

数日後、メリトゥトゥ祭司長はヒクプタハの中心部に鎮座するプタハ大神殿に帰還した。
 彼の帰りを待ちかねていたプタハの大祭司ニアンクは、早速、最上級神官を招集し、「星見の塔」の祭司長専用室である会議が開かれた。公には存在を知られぬこの会議は、通称「セケル=プタハの評定」と呼ばれ、プタハ神官団の最高意思決定機関でもある。
 天井に大きく星図が描かれた広間に召集されたのは、首座のニアンク、メリトゥトゥに加え、四方の観測官に『ロ・セタウの預言者』と呼ばれるプタハ神官団の長老たち、『プタハの手』と呼ばれる職工人を統べる監督官、及び各地に散った神殿所属の諜者『目と耳』を束ねる書記官長など。しめて聖なる数7の倍数の21名である。
 評定がたけなわになった頃、コの字型に腰掛けた彼らの前に、一つの影が進み出た
 「此度はゲレハが報告に上がりましたぞ。此度はなかなか興味深い話が聞けるようじゃ」
 そういって、きびきびした物腰の老神官は、奥に控える小柄な女を召還した。
「これにお歴々がおいでじゃ。これまで同様、あれからそなたが後宮で見聞きした一切をお話申し上げるがよい」
 黒衣ですっぽりと全身を包んだ女は、額を石床にこすり付けんばかりにして拝礼した後、ゆっくりと身を起こし、居並ぶ白衣の神官たちを恐れ気もなく見渡してから報告を始めた。小柄だが手足が長くすらりと引き締まった体つきの女は、身のこなしもきびきびとしており、「夜(ゲレハ)」という名に相応しい黒い膚色からしておそらくはヌビア系の踊り子の類と思われた。彼女の目線からは祭司長の姿は見えないが、時折、向うから質問が飛ぶ。その方式には既に狎れているとみえ、彼女は見聞きした事実を淀みなく、簡潔に語った。感情は一切交えず、ただ「見たこと聞いたこと」を要領よく羅列していく。見た目は若いとはいえ、この女も訓練をうけた「目と耳」のなかでも、優秀な者に違いなかった。
 一連の報告が終わると、女は一歩下がって祭司長の言葉を待ち構える。
「ご苦労であった。そちの身には変調はないか?」
「はい。薬師殿の見立てでは、懐妊した兆しはないとのことでございました」
 女は、まるで天候の話でもするかのように、何の感情も込めずにそう語る。
「では姉のへルゥ(昼)はどうじゃ?そちと入れ替わっておる間にファラオの胤を宿したりはすまいの?」
 それに対し、女は小さく頭を振り、その拍子に黒衣の端から固そうな黒い巻き毛がのぞいた。
「双子の妹のわたしに、姉の変調が感じられぬはずがございません。わたしの感覚に基づけば、未だそのようなことはないと思われます。それに、ファラオは近頃、わたしどものような後宮の女をお召しになりませぬ」
「ほう?ジェドカラーは趣味が変わったのか?」
「いいえ。ファラオにおかれては、女を抱くより酒が宜しいとか。でなければ、酷い乱暴をして女たちの悲鳴を聴くのを好まれます。ときには罪人を我が手で処刑されたり…」
 そのやりとりに、傍らで聞いていたニアンクは憮然とした表情で
「何ともはや…あのファラオは曽祖父のアアホル狂王譲りのところがあると?」
 女は猫のように切れ上がった黒目をきらりと光らせると、やや頭を垂れ、艶のある声で
「いいえ、大祭司様、畏れながらわたしはそうではないと考えます。過日、ヌート宰相がファラオのもとに参られていた時の会話を漏れ聞きましたが、そのときファラオは雑談ついでにこう仰せでありました。『あまり王妃を甘く見ないほうがよい。我が妻はなんと言ってもあのナルカ王子の末裔(すえ)だ。兄王子イフアハの首を一刀で刎ね、その血を啜って凱歌を上げたというあの将軍(いくさのきみ)の血が流れておる女ぞ。そなた、大王のクゥ(御霊)を祀る祭司ならば、その血を色濃く残す王妃を軽んずるまい。そのほうが、そなたの為じゃな』と。このときファラオは酔いに任せて話されておりました。しかし、わたしには王が宰相に釘を差していると思われました。しからば、ファラオの奇矯な振る舞いをそのまま狂気と断ずるは尚早かと拝察いたしますが」
 すると、室内にぴしゃりと水音の撥ねる音がして、女はぴたりと口を閉じた。ひそひそと囁き交わしていた長老たちの間にも沈黙が漂い、広々とした寒い室内には、ぴしゃりぴしゃりという水を掻き回す音だけが流れる。祭司長は瞑目したまま、彼の脇に置かれた水盆の表面を撫でているのだった。それに混じって時折祭独り言が漏れる。
―― 権威ある発言は御身の口にある。知覚は御身の心臓に、御身の舌は正義(マァト)の宮居…
ゲレハと呼ばれた女もプタハの大祭司ニアンクでさえも身じろぎせぬまま、祭司長が次に口を開くのを待っている。
 正式の水占い師の訓練は受けておらぬとはいえ、メリトゥトゥが決断を下すときに、場合によっては水盆を精神集中の手段とすることは、皆に知られていたからである。
「東へ使者を立てよ」
 祭司長はかっと目を見開くと、おもむろに宣した。
「東…では…いよいよアヴァリスへ?」
 隣席のニアンクが、これも瞑目したまま低く問い返す。
「左様。ひとまず、豺(やまいぬ)をこのプタハの城へ容れるが吉と思う」
「しかし、近頃の『セベグ(水星)』の輝きは、むしろ凶を示していると思われますが」
 観測神官の一人が青ざめて発言したものの、ニアンクのひと睨みで視線を伏せる。その他の神官たちは、動揺しているものもあり、平静なものもありと様々ではあったが、最長老の次のひとことが全てを決した。
「セベグはセトの随神なれば…今の情勢では勢いづくもうべなるかなと申すべきであろう。それより、気にかかるは『2つ国を区切るホルス(木星)」に雲がかかりしことじゃ。ソプデト(天狼星)の輝きは失せてはおらぬが…不安定ではある。いままた天の均衡がやぶらるるは、ただ事ならず…しからば、御神にはひとまずセト神をお招きせよと仰せじゃといえましょうな」
「サフ老師には、左様に見立てられるか」
 そう呟くと、ニアンクは胸に下げた「プタハの大祭司」の徴である琥珀金と紫水晶で象った牝牛の首飾をシャラシャラと音をたててまさぐり、しばし考えるふうであったが、すぐに立ち上がり
「承った。では直ぐに、預言者のうちの一人を使者に出しましょう。セケルの祭司殿、……いよいよ、すべてが動き始めると」
「おそらくはすぐにも。我が星の神がさように御望みである」
静かな、だが、威厳に満ちた宣告にその場の全ての神官が、頭上の星図に一斉に頭を垂れる。
「ゲレハよ、そちはこのまま王都へ戻らず、使者に尾いてアヴァリスへ同道せよ。いずれそちの『眼』が必要になるであろう」
 ニアンクにそう命じられ、女はシャラリと胸に下げた鈴を鳴らして頷くと、三度頭を垂れたのち、静かに退出していった。

天(そら)がまだ生りいでなかったときに
人間(ひと)がまだ生まれなかったときに
死がまだ生じなかったときに
地なお闇黒と冥闇のさまなりしときに
我が神は生じた。
こはその神の宮居なり…


白装束の神官たちは低く響き渡る声で一斉に唱和した。
黒土(ケメト)の国を構成する二つの地の片割れであるメフゥ(下エジプト)の心臓、「北の都」ヒクプタハ。世界の始まりの混沌から初めて出現したと言われる聖なる《原初の丘》の大神殿から、ひとつの潮流が生まれた。
その流れは、南で宰相が、あるいは王妃が、更には西でアヌイが擲った運命の骸子(さいころ)を呑み込み、東の叛乱軍をも巻き込んでひとつの出口を目指そうとしていた。
目的は只一つ―――大王家の君臨するこの王国の秩序を打ち崩すことである。


 密かな、だがケメトの運命を揺るがす重要な決定が下されてから3か月が経過したある日。
同じそのヒクプタハの街をナスリーンが訪れていた。
 数年ぶりで会うはずなのに、目の前の老女神官はナスリーンには全く変わりがないように見えた。もう60は過ぎているはずだが、神殿の奥深くで俗世には無縁に過ごすこの方には歳月など意味を持たないのかもしれない、と改めて我が身の変貌を思い知るナスリーンだった。
 だが彼女の内心の葛藤を知ってか知らずか、小柄な老女は優しげな笑みを崩さぬまま懐かしそうにナスリーンの手を取って、湿り気を帯びた掌にぎゅっと包み込んだ。
「まあまあ嬉しいこと。オシリスの御前に参る前に、もう一度あなたに会いたいと思っていたのよ、訪ねてくれて本当に嬉しいわ。なんでも先ごろ、子どもを産んだとか?今日は連れて来ていないの、ナスリーン?」
「申し訳ありませぬ、リシェト様。娘は知人にあずけて来ました。今度は必ず連れて参ります」
 それを聞くなり、老女神官は子どものように澄んだ目を嬉しげに輝かせた。
「ええ、わたくしの命がある間に、是非会わせて頂戴な。ということはお嬢さんなのね?名前は何というの?」
「畏れ多いことながら、御神の御名を賜ってアイシスと名づけました」
「そう、いい名前だこと!アイシスには女神さまの祝福がたんとあるでしょうよ」
「…はい…そうであればどんなに安心か…」
 ナスリーンの声が一瞬だけ翳を孕んだ。老女神官は、ふっと表情を改めるとナスリーンの手をとったまま窓辺の席へ案内した。
 
 壁際に陶製のつくりつけのベンチがあり、二人は並んでそこに腰掛けた。足元には葦の葉を編んだ敷物を掛けた背の低い木箱が並べられており、敷物のうえには遠来の客をもてなそうというのか冷たい飲物が杯に入って出されていた。ここは老女神官の個室として与えられている部屋らしく、つつましいまでに狭かったが、隅に置かれた竪琴・リュート・フルートなどの華麗な細工の楽器類が僅かに艶な雰囲気を添えている。それ以外には、身の回りの道具を納めているらしい大きな蔓籠を除いてほとんど持ち物らしいものも見当たらなかったが、やわらかい陽射しと女主人が放つ穏やかな雰囲気のせいか、その部屋にはゆったりと優しい空気が漂っていた。
 リシェト女神官は、ナスリーンに杯を差し出すかわりに彼女が持っていた竪琴の包みを受け取って、丁寧な手つきでそれを広げた。そして現れた楽器をしげしげと見て
「何て綺麗に使ってあること、それに腕も上がったようね」
「とんでもありません、まだまだ修行中の身でございます」
 ナスリーンの慎ましい謙遜に対し、彼女の師でもあった老女神官は小さく首をふった。
「いいえ、あなたの芸名はこの神殿にも聞こえていてよ。でもね、そんなことよりわたくしはあなたの顔を見て安心したわ。出て行ったときよりも穏やかな顔つきになっているから」
「そう…でしょうか?」
 リシェト女神官は、はっとしたように見返すナスリーンの卵形の顔につと手を伸ばし
「そうよ。多分、あなたが今幸せに暮らしているせいね。今はイムゥにいるのでしょう?そこはどんなところなの?何か珍しい話を聞かせて頂戴な。わたくしも昔はヒクプタハを出て沢山の弟子を教えたものだけれど、この歳になると神殿を出るのもおっくうでね、もう5年はどこにもいっていないわ。でも外の話を聞くのは楽しみなのよ」
 老女はどこかうきうきとした口調で微笑んだ。その微笑は、ナスリーンが昔馴染んだものとどこも変わりがなかった。孤児であったナスリーンの楽才を見出し、手をとって竪琴やフルートやリュートの奏法を教えてくれたのはこのリシェトであった。彼女自身は楽師というよりも教師としての名声のほうが高かったが、数多の弟子たちにも慕われているのは穏やかで温かい人柄のせいでもある。その彼女を半ば裏切るような形で神殿を出てしまったナスリーンは、久しぶりに見るリシェトの笑顔に少しも変わりがないことに胸が痛み、鼻の奥が熱くなるのを感じた。
 しかし、それを無理やり押し留め、リシェトに請われるままに、見聞きしたイメンテトの風物、娘のアイシスの成長ぶり、サイスの街を襲った地震のこと、リビアの塩商人から聞いたはるか北のケフティウ(クレタ島)の噂話を話して聞かせるのだった。
 そうしてしばらく、ふたりは他愛もない話に夢中になっていた。リシェトは目尻の皺をいっそう深くして笑い、ナスリーンも手振りを交えて幻の街を再現してみせる。
ナスリーンにとっても、それは本心から寛げる時間であった。
「ああ、なんて愉快なお話だったこと。ありがとう、ナスリーン」
 ワインを啜り終わると、リシェトはにこにこと礼を言う。しかし、ナスリーンは先ほどの鈴をふるような笑い声とはうって変わった湿った表情になって、リシェトに向き直ったのだった。
「いいえ、わたしこそお師匠様にはずっとお詫びせねばならぬと思っておりました。今日も、恩知らずと罵られるのを覚悟で、是非聞いていただきたいことがあって、こちらへ伺ったのです」
「あなたがわたくしに詫びねばならぬことなどありはしせんよ。何をそんなに気に病むの?神殿を出たことなら仕方がなかったと思っているわよ」
「でも…あんなに良くしていただきましたのに。こんにち、わたしが曲りなりにも楽師として食べていけるのは、皆、お師匠さまのおかげですから」
 ナスリーンは居住まいを正すと、深々と師の老女に頭を下げた。実際、イシス神殿に所属しているわけでもない彼女が、遊女や奴隷に身を堕すこともなく、下エジプト中の貴族からあまたの招待を受け、食べるには困らない暮らしを送ることが出来たのは、彼女の才能もさることながら、イシス神殿はあのリシェト女神官の直弟子という肩書きが効いているからに違いなかったのだ。そうでなくば、よほど酷い運命が自分を待ちうけていたはず。それを考えると、ナスリーンは師の厚情に涙が零れる思いがするのである。
「それも御神の思し召しでしょうよ。あなたはそんなものに縛られることはないのに。…で、わたくしに聞いて欲しいことって何かしら?」
 リシェトは穏やかにそう言い、身じろぎして坐りなおすと、膝の上で軽く手を組んだ。そして、まっすぐにナスリーンを見つめる。澄んだ思慮深い目はナスリーンの心の中を照らすように皓々と明るいものだ。
「実は、わたしの産んだ娘のことでご相談が…」
 一旦はそう口をきったものの、そこで言いよどんでしまったナスリーンだったが、リシェトがゆっくりと頷いたのに力を得てぽつりぽつりと語り始めた。
「わたしの娘アイシスを、このイシス神殿の神官として養育していただきたいのです」
「お待ちなさい、ナスリーン。お嬢さんはまだ乳飲み児でしょう?それに、お嬢さんの父親は西州の州侯様だと聞いていますけど、その方はご承知になったの?」
「はい、アヌイ様は、ゆくゆくは娘を神殿に入れることにも同意して下さいました。ただ…お師匠様もご存知かもしれませぬが、あの方は現在神殿の方々には極めて評判が悪うございます。いくら庶子とはいえ、その娘ともなれば、お預かりいただけないのではないかと思いまして」
 不安そうに伏目がちになってゆくナスリーンの顔をじっと見つめて、リシェトは口を開いた。
「一旦イシスの巫女見習となれば、実の親が誰であろうと縁は切れたも同じ事。その点は心配いらないでしょう」
「ならば…」
 ぱっと顔を輝かせたナスリーンに、相変わらず物柔らかな、だが断固たる調子で声が飛んだ。
「でも、わたくしはお嬢さんをここでお預かりするのはお断りしますよ」
「ええ!?何故でございます?」
「あなたは、アイシスにもあなたと同じ、例の『力』があるのではないかと危惧しているのね。違いますか?」
「……そのとおりですわ」
 ナスリーンの黒い瞳が必死の光を帯びた。
「あんな苦しい思いをするとしたら、娘が不憫です。だからせめて幼い頃よりイシスの御神の守護を賜りたいのですわ。もしかしたら、予知者としてお役に立つかもしれないし、そうでなくても訓練を積めば苦しみは少なくなるでしょうから。お願いです、お師匠様!」
「では聞きますけど、あなたはその苦しみを神殿では救われなかったからここを出たのではないの。今さらその力に縋ろうと思うのはどうしてなの?」
 頭を下げて懇願するナスリーンに、柔らかい口調ながら毅然としたリシェトの問いが飛ぶ。ナスリーンは一瞬押し黙ったが、やがて搾り出すような声で語り始める。
「わたしは…心底恐ろしいのです。この頃は先見も滅多にしませんけれど、あれを観るたびに命の縮む思いがいたします。あの恐ろしさは何をもっても立ち向かえない気がして…それでわたしは祈りを込めて歌いました、琴を奏でました。一時はそれを忘れていられますが、もしわたしに音楽が無かったらどうなっていたでしょう?何をもって立ち向かえばいいのだろうかと…娘を見ているとそればかりを考えてしまうのです」
ナスリーンの述懐を聞きながら、リシェトは手首に嵌めた貝の釧を無意識に回していた。目の前で肩を落として語る若い女は、リシェトからみれば孫娘ほどの年齢でしかない。立派に独り立ちし、子を産んだといっても、師匠のリシェトにすればナスリーンは相変わらず底の部分では相当繊細な神経の持ち主であるように思われた。衣装の襞を神経質に握り締める手は、落ちつかなげに動いている。リシェトは、ナスリーンの華奢な体つきに不釣合いな楽師らしいしっかりとした手を取って、自分の膝の上に引き寄せた。
「ナスリーン、一度しか言わないからよくお聞きなさい。イシスの女神の神殿は国中にあるけれど、ほかの神殿とは決定的に違うことが一つだけあるわ。それはね、女神官職が世襲ではないこと。イシスの女神官は皆未婚で子どもを産めば神殿を離れなくてはならないし、母が神官であった娘はよほど特例でなければ神官になれません。男性の神官にしても後を継がせることができるのは息子だけよ。わたしにしたって、ふた親は漁師だったわ。子どもの頃、村を見回りにいらっしゃった神官さまにわたしの歌が御耳に入って、それで神殿入りを勧められたの。だいたいそういう経歴の人が多いんじゃないかしら。それが何故だか知っていて?」
「…いいえ、初めて伺うお話です」
「それはね、特定の血族の女ではなく、このケメトの国の女全てにイシスに仕える資格があると考えられているからよ。イシスの御神はケメトの“太母”にして、わたくしたち女は皆その器なの。わたくしたちを通して、御神は生き、その御業は未来へ繋がっていくのです。だから、女神そのものであるこのケメトの天が下に生きる限り、御神の懐に抱かれていることと同じよ。神殿に入らなければ、御神の祝福がないなんて、そんな馬鹿なことはありません」
 それを聞くなり、ナスリーンの大きな瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。
「そうだったのですか…わたしは何も知りませんでした…」
「さあさあ、泣かないで」
 リシェトは力強く頷き、ナスリーンの手を優しく握った。
「あなたに音楽があったように、お嬢さんにも恐怖に立ち向かう手段を見出してやりなさい。それは、母親のあなたがお嬢さんにしてやれることのなかでも、最も偉大なことだとおもうわ。アイシスに必要なのは、今のところ神の御手でも神官の訓練でもなくて、あなたの腕で抱きしめてやることでしょう?」
「わたしにそれが出来ますでしょか…」
「答えはいつでもあなたの中にあるわ。そう教えたわね」
 ナスリーンは、のろのろと頷いた。老女はさらに続ける。
「古い書物に“我はすべての者をその同胞(はらから)と同じく作りき。我は不正をなせとは命じざりき。我の言葉を損ないしは、彼らの心なり”という神の御言葉があるのを知っている?わたくしは特にこのお言葉が好きなの。だから、あなたにもこれを贈りましょう」
老いたとはいえ、かつて一流の歌手として鳴らしたリシェトの語り口は、音楽のように美しい抑揚をもっていた。しかし、そのリズムより、深くて穏やかな声色より、ナスリーンの心に響いたのは心の底から彼女のことを案じてくれている深いリシェト真情だった。
「“我の心を損ないしは…彼らの…心なり…”」
リシェトはそう呟く一度ナスリーンの手を握り直し、彼女の顔を覗き込むように
「人がみな同じであるなら、運命の潮は誰にでも平等に満ち引きするものです。そしてその変転を捕らえて運不運の道を開くのは、結局はその人自身の力なのよ。親はいとし子のために敵を滅ぼすは出来ても、その子自身からは守ってやることはできないものね。それに、あなたの悩みはまだあるわね?もしかして、侯のこと?」
ナスリーンがはっとしたのを見て、リシェトは寂しそうに微笑んだ。
「ああやはりそうね。その方を愛してしまったことが苦しいの?それとも…何かが観えたの?」
 途端、ナスリーンの眼からまた涙が一筋流れ落ちた。
「いいえ、あの方を愛したことを悔いたことは一度もありません。あの方は、私にかけがえのないものを沢山下さいました。それなのに、あの方のお心の深い部分は観えたことはないのです。そうすると今度は、そんなものに触れる事を忌み嫌ってきた私が、今度はどうしてもそれを知りたくてたまらくなってきて…あの方は忘れられないどなたかを心に抱いていらっしゃるのはわかっているのです。それは恋ではないのかもしれませんが、恋よりも深くあの方の魂(カァ)に縛り付けられているような…時にそれが何かを確かめたくて、心を闇に飛ばしてしまいそうになる…」
 思わず口から出た言葉の不吉さに驚いたのか、ナスリーンは絶句した。
「あなたはあなたなりに、侯に真心を捧げたのね。だから、いくら割り切ろうとしても、それに返してもらいたいと思うのですよ。女なら誰でもそう…」
「…でもこのままでは、自分がどうにかなってしまいそうで…とても怖ろしくて…」
ナスリーンに、リシェトは相変わらず静かに言うのだった。 
「いいじゃないの。その感情は、あなたが恐れてきた“別の誰かのもの”じゃないでしょう?間違いなくあなた自身の内にあるものよ。私は羨ましいわ。そんな心を豊かにできる想いに触れることができるあなたが」
「御師匠様…」
 リシェトはどこか透明さすら漂わせて微笑み、朗らかに言うのだった。
「大丈夫、恐れず“それ”を見つめて御覧なさい。あなたは知らず知らずのうちに恐怖を克服してきたでしょう、だからこそあんなに美しい楽を奏でられるの。もう少し、自分に自信をお持ちなさいな!アイシスがあなたの力を受け継いでいるとしても、アイシスとあなたは違う人間だわ。だとすれば、あなたはアイシスを導いてやることもできるというものじゃない?」
「たとえそれが間違っていても…でしょうか?」
「間違いかどうかなんて!それはアイシスが決めることよ。あなたはあなたが信じるやりかたで、愛する人を愛せばいいじゃない。よく生き、愛し、歌い、死ぬこと。それが結局幸せへの扉を開くことだと、わたしは最近つくづく思うの。そして、あなたならそれができると信じている」
 リシェトの皺深い手にぽとりぽとりと熱い雫がしたたっていく。遂に、ナスリーンは老女の膝に顔を埋めて泣き伏していた。声を立てず、さめざめと。吐息のように彼女はいうのだった。
「嬉しい…本当は、どなたかにそう言っていただきたかったのです…」
彼女の大地そのもののような黒い頭を優しく抱き寄せ、リシェトはいつまでもそうしていた。


 じっと見つめる視線を感じて、イピはふと顔を上げた。
 すると、目の前に明らかに浮浪児と思しき男の子と目が合う。10歳前後と思しきその子どもは、イピが手にした昼食のアニスの実のパンを食入るように見つめている。もう何日も食べていないのが傍目にもはっきりとわかるほどその子は痩せこけていた。身にまとうものといえば、肌の色と区別のつかないほど汚れて裂けた腰布というよりボロ布といったほうがしっくりくるものを巻いただけ。頭髪も伸び放題で埃っぽい。無論素足である。
こういう風体の子どもが、ワアルト叛乱以来、急に市内に増えた。ことに、今年に入ってかつて無いほど増水が少ないことが誰の目にも明らかになってからは、普段は水没してしまうはずの耕地が剥き出しのままであることに怯えた農民たちが、一斉に食べられそうな都市へ避難を始めたからである。その流れは、1年にわたって睨みあう王軍も叛乱軍にも止められなかった。下手に押し留めようとすると、兵士である農民に動揺が走るばかりか脱走を促しかねない。たびたびその手の暴動が起こり、あちこちで村が焼かれ、屍の山だけが残るのであった。
ことここに至っては、いかに王都が今までどおり権威をふりかざしても、最早、国内の分裂は誰の眼にも明らかになっていた。
王都の命令が辛うじて届くのはここヒクプタハが限度である。それより以北のデルタ地帯は西はイメンテト・サイス・ブト侯などが連携した西部諸侯の勢力圏で、東は「叛乱軍」とは名ばかりのいまや「アヴァリス王国」ともいうべき勢力を確立してしまった、イメティ・ぺフゥ(上東方)侯アアム・ワァルトの領土である。両勢力圏の空白地帯が丁度2つの支流の根元の半径約50キロの円内で、ヒクプタハから進軍してくる王軍が辛うじてその一帯維持している。だが、その地の諸侯がもはや王軍に対する支援を公然と撤回して意向は、盗賊まがいの略奪部隊が横行する危険な地帯となっていた。
現在、ジェドカラー王の治年5の年のペレト(播種季)第1の月(太陽暦で11月頃)。上エジプトではあまりの増水の少なさに、先月、王都の宰相から発せられる恒例の播種布告が直前になって延期される、という前代未聞の事態が起こったばかりである。
下エジプトでも統制のとれた農耕というものが最早不可能になりつつあった。余力のある農村は自衛するか、それ以上に力のある州軍に頼り生き延びるほかはないのである。どちらにせよ、自らの拠り所である耕作地を追われた民には、悲惨このうえない運命がまちうけているのであった。
それは特に力の弱いものを直撃する。例えば、この浮浪児のように。

「お前、腹が減ってるのか?」
 言わずもがなのことをイピは訊いた。
 子供はごくんという音が聞こえるほど音をたてて生唾を飲み込む。イピの人の良さそうな童顔に、僅かな希望を見たせいだ。しかし、それは一瞬で打ち砕かれた。
「生憎だな、俺もなんだよ」
 そういうと、イピは空腹で倒れんばかりの子どもの前で、悠々と残りのパンを平らげてみせたのだった。口の周りについたパン屑までこれみよがしにぺろりと舐める仕草は、いかにも厭らしいものである。イピが殊更にそう言う風に誇張して見せたせいなのだが。
「どこから来たんだ?おおかた東から逃げてきた農夫の倅かなんかだろう?ヒクプタハに逃げ込めば何とかなると言われてきた口だな」
 しかし、子どもは答えず悔しそうに痩せた顔を歪ませただけだった。
「恨むんならお前のオヤジを恨むんだな!」
 そう嘯くなり足元の石を蹴り上げた。子どもはびくっと飛び上がり、忽ち脱兎の如く雑踏に紛れ込んで消えた。
 (ガキに八つ当たりしてんじゃねえよ)
 イピは下唇を噛みながら、はるか眼下まで続く石段を眺めわたし、その上を行き交う人々をぼんやりと眺めた。
 今日は先日来の北風の影響か街中が埃っぽい。そのため、いつもならここからでも見えるはずの白い城壁が霞んでしまっている。街の名の由来となった、「白い城壁(イネム・ヘジュ)」は長い年月を経て尚白く輝いてそこにあるはずなのだ。
 ひっきりなしに声をかけてくる物売りや乞食を適当にあしらいつつ、イピは神殿の正面が見通せる場所を求めて広場を移動した。そしてようやく望みの場所を確保して、どかりと腰を降ろした。
 しばらくしても、イピは無意識に爪を噛みながら、視線を前方に据えてピクリともしないままである。時折、冷たい汗が気に障るのか、イライラと手の甲で拭ったり、咽が渇いて唇を何度も舐めているのに皮袋から水を飲もうとしないのはかなり緊張しているせいと思われた。
もうすぐ、彼女がそこから出てくる。
 そうしたら不審を抱かれないように言葉巧みにあの場所へ誘導しなければならない。これが初の大仕事で、決して失敗は許されないのだ。
 そして、その姿勢のまままちつづけ随分と日も傾いたとき。
(出てきた!)
 イピのはしっこい眼がぎらりと輝くと、神殿――イシス女神に捧げられた比較的小さなものであるが――から、人目をはばかるようにすっぽりと身体をベールで包み、眼ばかり出した人影が現れた。小柄だが、身のこなしは優美で、さながらその身に音楽を纏ったようにリズムがある若い女――勿論、ナスリーンである。
だが、ナスリーンの足取りはみるからに尋常なものではなく、裾をまくるようにして石段を駆け下りてくるのだった。
 それを見るなりばっと立ち上がったイピは、軽快な足取りで石段を駆け上がり、まさに彼の脇をすり抜けようとしたナスリーンの手を掴んだ。二人は危うくバランスを崩しかけたが、なんとか踏みとどまって、身をもぎ離す。
「ナスリーンさま、どちらへ?わたしがお迎えに参りますと申し上げておきましたが、お忘れですか?」
「イピの若様!ああ、お願いです、わたしを直ぐに連れて帰ってくださいまし!アヌイ様のところへ帰らなければ、あの方にお伝えせねば!」
「落ち着きなさい。一体どうなされたのです?アヌイ様は明日こちらへらっしゃる手はずになっておりま…」
「今すぐ!今すぐ帰らねば!!あの方に危険が迫っています!」
 イピはぎくりとしてナスリーンの顔をまじまじと見た。
「何ですって?」
 だが、ナスリーンはそれに答えようとせず、イピの手を振り切って駆け出そうとするのだった。彼女の目は恐怖でつりあがらんばかり、僅かに覗いた顔は神殿の白壁よりも血の気が失せている。
「ここで説明している時間はないのです。わたしが観てしまったあれをあの方に教えなければ、あの方は…」
 ナスリーンの言葉は一層早口になり、周囲の喧騒のせいでイピには聞き取れない。だが、彼女がただならぬ状態にあること、必死に何かを急いでいることは判る。その顔つきを見た途端、イピの脳裡に閃くものがあった。
「観たもの…そうか!もしやあなたは巫女の才能があるのですか?予知をなさるのか?」
 びくっとナスリーンの細い肩が震え、ゆっくりとイピの顔を見上げ
「……なぜわたしが見たものが“先見(サキミ)”――ダトワカルノジャ…ホリノムスコヨ」
 その乾いた嗄れ声に今度はイピが驚く番であった。
 すっと周囲の音が掻き消えた。
そのうえ小柄なナスリーンが一瞬にして大きく立ちはだかり、黒々と光る目が彼を捉えたように見えた。焼けるような視線が彼を貫き、背筋を泡立たせる。
オマエ…オマエガウラギリモノ、

アノカタ二ガイヲナスモノ!

オマエハアクウンヲハコビ、ヒメイトゼツボウヲウミダスモノネ!



 ナスリーンは、いや、ナスリーンの形をした何かの声はガンガンとイピの頭を貫いて彼をよろめかせた。凄まじい頭痛を覚えてイピは地面にうずくまる。

そして突如視界が暗転した――



 女は幕を引き上げて中に入ってくるなり、ひどく驚いた顔で、出し抜けに笑い出した。
「おやまあ。あんたに子守が出来るとは思わなかったねぇ」
 ちろりと視線を上げた男は、膝の上であやしていた3つくらいかと思われる幼女を抱き上げると
「どこへ行っていたんだ、アアシェリ。アナトをほったらかしで」
「あら、ここにはセネブもメルゥトもいるんだし、心配することはありませんさ」
陽気にそういいながら、女は頭部を巻いていた色鮮やかな布をしゅるりと解き放し、幼女のほうへ手を差し伸べた。だが、男の腕にすっぽり納まったその子供は、イヤイヤという風におかっぱの頭を振って顔を背けてしまった。亜麻色の巻き毛と、吸い込まれそうな灰色の目は、眼の前の女におかしいほどよく似ている。といっても、アアシェリと呼ばれた女はすっかり日に焼け、そばかすだらけ。目尻には皺が刻まれているものの、5年前ならさぞかし美しかったであろうと思われる派手な顔立ちをしている。高めの鼻と、彫りの深い造作のせいで、髪の色目ともあいまってひどく異国情緒のある女であった。若くはないが、胸にも腰にも女ざかりの貫禄がついて、誘い込むような色香がある。それでいてさっぱりした物腰は、堂々たる女丈夫を思わせた。
「お前の娘は、ひと目でわたしが気に入ったらしいぞ、どうだ?」
幼女を抱いたままの男は、どこか得意そうに母親に笑い返した。彼もまたこの国の男らしくたいそう日に焼けていて、身なりはごく普通の兵士の白亜麻の腰布一枚。それもそのはず、その日はたいそう暑く、いくら川風が吹き渡る中型の船の上とはいえ、周りでは涼をもとめて河に飛び込む音がするくらいなのである。男は、幼女の頸に懸けられた水難避けの魚の護符を弄びながら
「それにしても、このへんは戦乱などどこにあるかと思われるような暢気さだな」 
「それもいまのうちだけね。直ぐにでも発たなきゃ、そろそろここも危ないわ。それはそうとヘマカの伝言よ、ネセル。サイス侯がパーセル北宰相と渡りをつけるのに成功したって」
 女の一言を聴くなり、男のどこか愛嬌を湛えた口許がニヤリとつりあがった。そして、鋭い目が爛々と光りだす。
「よし、これでヒクプタハへ行くにも都合がよくなったというものだ。いつもお前は頼りになる、アアシェリ。こんな――彼は狭い船室じゅうを眺め――寄る辺ない流浪の踊り子稼業などせずとも、ウァセトの『夜の家』なら、王都一の遊女として引く手あまただろうにと思っていたが、意外な才があるものだな」
「あの商売をやっていくにはもう年なの。アナトもいるし。それに、意外な才っていえばあんただって同じでしょう?まさか、ネセルに州侯が務まるなんて思わなかったものね――あの頃は誰も。それが今じゃ、このメフゥ一帯を動かしてらっしゃるんだもの」
 女は紅をつけずとも赤い唇をきゅっと上げると、背を流れる豊かな髪を括りなおし、改めて娘を抱き取った。母の機嫌が良いのがわかるのか、今度は、幼子も逆らわない。だが、その灰色の目は初めて見る客人をじっと見つめたままなのだった。
 アヌイは――勿論、古馴染みのアアシェリには『ネセル』と呼ばれて逆らわないが、男はイメンテト州侯イブネセル・アヌイその人である、幼子の無邪気な視線に気づいて眼に僅かに和ませたものの、アアシェリから情報収集するのに余念がない。船の主でもあるアアシェリは職業柄あちこちのお偉方に近づく機会も多いし、アヌイに頼まれれば間諜まがいのこともやってのける、度胸もあるし頭も切れる頼もしい友人の一人であった。もちろん、そこにはずっと若い頃、彼らが共有した思い出が幻のようにたゆたっているせいかもしれなかったが。
「では発つなら早いほうがいいだろう。そろそろ俺は行く」
 密談をそう言って打ち切ると、アヌイは脇に置いた皮袋から小さな包みを取り出し、アアシェリの前に置いた。彼女も小さく頭を下げると、何も言わずにそれを受け取る。
「これからまた西へ行くのか?」
 アヌイの問いかけに、アアシェリは娘を抱えなおしながら
「ええ、何のかんのといってアヴァリスはいい稼ぎになるもの。シレ港も近くて人も多いしね。あたしらのようなものには願ってもない所よ」
「まだ手放した息子を捜しているのか」
 彼の隼のように鋭い目がふっと翳りを帯びる。アアシェリは、彼の目をじっと見たまま娘の髪にそっと口付けると
「勿論よ。そのための旅だもの。あの子が生きていればもう15。絶対にこの国にいるはずなんだから、なんとしても探し出してみせるわ」
「今更言っても無駄だろうが…まあ、気をつけていけよ」
「ありがと。薄情なあんたでも、そう言ってくれるのは嬉しいわ」
「薄情か、ご挨拶だなぁ…そうだ、子連れは何かと危ないから護衛をつけてやろう」
 大げさに頸をひねってみせると、男はすっと立ち上がって荷物を肩に抱えなおす。
 甲板に出ると、岸はすぐ傍で、一跨ぎで葦の茂みに足が着く距離である。すこしあがった堤には、馬とその手綱を引いて木陰で休んでいる大柄な男の影が見えていた。
「ペルセン!」
 アヌイがそう呼びかけると、はっとした顔でこちらへやってくる。
「あの男をこの船の護衛につけてやるから、適当なところまで連れてゆけ。愛想はないが、腕は確かだぞ」
「だってあのひとはネセルの護衛でしょう?」
「心配するな、少し先で合流する部隊が待ってる。お前の協力に対する礼だよ」
 鷹揚というべきか、物騒な紛争地帯の只中にいるというのに、アヌイのいつもの気軽な調子に肩をすくめたアアシェリだったが、確かにここから先は少々危険があることも考えて、彼の好意を有難く受けることにした。そうして、アアシェリは
「あんたってお人は、変わったのかと思えばそのままだし…でもやっぱり変わってしまったね」
「どこが?」
 怪訝そうに問い返した彼に、アアシェリはふふっと含み笑いをして
「昔は剃刀みたいな怖いところがあったもの。子供なんか大嫌いだっていってたでしょ?そのくせ、子供に好かれる人だったけどね。今のあんたは前よりずっと得体が知れないけど、でもヘンにおおらかになってて、そこがかえって魅力的かもしれない。御領地にまで連れて帰ったっていう例の女楽師のせいかしらねぇ。たいそうな美人だって聞いたわよ。その人を大事にしてあげてる?」
「もちろんだ。だが今でも俺はアアシェリはいい女だと思うぞ」
「わかってないわねぇ。今に痛い目に会うわよ、あんた」
 何か言い返そうとしたアヌイの肩をぽんと叩くと
「さ、お行きなさいな。あんたはいつまでもここにいてはダメ」
 そう言って、娘の小さな手を取ると、自分の手に重ねるようにして手を振った。諦めたように彼も笑い、身軽に船を下りると地面に降り立った。そして馬を連れてきた男になにやら命じると、ひらりと馬上の人となり、もういちど船上に立ったアアシェリたちに手を上げると、すぐさま馬腹を蹴って土手の向うへ消えてしまった。
 砂塵を見送りながら、いつも風のようにやってきて、風のように行ってしまう男だとアアシェリは胸の底で苦々しく思っている自分に気がついた。かといって、その苦さは彼のまとう独特の磊落さと相まって薄められてしまうような気がするのだ。彼のことはある程度は知っているつもり――でも、今は良きパトロンの一人で、頼りになる友人。それ以上でもそれ以下でもない、自分たちの関係が気に入っているのであった。言うなれば、膚馴れした気楽さと懐かしさ、それにすこしばかりの打算で繋がっているとでも。
 アアシェリはじっと地平線を見つめたままの娘の頬にキスをすると、身を乗り出し
「みんな、荷物をまとめて。日が暮れる前に、船を出すよ!」
 そう言って、岸辺で騒いでいる楽団の若者や小間使いたちに声をかけるのだった。たちまち、あたりに慌しい雰囲気に包まれる。バタバタと騒ぐ音、かき回される泥や青草の籠もった匂い。
 頭上高くで何やら鳥が啼いたような気がして、アアシェリははっと顔を上げた。

(そうだ、あたしったらうっかりしてた…ホリ爺さんはああ見えて喰えぬ男だから気をつけなさいって、あの人に言うのを忘れてたわ…)

 だが、彼女の物思いも、すぐに誰かから呼びたてられて途切れてしまったのだった。


 そして、同じように空を見上げる男に声がかけられた。
「大丈夫ですかい?」
 いきなり強く肩を揺さぶられて、イピははっと我に返った。見覚えのあるいかつい顔が、苛立たしげに自分を見下ろしている。
「あ…ナスリ…いや、女はどうした?」
「どうしたじゃありませんぜ。あんたがあの女に何か言われたと思ったら、いきなり頭を抑えてしゃがみこんでしまったじゃねえですか。なんかあったんですかい?」
「いいから、あの女はどうした!」
 自分より随分歳若いイピに怒鳴りつけられてむっとしたようだったが、男はついと後方に視線を送り
「こんなこともあろうかと思って、あんたに手下をつけておきましたから、そいつに追わせましたよ。どうせ女の足じゃ遠くにはいけねえ。それに、ここプタハの町から俺たちが逃すわけがねえ」
「俺はどのくらいこうしていたんだ?」
 男の皮肉を無視するようにして、イピは痛む頭を押さえながら尋ねた。
「さて、ほんのちょっとの間でしたかね。それより、頭は大丈夫ですかい?」
「いいから、絶対に女を逃がすなよ」
 男はニヤリと笑った。どこか獰猛な牙が見えたような不気味な笑みだった。
「わかってまさあ。今にこの町はひっくりかえるような騒ぎになるが、その前にあの美人さんを捕まえておけってこってしょ?」
「見失ったら、すぐ神殿兵を動かすからな」
「へいへい。そんなことにはならねえと思いますがね」
 男は余裕たっぷりの足取りで雑踏の中に姿を消し、イピは唇を噛んでその岩のような後姿を見送った。

 一方、ナスリーンはがむしゃらに駆けていた。
 ヒクプタハを訪れたのは久しぶりで、街中の様子も以前とは随分と変貌している。しかし、ナスリーンは躊躇うことなく西門を目指した。行き交う人々の間を縫うようにして、狭い路地や広場を駆け抜け、ただただ西に向う。愛する人が待つ方角へ。
 いつもなら胸に抱いた大事な竪琴を気にするあまり、人ごみは極力避けるのだが、今はそんなことを気にする余裕は全く無かった。
 彼女の頭の中には、リシェトとの会談中突如として振って来た映像で一杯なのだ。気が付けば転がるようにしてイシス神殿を飛び出していた。途中で誰かに呼び止められた気がするが、もはやそれさえもはっきり覚えていない。

(あの方に危険が迫っている。ここへ来ては駄目と伝えなくては!)

 アヌイの朱に染まった顔、縛り上げられた腕、腫れあがった口許といった残像が眼の底に焼きついて彼女を追い立てていた。これほど鮮明な映像を見たのは初めてで、そのことがさらに彼女の恐怖心を煽っている。
 最高人口80万とも言われる大都市ヒクプタハは、何処まで行っても人人人の波。特に、彼女が駆け抜ける目抜き通りは、幅一杯に人がゆきかって殺人的な混雑を呈している。だが、ナスリーンはそれこそ人を突き飛ばすようにして、ただただ城外へでようとしていた。
 もうまもなく日が落ちれば、市兵が城門を閉ざしてしまう。ナスリーンは時折伸び上がるようにして城壁の上に翻る神旗を確かめた。あの長くたなびく幟(のぼり)の下に松明が掲げられれば門が閉められてしまう。
 いつのまにかサンダルはどこかへ失せていた。顔を覆っていたベールも吹き飛び、彼女が胸に抱いた竪琴の包みだけがカタカタと音を立てる。豊饒の色の髪は後ろへたなびき、上気した顔に滝のような汗が流れ落ちる。
「道を空けて!通して!」叫ぶ女の必死の表情に驚いたのか、市民たちがもぞもぞと道を譲り、そして、目の前に大きな木を何枚も貼り合わせた城門扉が見えた。
 ナスリーンが安堵で大きく深呼吸をする。
 だが、突如彼女の前で槍が交差し、足取りを止めさせた。
「待たれよ、あなたにはここから出してはならぬとの命が出ています」
「何ですって?私はただの楽師よ。ほら、竪琴があるでしょう。今すぐ家に帰りたいだけなのよ」
 そうナスリーンが激高して叫んだとき
 兵士の間からひときわ大きな体格の男が進み出て、彼女の前に立ちふさがった。
「観念なされい。さあ、我らと共に参られよ」
「何故です?何故私を引き止めるの?」
 悲鳴のようなナスリーンの問いに、男の厚い唇がぐいと曲がった。
「それをここで言ってもよろしいのか?あなたは何者で、どうしてヒクプタハにやってきたか北宰相さまの前で弁明できますかな?」
 それを聞いた途端、ナスリーンが後ずさり包囲の手薄な右方向へ走り出す。それに一瞬遅れて兵士たちの怒号が続いた。
 彼女は城壁の上へ続く階段を駆け上がり、追いかけてきた兵士を振り返って睨みつけた。
「寄らないで!それ以上寄ったらここから飛び降りるわ!!本当よ」
 追っ手の首魁らしいあの大男が忌々しそうに
「バカな。あんたの命を取ろうというんじゃない、いいからこっちへ来なさい」
「来ないで!!」
 風が背後から吹きあげナスリーンの長い黒髪を命のあるもののように舞わせた。こんな時になっても彼女の手には竪琴の包みがあり、それを胸に抱いたまま、きっと目を見張って男たちを見返す姿は一種言い知れぬ気迫があり、彼らをたじろがせた。
 そのとき、ナスリーンは耳慣れた声を聞いてそちらに顔を向けた
「ナスリーン様、そこは危ないこっちへ」
「イピの若様!」
 見慣れたはしこそうな浅黒い顔がある。ナスリーンをここへ連れてくる案内をし、一切の手配をしてくれたテーベの若い商人――ナスリーンにとっては恩人の顔だ。
 しかしその意外そうな声色に、今度はイピが動揺する番だった。彼を総毛立たせたあのナスリーンはそこにいない。いるのは、いつもどおり可憐な女楽師でしかない。いや、今は決死の表情で随分と印象が違うが、少なくとも先ほどの神罹り的雰囲気はない。
 イピは何気なさそうな風を装ってさりげなく足を踏み出した。兵士たちを振り返って、宥めるように両手を上げてゆっくりと落ち着くようにという仕草を繰り返す。
「この人はわたしの知り合いです。怪しい人じゃない。話は向こうで聞きましょう、皆さんもそうしてもらいますから…ね?」
 後半は、振り返ってナスリーンに呼びかけたものだった。その言葉に一瞬彼女の注意が逸れ、端にいた兵士が飛び出した。
(やった!)
 イピが成功を確信したそのとき
 突如突風が巻き起こり、城壁側に寄っていたナスリーンと彼女を捕まえようとしていた兵士の一人がバランスを崩した。巨体がナスリーンの小柄な身体を巻き込み、あっという間もなく二人はまっさかさまに墜落してゆき、すぐにドスンという重い音がした。

 のちのちまで、イピはその時の映像を何度も何度も繰り返し夢に見ることになる。
 イピの顔を見分けた時のナスリーンの安堵の表情、落ちる寸前の驚愕に見開いた目、何かを伝えようとする必死の視線を。
彼女が落ちてゆく―――まっすぐ、いやに長い時間をかけて城外の砂漠へ。背後には血のように紅く染まった空がある。誰の血だ?俺が運ぶという絶望の色か?

伝えて!あの人に、あの子に…伝えて!!というナスリーンの叫びを、彼は確かに聞いた。

だが、その時蒼白になったイピが、城壁から乗り出して目にしたのは、地上に横たわる奇妙な形に折れ曲がったふたつの肉体、そしてあたりに散乱した竪琴の破片だけであった。 

 そして現在。
イピの前にナスリーンが先見した通りの光景がある。
 高い天井は闇に閉ざされ果てないものとなり、ぽとりぽとりと落ちる嫌な色の雫が冷たい石床に不吉な陰翳を描いている。直ぐ手前には銅の太い格子。奥には饐えた臭気を放つ真っ黒い藁の山、いや、その上に人影が長々と横たわっていた。
 その手首には重そうな鎖がつけられている囚人――それは男である。血と泥にまみれた腰布ひとつで、彼の胸にも背にも酷い打撲の跡が青黒く残っており、あちこちに血がどす黒くこびりついたままだ。
 短く刈った黒髪はこの国の男にごくありふれた髪型だが、それも泥となにやら血のようなもので固まってしまっている。
 気配を感じたのか、その囚人がむくりと起き上がった。
 彼の瞼は無残に腫れあがり、口許も同様。
 だが、その紫色の瞼が上がって炯々とイピを貫く強い視線を放つのを見たとき、イピの唇がきっと引き結ばれた。
「決して手荒な真似はするなと言っておいたのに!」
 イピの腹立ち混じりの呟きを耳にしたとみえて、男の歪んだ唇がさらに歪みをみせた。蔑みかあるいは、自嘲の形とイピには見える。
「やはりお前が裏切ったか、イピ。いつかこうなるだろうと思っていたがな」
 それは乾いて、痛々しいほど掠れた声だったが、底に滲む嘲笑の色は隠し様も無かった。
 イピはゆっくりと腕組みをすると、太い銅製格子のほうへ一歩踏み出した。そして、男の強い視線を然と見返して
「裏切った…とは心外だなあ。あなたがいつか仰ったとおりですよ。『人の風下に立つも立たぬも、己次第。運命はセシャト女神のものじゃない。運命は己で支配するものだ』そうじゃなかったですか?イブネセル・アヌイ様」
 男は――今や、囚われの身となった西州侯は――青銅の鎖をジャラジャラと鳴らしながら、ぐいっと手の甲で口許を拭った。そうする間も、イピの緊張した顔から目を離すことは無い。そして、彼は、何の感情も伺えない乾いた声で呟いた。
「確かに。そう言ったのはわたしだったな」

 そしてこれより舞台は、ヒクプタハの古い神殿の奥深くに移ることになる。




13章へ続く

 11. 美徳と悪徳


 大王葬祭神殿の首座であるヌート大神官が宰相に任じられて、はや一年が経過しようとしていた。
 当初の目論見どおり、大王葬祭神殿の修復を短期間で仕上げ、宮中に葬祭殿神官派の勢力をいよいよ伸ばした宰相は、このところとみに機嫌がよい。ジェドカラー王からの信頼も厚く、評議の間に集まる大臣及び官僚達の大半を子飼いの神官・書記たちが占めるにいたり、ヌートは得意の絶頂にあった。老いたりとはいえ頑強そうな体躯に、首からは宰相の徴である真実の女神マアトの羽飾りを下げ、肩からは豹の毛皮、手には黄金杓を握って王宮を歩めば、すれ違うものたちは一斉に恭しく拝礼する。だがそれらの前を通り過ぎる宰相の視線は、彼らを掠めすらしない。


 ジェドカラー王の治年5の年、アケト(増水季)は第2の月のある朝、宰相は予定より少し遅れて評議の間に着いた。
 宰相の姿をみた歩哨は気取った声で先触れ、その声を聞き流しつつ豪華な室内に足を踏み入れたとたん、宰相は微かに眉宇を曇らせた。
 王の傍ら、いつもは空の筈の椅子に華奢な人影がある。
 無論、それは本来そこに座るべき人物――王妃その人であった。
 王妃が評議に臨席するのは、なにも異例のことではない。ことに、このネフェルウルティティス王妃はジェドカラー王の即位時、正式な共同統治者に指名されており、王が不在の時は国事を担う人物なのだから、姿を見せて当然なのである。しかしこのところ、王妃はファラオの巡幸代理その他の所用で欠席が続いていたため、ヌートは意外な思いがしたのであった。勿論ヌートが手を廻して、王から王妃の欠席を促すように仕向けたのは事実だが、王妃が内心では宰相を疎んじているのを承知しており、自発的に欠席するのを見越していたからともいえる。
 しかし、今、王の傍らにひっそりと腰掛けた王妃は、美丈夫の夫とは似合いの一対といった様子で、宰相に対してもあくまでにこやかな態度を崩さなかった。
 評議は、いつも通り宰相が議案を提示し、王がそれを承認することに終始し、どの大臣も殊更反論を唱えようとはしない。
 ヌートは、時折ちらりちらりと王妃に視線を送ったが、王妃もまた物柔らかな態度で、王の裁定を拝聴しているようであった。20歳と年若いながらも、王妃の政治的才能を密かに危惧していたヌートはいささか拍子抜けしたような気分になる。

「ワァルト軍もようやく後退を始めてきましたとか。これも陛下のご威光が国土にいきわたりたる証でございましょう」

 大臣の一人が見え透いた追従を言う。王は、秀麗な面に退屈そうな表情を浮かべただけで、何も答えない。すかさず宰相が

「誠に喜ばしい限り。これを機に、メフゥ(下エジプト)諸侯のいっそうの引き締めを図るのもよろしいかと思いますが…」

「ふむ。宰相の考えはいかに」

「畏れながら申し上げます。まずは東メフゥ州侯の配置換えをなさってはいかがでございましょうか」

「州侯を?して、どの州を」

「まずは内通して寝返り、先ごろ討たれたべへべト侯家でございます。その他にも、寝返ったるソプドゥ州近隣の州侯のなかにも、不穏な噂のあるものが幾人かございます。詳しいことは北宰相のパーセル殿から報告するように命じてございます」

「さても熱心なことよ。宰相においては『腐った果実は周りの者まで腐らせるもの。ゆえに周囲にいるだけで腐る』と言いたいらしいな」

 どこか投げやりとも取れる口調でジェドカラー王は呟いた。最近の王は、一時示した政治への情熱もどこへやら、政務の場でも退屈そうな態度を隠さなくなっていた。それに伴い、宰相の発言数が益々増大するのだったが、王はそれすらも興味がないようである。評議にはでてくるが、ただ宰相の議案を承認するためだけにそこに座っていると見える。
 深酒が酷くなっているという宮中の噂を証明するが如く、先日28歳の誕生日を迎えたこの王は、秀麗であった容姿にも荒廃の色を加えてきつつあった。不摂生で血が滞っているせいか、顔色もつとに冴えない。ただ、時折見るものを怯えさせる嗜虐の光を浮かべる、切れ長の瞳の美しさは変わらないままだった。朽ちた心を映す冥い目と、憂愁に隅どられても尚華やかな王の外見の対比はひどくアンバランスで、どこか危うい印象すら与える。
 しかし、王妃はそんな王の傍らにありながら、優美に微笑んでいるだけだった。かといって、王に対してはあまり視線を向けることもない。王のほうも、妃に必要以上に話し掛けることすらしないのだった。まるで、隣合わせの玉座の間には目に見えない壁があるかのように。

「王妃様のご意見はいかがでございましょうや」

 恭しさを装って、ヌートは王妃にも発言を求めた。王妃は、ゆるゆるとその長い睫毛をあげると、宰相の目を真直ぐ見返し、にっこりと微笑む。なんとも、邪気のない笑みである。一瞬にして、その場を支配していた緊張感が確実に緩んでいくように思われた。

「陛下がご承知ならば、宰相の判断で万事そのようにとりはからって下さい」

 頭を垂れた宰相の口元に、誰も見ることのない冷笑が浮かんだ。嘲笑とも見える、毒を孕んだ笑みはうたかたのようにたちまち消えはしたが。
 これほど御しやすい王妃を警戒していた自分が馬鹿らしく思えたのだった。若くして叔父のセンウセレト王子を退けたと噂された彼女の手腕を警戒していた宰相だったが、所詮はファラオの威光に頼るしかできぬ小娘であったかと。宰相は、自信を取り戻し、物慣れた態度で議事を進めた。


 
 次の日も、またその次の日も王妃は会議に姿を見せた。
 相変わらず王の傍らにゆったりと腰掛けた優雅な王妃は、会議の進行を見守るだけであった。時折、気兼ねした大臣たちが、形だけにせよ王妃に意見を求めたが、いつもはかばかしい返事は返ってこなかった。ナイルの水面のように穏やかな表情で、ただ玉座に坐るばかりである。

 宰相は慇懃無礼に王妃を無視し始め、もはや無気力を隠そうともしなくなった王に代わり、てきぱきと国事を取り仕切るのだった。
 この点では、たしかにヌート宰相は有能であったと言わねばならない。宰相は腹心のメルスゥをはじめ、実務に長けた神殿書記をおのが手足のように使い、山積した政務を次々と片付けていった。しかしその案件の多くが、大王葬祭神殿関連であり、それを優先的に裁量していることも事実であった。かといって、その処理は当然ながらお手盛りの色が濃く、公正からは程遠かったのであるが。

 ジェドカラー王の統治も5年目に入ったというのに、昨年の収穫量がまた思わしくないとの報告が出ており、王都の役人たちは増大する一方の戦費の確保に頭を抱えていた。一昨年の大地震以来、一気に全てが悪いほうへ転がり始めた感がある――と寄ると触ると彼らは深刻な顔で囁き合うのだった。
 ヌート宰相は意気揚揚と王軍を反乱軍討伐へ向わせたが、1年経ってもさしたる成果を上げられていないのが実のところであった。「王軍」といえども、兵のほとんどが徴集された農夫であるから、農繁期には軍をある程度解かねばならず、王命でもって動員した各州の軍もその点の事情は同じであった。これに対して動員兵力では劣勢にあった叛乱軍は、彼らを後押しする東のカナーン諸国経由で異国の傭兵が流れ込んでおり、農耕のサイクルに縛られない彼らは王軍の虚を突くことも度々である。要するに、東デルタの戦闘は、獲ったり獲られたりで一向に劇的な戦況の変化は見込めないのであった。それに加え、王軍は給料の支払いも滞りがち、兵士は疲弊する一方であるというのに、東の通商路を押さえ地場を固めている叛乱軍は、持久戦にも強みを発揮している。
  近年の不作は全国的に食糧危機の兆しを見せ始めていた。そこへ、大軍が送り込まれれば、混乱が増すのは火を見るより明らかである。その現状を無視して、王都の面子を保持する為だけに軍隊が派遣される度に、今度は軍の糧食を強制徴集されるようになった下エジプト諸侯と王軍指揮官との間に溝が広がっていたが、その報は王都の深部までなかなか到達してこない。そのうえ、「ファラオは親征せず」との方針を打ち出して以来、この溝は目に見えぬところで深く進行しつつある。
 というのも、ファラオの国内巡幸は、かつて最も重視された国務であった。歴代のケメトの統治者は、政府高官を引き連れて王宮中枢部ごと移動しながら黄金の船で旅し、諸侯と民にまざまざと神王の威光を見せつけた。それにより、ファラオこそが地上の唯一の神として君臨するというメッセージを臣民に叩き込むのに絶大な効果があったからである。しかし、ここ数代の王は血族間の争いにかまけ、大王の遺産の象徴である王都テーベこそが権力の源と考え、都を動こうとしなくなってしまった。
 かくして、民はファラオ、即ち地上に降りた唯一の神に触れる機会を失ってしまった。いかに各地にファラオが建てた神殿があろうと、祭礼以外で開かれることのない聖域の奥深くに坐(い)ます神は、庶民にはなじみが薄いものである。彼らは自分達と同じく、温かい血の流れる『神なる王』をひと目見てその奇蹟に触れ、祈りを捧げ、できればこの乱世を生き延びるための幸運を欠片なりとも賜りたいと願う。だが、民が希(こいねが)うそのひとは彼らから面を背けて久しかった。そのため、混乱が続く下エジプトでは民を導く厳格な牧者(ヘカ)にして、幸いをもたらす慈悲深い貴人は民を見放してしまったのかと囁かれつつある。そこへ長引く内乱のもたらす戦禍が降り積もれば、民の不満はファラオの神性を揺るがしかねない。
 だが、大王家独自の権力構造に首まで浸かり、壮大な王都の二重壁に囲まれた王宮に篭もりきりの宮廷人には、その認識は著しく薄かったのである。


 そんなある日のこと。
 ヌート宰相は、大王葬祭神殿の大神官として久しぶりに祭儀を主宰した。
 至聖所から出てきた王をいつものように恭しく見送って、続いて出てきた小柄な姿に宰相は声をかけた。

「本日は、この神殿へわざわざご来駕を賜り恐悦至極にございます。おお…それにしても…しばらくお会いせぬ間にお背が高うなられましたなあ――」

 ヌート宰相は、儀礼的に取り繕った声に、本心から感嘆の色を交えずにはいられなかった。
 実際、久しぶりに間近で見た王の義妹は、幼女の体型からきれいに脱していた。もともとこの王女は上背があるほうだったが、手足の長さが目立つほど一段と背が伸びている。すらりとした立ち姿は凛々しく、もとより宰相の巨躯には及びもつかぬとはいえ、裾長く緋の御衣(おんぞ)をひき、こちらを見上げた姿は威厳らしきものすら漂っている。
 しかし、宰相を見返す彼女の黒い瞳はまだまだ子供っぽい頑なさを残していた。

「お陰で王妃陛下の名代をつつがなく勤めることができました。宰相にはいろいろと骨折りを頂き、わたくしからも礼を申します」

 教えられたとおりの口上を棒読みするのが、また子供っぽさを印象付けた。

「なんの、とてもご立派なお勤めぶりでございました。とてもご成人前とは思えぬ落ち着きぶり、このヌートも感服いたしましたぞ。ネフェルキヤ様」

 ヌートはにこやかに褒め称えるふりをしながら、注意深く目の前の少女を観察した。

(ふむ…これは思ったより急がねばならぬな。女子は直ぐに大人になるゆえ、この姫とてすぐにも夫を迎えるに差し支えはない…ちと、利かん気そうじゃが…所詮は御しやすい子供だ。王が乗り気でないのが難だが、それはそれでどうにでもなる)

 宰相の思惑を他所に、王女は見上げるような位置にある宰相の目を睨み返すと、足取りだけは優雅そのものでくるりと背を向けた。肩下あたりでふっつりと切りそろえられた黒髪がさわさわと揺れ、髪の先端に着けた金の瓔珞が触れ合って澄んだ音を立てる。その後ろ姿は子どもらしくほっそりとしていたが、控えめながらも円みを見せ始めた胸のあたり、清浄な白い衣装に包まれた身体の線などは、若い女性特有の柔かさを備えてきつつあり、清らかな立ち姿にも色気めいたものがみてとれる。
 そのせいか、王女を見送るヌートの目が一瞬、脂じみた光を放ったようにも見えた。

 

 大王葬祭神殿は、王宮の直ぐ南隣にある。先の地震の被害を修復するにあたり、王宮は随分間取りを変えたため、大神殿を出て輿で少しゆけば、王女の住まう後宮もさほど遠くはない。
 王女を乗せたその輿は、大神殿の塔門を出ると真直ぐに後宮へ帰還した。

「お帰りなさいませ。ご立派に王妃様のご名代をお勤めでございましたそうで…本日はお疲れ様でございました、ネフェルキヤ様」

 そういって王女を居間で出迎えたのは、彼女の傳育官で、今は大家令セケンレの補佐役として後宮を実質的に取り仕切る家令となったアンクエレだった。彼が正式に《ナルカ王家》の家令職を拝命してからは、今までのように王女の教師役をこなす時間もなく、自然と顔を会わせる機会も激減していたため、彼の姿を見た途端、王女は一瞬驚いたように立ち止まった。

「おや…珍しいの。そなた王都におったのか?姉上のお供でコプトスへ出かけたと思うていたわ」

 わざとらしい大人びた口調に、アンクエレは片眉を上げ

「…神殿で何ぞ、ご不快なことでもおありでしたか?」

 それを聞くなり、王女は乱暴な仕草で頭上の見事な宝冠を外すと、アンクエレの胸元に放り投げた。そして、肩から引き摺った華麗な領布(ひれ)もむしりとるようにして床に落とした。

「キヤ様!」

 つい癖で小言を言いかけたアンクエレも、王女の表情を見るなりそれを引っ込める。

「いったいどうなされたのです?今日の祭儀は滞りなく済んだと報告を受けておりまするが…なにかお気に触ったことでもございましたか?」

「陛下は本当にどこもお悪くないの?廷臣どもも、姉上も何も気付かないの?あんな…いつもあんな風なの?」

 王女は、真剣な口調でアンクエレに詰め寄った。
 彼はすっと犀利な眼差しになると、平静な態度を崩さぬまま侍女達を遠ざけた。誰もいなくなったのを見計らって、アンクエレは後ろ手で慎重に扉を閉め、王女を部屋の隅の椅子に腰掛けさせた。

「陛下が如何なされたのです?」

「まるで別人のようだった!式次第どおりに動く人形のようだったわ。わたしの顔を見ても何も仰らなかったし――いつもなら、慇懃無礼にお説教を始められるのに。それに、あの顔色の悪さは普通ではないわ。相変わらず、とても美男子でいらっしゃるけど、まるで死人のような生気のなさに驚いたのよ」

「死人…とは不謹慎な仰り様ですな。間違っても、他所でそのような言葉を口にされませぬように」

「真面目に答えなさい、アンクエレ!」

 王女の瞳が瞋恚(いかり)の炎を発して煌めいた。
 彼を見上げているのは、神事に参加するために特に念入りに化粧を施しているため、はっとするほど大人びて見える養い姫である。貴重な孔雀石を細かく砕いて目尻を縁取ったアイラインのせいか、黒い眸子が神秘的な緑色を湛えているように思われた。その耳に、首もとに、胸元にも紅玉髄と真珠と金で象嵌した繊細な飾りが揺れている。
 ここ最近のネフェルキヤ王女は、姉王妃を思わせる優美な面差しになってきたとはいえ、そうして足を踏み鳴らしかねない勢いで睨みつけている様子は、傅官のアンクエレにしてみれば幼い頃より見慣れた「癇癪もちのキヤ様」でしかない。となれば、彼の態度も幼子を宥めるような口調にならざるをえないのだ。
 

 しかし、王女は納得しない。
 王女のいつになく真剣な眼差しを受け止めて、アンクエレの飄々とした態度が僅かに動いた。

「陛下はこのところ、神事に尋常でないご様子で没頭されているそうでございますから、そのお疲れがでたのではございませんか。王妃様は随時侍女と医師を差し向けておられますし、何と申しても陛下ご自身がそうしたいと仰せでございますから、お止めする術はいまのところございますまい」

「でもあのご様子では心配だわ。神事に臨んでいらっしゃっても、心ここに在らずといった目をなさるのよ。熱心すぎてお体に障りがでるのではないの?第一、国務はどうしていらっしゃるの?」

「それは万事宰相閣下が差配なされておいでですから、陛下は存分に結願まで神殿にご滞在になられるでしょうね」

 その口調に幾分皮肉の粒子が紛れ込むのを、勘の良い王女は聞き逃さなかった。

「ヌートがそう唆していると言いたいわけね」

「とんでもない。ファラオの祈りは神聖にして強力無碍なもの。余人には替えられませぬ。あれほどの傾倒ぶりからして遠からず祈りは聞き届けられ、王国に平穏が戻るでしょう」

「では、姉上がご一緒でないのは何故?そんなに大事な神事を、わたしに代行させるなんて何を考えておいでなのかしら。それにこのところ、あちこちにお出掛けで滅多にお目にかかれない…」

 不満そうに呟く王女の前に、すっとアンクエレが近づいた。彼は王女の前に膝を折ると、その柔らかい手をとり

「王妃様は、王領の見回りや州侯領地の視察、それに後宮領の監督の御用でお忙しいのです。加えて陛下のご名代のお役目もございますしね。ですから、キヤ様がこうして神事の代理を立派に努めて下さることは、何より王妃様の負担を軽くすることになるのですよ。今日の報告をお聞きになれば、さぞかしお喜びになることでしょう」

「お前のその空口上には騙されないわよ」

「何ですと?」

 アンクエレは意外なことを聞いたというふうに、眉をひそめた。いつもならこのあたりで、王女の不機嫌も納まっているはずであったから。しかし、王女の目は益々苛立たしそうな光を増している。

「近頃の姉上の御振る舞いはヘンよ!いつもなら、陛下のご様子を一番に気に懸けておいでなのに、ふた月近くも陛下のお傍を離れっぱなし。かとおもえば、出ずとも良いといわれた評議に押しかけておいでになる。いくら陛下が姉上を遠ざけようとなさってるからといって、そんなことをご承知になるはずがないわ。姉上は、ああ見えて人一倍誇り高い方だし、だいいいちあの移り気な陛下を心から愛しておいでなんだから!そうでしょう?」

 王女は朱唇をひるがえすようにして語気鋭く問うのである。

「…それは…」

「姉上は何か目論見がおありなのだわ。お前もそれを承知ね。わたしを子供だと思って、適当な嘘で誤魔化そうとするのはお止め!」

 そう一気に言い放った王女の顔には、もう駄々をこねる子どもの面影はどこにもなかった。相手の心底を見透かそうとするかのようで、極めて落ち着いた表情である。それに気付いたアンクエレは、ゆっくりと頭を垂れると

「これは失礼をいたしました。この身はキヤ様を侮るつもりなどは毛頭ございませんでしたが、ご不快な思いをさせた点はお詫び申し上げます。しかし、重ねて申し上げますが、それはキヤ様のお考え過ぎでございますよ」

「そうかしら?」
 

「左様でございますとも。王妃様は、行幸先からいつも陛下の御身の回りを案じられる使者をお遣わしになりますし、陛下のご様子も王妃様の許に逐次知らされております。決して陛下を蔑ろになさっているわけではないのですよ」

 淡々と説くアンクエレの平静な顔を射抜くように見下ろして、王女はすっと立ち上がった。

「ならばそういうことにしておきましょう。わたしはこれまでどおり、姉上の名代を努め、王女に相応しく王宮で勉学に励んでおればよいのですね」
 
そういって、ぱさりと肩に打ちかかる髪をかきあげ、アンクエレの方を見ようともせずに横を通り抜けると隣室の扉に手をかけた。

「キヤ様、お待ちを」

 そう呼び止めたアンクエレの声に、王女は手を扉にかけたまま、きわめてゆっくりと振り向いてみせた。その拍子に、手首まで覆っていた袖がずり下がり、今では肘上まで露になった王女の右腕には、遠目でもそれとわかるような打ち身の痕がある。手にも、ヘンナで模様を描いた化粧や宝飾品で巧妙に隠されているとはいえ、明らかに傷痕と思しき物騒なものが見えていた。それらは、到底、今日の王女の華麗な出で立ちにはおよそ相応しからぬものに見えた。アンクエレは正直なところ、内心溜息をつきたい思いである。

「まだ何かあるの?」

「先ほど女官長殿から聞きましたが、先日、キヤ様におかれましては、奥庭でファラオ付きの女官の一人を打擲(ちょうちゃく)なされたそうですね」

 いささか苦々しい表情になったアンクエレを冷ややかに見返して

「ああ…そのこと。身のほどを弁えずに、聞き捨てならぬ暴言を吐いていたので、打ち据えてやった。わたくしがあのとき、剣を持っていなかったことを感謝すべきじゃ」

 王女は14の少女とは到底思えぬ冷酷な物言いをする。いかにも勝気そうな王女の面に怒りの朱が走ったのを見て、アンクエレは、おそらくその侍女が王妃について何か不遜なことを言ったのを耳にした王女が、とっさに怒りを爆発させたに違いないと察した。そうでなければ、いくら気性が烈しい大王家のこの姫とはいえ、無力な侍女を失神させるほど打つなど考えられないからである。王女がその時手にしていた乗馬用の鞭で侍女を力任せに数度打ちのめし、哀れなその侍女は転倒した拍子に頭を打って気絶したのだという。幸い意識は取り戻したが、怯えて未だ床から出てこられぬ有様らしい。
 歳若くとも活発な王女は存外力が強く、烈火の気性のままに鞭を振るえば老齢の女官長や、か弱い侍女などでは到底手向かいはできない。偶然その場に居合わせた男性の監督官が止めなければどうなっていたことでしょうか、と女官長は恐れおののいてアンクエレに語った。最近、乗馬に加え剣の稽古まで始めたこの王女の言うとおり、場所がもし武器の携帯が許されない奥宮殿でなければ、その侍女は命を落としていたのではないかとさえ思われる。

「キヤ様、しとやかにとは申し上げませぬが、せめて理(ことわり)の判らぬ召使には、慈悲をもって臨まれませ。それが上に立つものの度量と申すべきです。キヤ様のお怒りはお察し申し上げますが、王妃様のお留守中にそのような騒動をおこされるのは感心しませんぞ」

「お前はさきほど、留守中の姉上の名代はわたくしと言ったばかりではないか」

「それは神事のことにございます。後宮の御主は、あくまで王妃様にございますよ」

 アンクエレの言を聞くなり、王女はバンと力任せに扉を平手で叩いた。

「ああそう!わたしはそれこそ、ウセルヘル侯の侯子の一人とか、先ごろ妃に先立たれたというクシュの王子とか、あるいは亡き父上ゆかりのウアス家のどなたかに嫁ぐのだから、王妃の真似事などせずともよいとお前は言いたいのね!」

「何を仰いますか!そんな馬鹿げた話を誰が御耳にいれました?」

 さすがに色をなしたアンクエレに対して、王女は吐き捨てるように

「誰だっていいわ。いいえ、それこそわたしがその誰かの妻になるにしても、あのファラオの妃になるよりずっといい。それが女を追い掛け回すしか能がないあのウセルヘル侯の息子でも、流行の鬘にしか興味がないウアス家の若殿でもね!姉上が誰かをお選びになって、わたしにそこへ嫁げと仰るなら喜んでお受けするわよ」

「キヤ様、お口が過ぎまするぞ。ファラオの御意向を何とお考えなのです」

 アンクエレが鋭く叱責するように言っても、王女は切れ長の目を爛々と光らせ

「ああやっぱりそうなの!わたしはよりによって姉上の夫ぎみに嫁がねばならぬのね?あの愚かな侍女はね、アンクエレ、こともあろうに『王妃様は最近方々の神殿へ出歩いてばかりだけど、あの地上のイシスは本来載せるべきファラオじゃなくて、案外別のモノを載せるんじゃないの』と申したのよ、汚らわしいっ!どうせあのへんの、陛下の馬鹿な取り巻き連中がそういってるんだわ!奴らも、そんな下劣なことを言わせたままになさる陛下も赦せない!」

「キヤ様、御声が高うございますぞ」

 苦虫を噛み潰したようなアンクエレの注意も、一度燃え上がった王女の瞋恚(いかり)の炎を鎮めることはできない。王女は居間をぐるぐると歩き回りながら、ますますなじるような調子で言うのだ。

「何よ、1年も叛乱軍を鎮圧できぬあのファラオを庇う気なの?いっそわたしが男だったら!そうしたらぐずぐずと王城に籠もって何もせぬあのかたに代わって、ここを出られたのに!姉上にもあんなご苦労をおかけすることもなかったでしょうよ!」

 だが、アンクエレの静かな一言が王女の足を釘付けにする。

「姫様が男御子でいらっしゃったなら、今頃御命はございますまい」

「え?」

「キヤ様はお忘れですか。父君は違うとはいえ、同じムテムゥイア王女様から御生まれになったあなた様の兄君、トゥトモーセ並びにシェマイトラーの両殿下は今のあなた様より若くして暗殺されておられますぞ」

王女は絶句する。アンクエレは瞬きもせぬまま続けた。

「6年前の内乱でもキヤ様がご無事であったのは、あなた様が幼くていらしたからではなく、センウセレト殿下の対抗馬になりえぬ幼い王女であられたからです。それ以降の出来事にしても、全てただの偶然ではありえませぬ。姉上様があなだ様だけは御守りするとお誓いになられたからこそ、つつがなくご成人式を迎えられるまでになられたのですよ。よい機会ですから申し上げますが、こうまで王家の力が落ちた今、キヤ様が男か女かなどは大して重要なことではありませぬ。陛下が王都を動かれぬのも大王家の長としてのお考えがあってこそ。となれば今は、御静かに王宮にお留まりあって、姉上様がご指示なされた責務を果たされること、これがあなた様がなすべき全てでございましょう。僭越ながら王妃様ならそう仰ると思われますが、如何ですか」

 アンクエレはどこまでも冷静であった。だが、普段は飄々たる彼の表情に現れた凄みをみてとって、利かん気な王女もさすがに黙り込んだ。
 沈黙した王女は、ふっと拗ねたような表情になり唇を噛む、

「わたしが気に入らないのはね、アンクエレ、姉上がずっとわたしを無視していらっしゃることなの!」

「おや、これはなんとお可愛らしいことを仰る」
 

 アンクエレの余裕の笑みに迎えられ、王女は思わず口をついて出た自分の言葉の幼稚さに、かっと赫くなってしまった。しかし、王女の勝気な気性を隅々まで知り尽くしたアンクエレは、からかいはそのへんで引込め、すぐに本題に戻る。

「しかし姫様、王妃様は決して無視など…」

「いいの。お前のとりなしなんて要らない!戻られたら直接姉上に伺うわよ」

 そう言ってぷいと顔を背けると、また自室に引込もうとする。アンクエレは王女の背に 

「今、わたしの口からキヤ様にあれこれ申し上げることはいたしますまい。ただ…何があろうとこれまで通りになさいますようお願い申し上げます…姉上様の御為に」

それを聞くなり、振りむいた王女はしげしげとアンクエレの真面目くさった顔を見つめていたが、一呼吸おいて、頭を反らせ剛毅ともいえる声で笑い始めた。してやったりとでも言いたげである。

「やっと白状したわね!つまり、姉上はやっとヌートと戦をなさるお心を固められたということね。わたしには判らないとでも思っていたの?」

「……時には嘘も必要となります。不利な戦においては特に」

「そうね。でも私はそんな見え透いた嘘は大嫌い!秘密なら判るけれど」

 一瞬言葉に詰まったアンクエレに、王女は更に

「アンクエレ、お前に姉上が何を命じられたのかは詮索しません。それが、おそらくはお前のいうお前の責務なのでしょうから。だけど、これだけは言っておくわよ。お前の顔は初めてわたしの所へ来た時の頃のように陰気そのもの、昔のお前に逆戻りしたみたい。自分でそのことに気づいているの?だから暫くお前の顔は見たくない!」

 そう言い捨てて、王女は今度こそ隣の自室に姿を消した。
 ばたんと乱暴に閉ざされた扉の向うからはもはや何の物音もしない。寒々しいような沈黙が還ってくるばかり。その前に立ちつくしながら、憮然とした思いで、アンクエレも王女の言葉を反芻してみるのだった。声にならぬ呟きが彼の胸の中で反響する。

(己がどのような醜い顔になっているかなど、鏡を見る前にとっくに判っておりますとも。だが、それも王妃様のご苦悩に較べれば、さしたることでないこともまた承知。聖池の水のように清いあなた様は知らずにいればよいのです。姉ぎみが、あなたを守るためにどれほどの恥辱と嘘と秘密を抱え込まれているかなど)
 
 アンクエレは考え事をするときの癖で、無意識にその美鬚に手をやっていた。
 おそらく王女に根拠のない縁談話などを吹き込んだのは、持病の神経痛の悪化で気弱になったせいか、このところとみに判断力の低下がみてとれる女官長のカイトであろうと見当はつく。だが問題は、カイトが誰からそのような話を聞かされたか。

(ウアス家の若君とはまたどこから出た噂やら…確かに、あちらには16になる公子がいらっしゃるが…。そうか、姫の侍女のヘネトはあの家の縁のものだ。出所はあのあたりか)


 アンクエレとしては今度の企みには慎重にも慎重を期しているつもりだが、後宮の内部というのは案外に複雑怪奇な人脈の糸が張り巡らされていて、優秀な諜者でも攪乱されがちである。老女の埒も無い噂話が発端にしても、それを蒔いた者、あるいは誰かに聴かせたい者がいるかもしれぬ。まして噂というものは侮りがたい伝染力をもつものだ。その情報の発信源がどこか探らせねばと心を引き締めるアンクエレであった。
 そのまま、王女の居間を辞したアンクエレは、脇の回廊伝いに後宮工房のほうへ進む。
 と、その手前の泉水のあたりで足を止めた。
 彼が捕らえた微かな気配は、植え込みの影にある。

「報告せよ」

 アンクエレが泉水を覆いつくした若蓮を見ているふりをしながら、その影へ低く声をかけた。

「王妃様より家令様へ、『接触成功』とご伝言あり」

「よし。で、次の御指示は」

「ワディ・マガラの例の書簡を急ぎクセイル港へ届けよとのことでございます」

「…判った。早急に指示しておこう」

 その間アンクエレの頭脳の動きをうかがわせるものは、気ぶりも表に出ない。いつも瀟洒な風体のこの家令は、きょうも丈の長い腰布に白い頭巾、肩からはたっぷりと襞をとった白いマントをひっかけ、表向きは控えめな書記にしか見えないのである。だが彼の紡ぐ言葉は、決まりきった数量でもなく儀礼的な修辞でもない。まして、思慮深げな目の底にある強い光は、我が身の安逸のみを願うおおかたの官僚のそれではなかった。

「他にご命令があれば承りまする」

 葦の茂みに潜んだ者は、アンクエレが決断する間をみてとって、絶妙のタイミングでそう答える。アンクエレから姿は見えぬものの、意外に柔かいその声の主はひょっとしたらまだ少年か、あるいは女なのかもしれなかった。だが、アンクエレが知るのはその者の通称と、この謎めいた声だけなのである。それが《ナルカ王家》の牒者とそれを遣う者との絶対的な境、影の者の日なたの姿を知ろうとするな、かの者たちは文字通り影にすぎぬ。ゆめ忘れるな―――彼にこの職を譲った大家令のセケンレ老人は、引き継ぐに際し、後継のアンクエレにそう釘をさしたのだった。彼とても、いかに興味が沸こうとその一線を越えるつもりは毛頭ないのだが。
 アンクエレは手短に調べてもらいたい用件を告げた。すると、しばらく沈黙があって

「では一両日ほど猶予を頂戴できましょうか」

「任せる」

「はい。ではまた後ほどいつものようにご連絡を」

 そういうがはやいか、忽ち気配は消えうせてしまった。その間、瞬きするほどもない。
 庭園に咲き乱れる色とりどりの花を見やりながら、アンクエレの美髯が僅かに歪んだ。

(まだ誰の血も流れてはおらぬが…まさしく戦ははじまっているのだな…キヤ様の仰るとおりに)

 にしても――姫に悟られる程度の企みでは先が思いやられる。もっと巧妙に、そして慎重の上にも慎重を重ねる必要があるな――と苦笑する。  

 しかしふと、王女も大人になりつつあるのだろうか?と自問してみるのだった。王女が先ほど見せた駆け引きを楽しむような表情が、はっとするほど姉王妃のそれを思い出させたからである。但し、どちらも今のところアンクエレしか眼にしたものはいないはず。宮中では、ナァ・イテルゥの流れの如き穏やかな王妃に似ぬ妹姫はさしずめ燎火、と評すものがある。だが、真実は逆ではないかとこの冷静な家令は思うことがある。
 大王家に生まれた者は、生まれながらに猜疑と不信が血に溶け込み、血族の怨嗟を子守唄に成長せざるを得ない。《ナルカ王家》の最後の姉妹の仲睦まじさは、彼がたった今王女に告げたように、その陰惨な家系の歴史でも例外中の例外で、幼い頃に父と兄を悲惨な体験で亡くした姉王妃の固い決意から生まれた稀な絆である。であるからこそ、一見あれほど優美明朗な王妃は激烈な炎を秘めているのではないか。そして、燃えあがる焔と見える妹姫の激しさは、生来の気質もさることながら、少女期特有の潔癖さに負うところが大きいのではないかとも。なぜなら、ネフェルキヤ王女はまだ月の障りを知らぬ文字通りの少女であるから。だが少女は一夜にして変わるものだ。時が満ちれば、それがいずれどのような変質を見せるかは、彼にもわからない。しかしきっかけは何であれ、やがて王家が決定的に追い詰められる事態になれば、ネフェルキヤ王女といえども、まどろむ子供ではいられなくなる。ファラオはなぜ戦に出ないのかと憤った王女は、まさしく、武勇で名高い《ナルカ王家》の末裔であることをアンクエレに強く印象付けたのだ。
 そして、惜しいことではあるが、王女の曇りのないあの性格もやがて変貌せざるをえなくなるだろう――と。姉王妃のように、身辺の誰も信ぜず心中を明らかにしない態度が、王族にとっての美徳なのだから。それはそれで、痛ましいことには違いないが、そうでなければ彼らは生き残れないこともまた事実なのである。
 
 ネフェルキヤ王女はこのとき14歳。今年中には儀式を経て正式な成人となる。




 一方、下エジプトにおいて、叛乱軍と王軍の衝突はまたも膠着状態を迎えていた。
 ワァルト軍と呼ばれているとはいえ、その主体は14番目の州ヘンティ・イアブティ(上東方)の兵士だけで組織されているわけではない。首魁は、上東方州侯アアム・ワァルトであることは間違いないが、彼がこれほど勢力を伸ばしたのには、背後の19番目の州イメティ・メフウ(北王子)を抑えたことが大きく寄与している。エジプト帝国の版図でも最東に位置するこの州は、「ホルスの道」とよばれる国境戦を守備するために置かれたものであり、州内の海岸沿いに点在する三つの砦がその役目を担ってきた。
 上東方侯は電撃戦でこれらの砦を落とし、挨拶がわりに北王子州侯と砦の指揮官を即座に処刑し、指揮官テティアン将軍の耳を王都へ送りつけたのである。
 かつてセメンクマアト大王もてこずらせたという、ヒカウの民の血筋を誇る上東方侯アアム・ワァルトは、その家門名の「アアム」が示すとおり、元は数百年前に北から流れ込んだ騎馬の民の末裔である。ヒカウともヒカ・クソスとも呼ばれる彼らは、長い年月をかけて下エジプトに定住してゆき、黒土の国の民となった。しかし、依然として東のカナーン諸州との結びつきは切れず、このたびの反乱にもビュブロス、ガザ地方の小都市の藩王たちが後押ししていることは周知の事実である。彼らは、この国の東の入り口を手に入れ、肥沃な東デルタで先祖が積み上げた富の蓄積を背景に、陸路から運ばれる富や民の流入を統制している。アアム・ワァルトは叛乱軍の頂点に立ち、州都アヴァリスからじわじわと勢力を広げていた。誇り高い騎馬の民の末裔であることを強烈に意識するこの男は今年46歳。非情で残虐な反面、並びなき勇猛さで部下を束ねる男であるという。

 その叛乱軍の勢力圏の最南端の川沿いの町から、小さな船がすべり出た。
 小船の上には小柄な陰が立ち、音も無く竿をいれて悠々と陣地から遠ざかっていく。船頭は夜目にも慣れたようすで、まっすぐに南を目指した。
 そしてしばらく川を下った頃、前方に小さな灯が瞬くのを目に留めるや進路を曲げ、右岸の葦の茂みに紛れ込んでしまった。
 

 彼は小船を乗り捨て、岸に上がり目印の灯りを辿って、でこぼことした岩山の一つに空いた自然の洞窟に滑り込んだ。そして、彼の前に腰掛けた穏やかな風貌の男の前にひざまづく。

「帰ったか、イピ」

「はい、御方(おんかた)」

 そう呼びかけられて、浅黒い若い男がいかにもはしこそうな顔を上げた。勿論、先ほどの船頭はこのイピである。彼は、このところ髪を切る暇もないのか、黒い巻き毛の髪が肩まで伸びていた。それを適当に括った顔も、痩せて顎が尖っている。そうすると頬骨が目立つため、実年齢よりずっと歳上に見えた。だが、彼の目に躍るのは相変わらず好奇心一杯といった光りである。
 一方、イピを待ち構えていた男は夜ともなると冷えるとでもいうように、すっぽりと大きな外套で体を包み込んでいる。さして広くもない洞窟の中は、二人を飲み込んで一層狭く感じられる場となっていた。しかし、イピにとって居心地の悪さは単に狭さだけから来るものでもないのである。目の前の外套からのぞく顔、ふっくらと肉付きのよい、眠たげな瞼の下から放たれる強烈な視線のせい。その眼は僅かの湿り気も無いギラギラとした強い光を放っていた。イピはその眼光にあわてて面を伏せるかのように、視線を落とす。
 男は早速せかせかとイピのほうに手を伸ばしてきた。

「で、どうであった?首尾ようあれを手に入れて参ったか」

「は、どうにか。途中で追撃を受けたらしく、折れてしまっておりますが…幸い、生き残りの者から話は聞くことが出来ましてございます」

 そういいながら、イピは足元の包みから細長い物体を取り出して差し出した。
 男はもぎ取るようにしてそれを手にとると、傍らの岩の窪みに立てた獣脂蝋燭の光りに掲げてしげしげと覗き込むのだった。

「ふうむ。折れているのは惜しいが…まあ、これなら何とかなるであろう。膠の成分が問題らしいと聞いておるが、それはアメニに解明させよう」

「どうやら数種の羊の腱を組み合わせるらしゅうございます。あとは、ニスが特殊であるとか」

「ご苦労。そこまでわかればあとは職人どもがやってくれる」

上司の珍しく感情の籠もった労いの言葉が嬉しいのか、イピはさっと得意そうな表情を浮かべた。

「さすが騎馬の民の当主の家に伝わる品じゃ。従来の盾では通用せぬはずよ」

 男――セケルの祭司長メリトゥトゥである――は、掌に握った肘から先くらいの長さの木製の物体を、何度も灯りにかざしながら折れ目からのぞく内部構造を確かめている。時折濡れたような光を放つ表面の艶を興味深そうに撫でてみたりしながら。彼の手にあるそれは、例えるなら、リュートの棹のように弧を描く、親指くらいの太さの木の枝に見えぬこともない。だが、見た目は優雅でも、これが生み出す恐怖は近隣に鳴り響いてきた。
 複合弓、即ち、騎馬の民ヒカウに伝わる強い殺傷力を誇る軟弓である。

「御方様、これでわがプタハの職人たちも面目を施せると申すものでございますね」

 息を弾ませる若者に対し祭司長は皮肉げな眼差しを返し

「これがすべてを決すると思うのか?随分と楽天家じゃな、ホリの息子よ。我らはワァルトに対しひとつ駒を進めたに過ぎぬわい。この弓が復元できても、これほどの強弓を引ける兵士は直ぐには確保できぬ。それに奴らの戦車部隊もまだまだ侮り難い。テュロの海上商人と結んだ奴らの地盤は磐石で、依然として、ケメトの未来の大部分はあの男が握っているのじゃからの」

「しかし…御方こそがケメトの未来を決せられると、父は申しましたが」

「まさか!我らは、伝説の神王ホル・アハの御世以前からこの地にあるが、決して表にでることはない。此度とて我らの心願が叶うならば、ワァルト侯であろうが、大王家であろうが手を結ぶに吝かではないというだけのこと」

「大王家はわれらが神殿の宿敵と申すべきではないのでしょうか」

 不思議そうに問い返す若者に苛立ったように、メリトゥトゥは被っていたフードをはらりと落とした。途端、薄暗がりに眼ばかり鋭く光ったように思えて、イピは一瞬身をすくませた。

「もういい加減その思い込みは捨てぬか。ジェドカラー王そのひとであろうが、アメンの大神官ヌートであろうが問題ではない。我らはその時最も適う相手に組するのだ。でなければ兵を待たぬわれらなど忽ちナァ・イテルの泡沫と消えるしかない。そのこと肝に銘じておけ」

「……失礼致しました」

 だが、元来向こう気の強いイピは重ねて問い返したい衝動を抑えきれず、くいと頭を上げて問い返した。

「では、その要求に適えば、別の人物でも良いと仰せられるのですね?」

 その真剣な口調にメリトゥトゥは眼をすっと細め

「例えば?そちの悪友か?そちの父は随分あの男に貸し込んであるらしいの」

「彼ではならぬと仰せになりますか」

 それには答えず、祭司長は手にある弓の残骸を大事そうに包んで膝に置き、再びフードを被りなおすのだった。

「担ぎ手を呼べ」

 短く命じられて、イピは素早く頭を垂れた。その瞬間、思わず目の前のものに目を奪われる。メリトゥトゥの灰色の衣の隙間から子供のように細い脛が覗いていたのだ。 

 プタハ神――【顔美しきもの】あるいは、【職人の守護神】と呼ばれるこの神はときに、小人の姿で表現されることがある。それは、きわめて古い表現様式でプタハの本来の姿を伝えるとも言われているが伝説の域を出ることは無いという。ヒクプタハは、王軍の駐屯地があるギザを背後に控える関係で、そこへ武器を搬入する武器職人の工房も集中している。火と金属を自在に操る鍛冶師たちによって、強い鏃や刀剣などの武具、最新鋭の戦車の車輪などが生み出されていくのである。そしてその工房のほとんどが、職工人の守護神プタハの神殿に属するものであった。人間離れしたプタハ像も、もともとは、その昔冶金工に多かった小人を現したものという。
 だが、セケル神殿の祭司長は代々その姿を伝えてきた。
 『セケル』、時に『ソカリス』ともいう地下世界の神の起源は、今や闇の中に埋もれ、誰もその正確な由来を知るものはいないという。ただ、この神はヒクプタハの西北にある古の王たちの陵墓、ロ・セタウを守護する神と言われてきた。即ち、地上の闇と衰えを支配するヒクプタハの古き神であると。そのため、セケル神は死者の守護神として崇められてきたのであり、冥界の王オシリスの姿の一つだといわれることもある。そして、いつともしれぬ遥か昔に近隣のプタハ神官団に組み入られてからは、プタハ神にも擬されてきたというわけである。
 メリトゥトゥ祭司長は、幼少の頃に患った病の後遺症で足の筋肉が十分に成長しなかった。背丈は12−13の少年並で、そのうえ輿に乗るか召使に担がれてでなければ移動することも困難である。彼がセケルの祭司長に選ばれたのは、その才覚もさることながら、外見的な要因も大きく作用しているとイピは父親のホリから聞いている。
 しかし、彼はその不自由な足をものともせず、動乱の続く下エジプト中を密かに駆け回っている。その手足となるのが、代々プタハ神官団の影の者「プタハの僕(しもべ)」として契約してきた人間で、別名『プタハの目と耳』と呼ばれるものたちである。イピが父親のホリの見習いとしてこの生業に身を投じて、すでに半年が流れている。
 以来、周囲を欺きつづける生活を送ってきた。
 ホリ以外、彼の仕事の真の内容を知るものはなく、王都で商売を営む兄たちすら秘密であった。表向きは今までと何も変わらぬ、明朗で口の達者な好青年のイピでありながら、彼の目は契約主プタハ神殿のために、彼の舌は彼の主のためにある。秘密が漏れれば、舌を噛み瞬時に死なねばならぬ。


――栄えあれ、御身、ウネスより来る言葉巧みなる神よ、我は闘争を扇動せしことなし。

――栄えあれ、御身、ヒクプタハより来れるネフェルテムの神よ、我は人を欺き、且つ不正を働きしことなし……

 死後にオシリス神の御前でしなければならぬという罪の否定告白の一節が脳裏をよぎれば、時に心中複雑なイピであった。だが、謎めいたセケルの祭司長と行動を共にするうちに、今まで味わったことのない駆け引きのスリル、只人には手の届かぬ機密に触れる高揚感、あるいは諜報活動の麻薬めいた緊張感とでもいうべきものに、年若い青年の覚えた当初の苦さは麻痺しつつある。

 (俺はひとかどのものになりたいんだ、それのどこが悪い。兄貴たちのように、強欲な神官や威張りかえった書記の顔色ばかり窺って歳をとり、王都の壁の中だけ見てつまらぬ人生を終わったりしてたまるか!)
 
 そう決意する時、イピの油断の無い眼が飢えた山犬のように輝くのだった。その輝きを時折父親のホリが不可解な表情で見守っていることは、イピは知らない。




 夜闇に紛れて、ひたひたと一行は大河沿いを南下する。船は使わず、わき道をラクダでゆく彼らは一見どこにでもいる都会へ逃げ出す民の群のようだが、彼らの運ぶ人や物資は、沼地や沙漠を放浪するしかない民には到底考えもつかぬものである。彼らは最新鋭の武具を生み出す職人であり、それを運ぶ隊商路に通じた武装商人であり、またはそれらを売りさばくため国内に隈なく情報網を張り巡らせた諜報隊でもある。更に付け加えるならば、その現実的な商売人組織のもうひとつの顔は、天の星を読む天文集団でもある。彼らは、地上の変事と同じく天の星の運行にも神経を尖らせる。それが何故なのかは、内部でも謎とされているが。いずれにせよ、太陽神アメン・ラーに勢力を譲り渡したとはいえ、彼の神殿の影響力が、この黒土(ケメト)の地で失せたわけではない。

 彼らの頭上に、細長いトト神が蒼ざめた貌をみせ、澄んだ光を投げかけていた。夜の月は万物に命を与える魔力をもつと古来より信じられている。

 トキの頭を持つ月の神トトもその由来は古く、一説によると、プタハ神の眷属であるという。

 トトはプタハの舌であり、プタハの心臓はホルス。青白い月光に見守られて、今、太古の星の神々を奉ずる者たちがゆく。 






12章に続く 



 

10.北の都にて

「ご丁寧な挨拶痛み入る。だが、生憎ここは王宮ではない。礼儀知らずは軍人の習いと思って戴いて、さっそく御用件を承ろうか。王都のお役人が、わざわざ私の個人的な伝手を辿って面会したいと仰るからには余程の御用であろうから」
単刀直入なアヌイの言葉に、さすがのアンクエレもちらりと苦笑した。
「わたくしは『王都の役人』ではございませぬ。それゆえに、敢えてウァセト(テーベ)とはつながりのない、あなたの補佐官のご家族のお手を煩わせたのですから」
そして、イフナクテン老人に視線をおくるや、心得たように老人は室を出て行った。
扉が静かに閉められて、狭い室内には、アンクエレとアヌイの二人の男のみが向かい合うことになった。ちなみに、アンクエレはアヌイより4歳年上であるが痩せ型で物静かな外見のせいか、もう少し年上に見えなくもない。だが、そんなことこそ実際家のアヌイにとってはどうでもよいことだった。あくまで礼儀正しい物腰の書記を冷ややかに見つめ、無言で座るように促した。
「これで宜しいかな、ご使者殿」
 二人は小さな机を挟んで向かい合い、アヌイは改めて目の前の書記風の男の顔をとくりと眺めている。男の左中指には、小さなスカラベを模した印象指輪が嵌っているのを目に留め、アヌイは薄闇のなかで鋭く目を光らせた。ファイアンス製のスカラベに、小さく象嵌された金の台座(アセト)の徴が煌いているのが見えたからである。一方のアンクエレは、アヌイの強い眼から視線をそらすことなく、軽く両手を組んで机に載せると、背を伸ばして物静かに切り出した。
「ではお言葉に甘えて、ずばり申し上げましょう。わたくしは、《ナルカ王家》の執事とは仮のことで、実は王妃さま個人のお使いとして参りました。以後、わたくしの言葉は王妃さまの許可を得たものとご承知ください。アヌイ侯、王妃さまはあなたにご助力なされたいと仰せです」
とたんにアヌイの真直ぐな眉が跳ね上がった。
「ということはつまり、わたしを悩ませるヌートの横車をへし折る手伝いをしてくださると。かように王妃さまが仰せだと解して宜しいか」
「左様です。侯には王都の現状を耳にしておられましょうな」
「いささかはな」
 他人事のようにアヌイは言う。
「いや、かなり精通しておられるはずですよ。ファラオは、もはや宰相の操り人形と化しておられる。ただ為すがままなら害も少ないでしょうに、宰相はファラオの癇症をご承知で唆すのですから、もっと悪い。それでも、巧妙に政敵を葬り去るあの方の手腕は見事というしかありません。穀倉長官も故オスリク殿から数えて既に3人目です。もともと、陛下はご気性の烈しい方お方ですが、昨今の御振舞は常軌を逸しています。王妃さまはそれを宰相が助長しているとひどくお怒りなのです」
 アンクエレがわずかに怒りを滲ませるようにして語った言葉にも、アヌイはさして興味を惹かれたようすもなく、漫然と指で唇を擦りながら相手を見返すのだった。
「はあ…それでわたくしめに何をせよと?」
「ことさらには」
「何?」
「これから王妃さまは宰相に罠を張られるのです。侯は、黙ってみておられよ。例え、宰相があなたを叛逆者として告発しようと、失脚すればそんなものに効力はありません。侯は嵐の過ぎるのを待ってくださればよいのです」
「ははあ。つまりわたしが黙って寝ておれば、わたしの名誉と未来を王妃さまが保証してくださると」
「さようにお考え下さって結構です」
 アヌイはアンクエレの視線をとらえたまま沈黙を続けたが、合点が行かない様子で眉を顰めた。
「わたしにとっては実に有難い話だが、王妃さまにはどのような益がありますかな?ヌート一人を失脚させるに、こんな遠方の州侯風情を頼られるのも…」
そういって一瞬視線を彷徨わせたアヌイは、ニヤッと合点したように笑った。
「そうか、奴の飼い犬どもの始末か」
 アンクエレは、アヌイのわざとらしい芝居にも動じず
「そこにお気がつかれて安心しました。いかにも、今や王都にとってはワァルト叛乱軍よりも、大王葬祭神殿が抱えるアシャの傭兵団の方が困った存在となりつつあります。彼らの首領はヌート宰相に心酔しておりまして、宰相に何かあれば、黙っておりますまい。例え、王軍の近衛連隊をもってしても、抑えきれるかどうか…。下手をすれば王都は大混乱になる恐れがございます」
「今更なことを。わたしに言わせれば、身のうちで毒蛇を飼うほうが馬鹿げている」
 アヌイは無情に言い捨てるのだった。
「ですが、その蛇の毒は王都ばかりか、この黒土の国全体を侵すものです。宰相を失脚させたあと、アシャの暴走を抑えられるのは、国中でもあなたさまの西州軍しかおられませぬ」
「光栄だが、その役目、真っ平御免ですな。ワァルトの阿呆のおかげで、メフウ(下エジプト)の秩序はガタガタになってしまった。わたしも被らぬでもよい泥を被り、宰相には眼の敵にされたせいで、我が方よりの嘆願は尽く排斥された。こちらも随分迷惑しているのだ。この上わたしが、王都の権力闘争に首を突っ込めば末路はどうなるか、8つの子どもでもわかるだろうよ」
「いえ、宰相の命運は、ワァルトよりはるかに短いと思しめせ」
そういってアンクエレはアヌイに対して不敵に言い放った。彼もまたいささか芝居じみた態度ではある。
「失礼…アンクエレ殿とやら……貴殿は何を根拠にそう…?」
アンクエレは、タコの出来た指を組み合わせながら、訝しげなアヌイに向かってとうとうと弁仕立てはじめた。
「宰相の傲岸不遜な振る舞いを面白く思わないのは、なにも軍の方ばかりではございません。むしろ、同じアメン神官から強い反発があがっております。宰相は、王命を盾にどんどん王領をひろげつつありますが、それは名目上のことで、それらはすべて宰相率いる大王葬祭殿に寄進されております。これを、アメン神官団でも最高の権威を誇るイペトスウト(カルナク大神殿)の長老方はおもしろくないと不満に思っていますよ。宰相は、王の個人的信頼の上にあぐらをかいておられるだけで、その基盤は極めて脆弱なものなのです」
「そんなことは誰でも知っておるわ。問題は、その宰相は強大な軍をも動かすことができるまでになったが、彼を追い落とそうという王妃にはそれがないことだ。老獪なヌートには、あの美貌も通じぬ。あの方が、亡き父君の軍を自在に動かしえた5年前のセンウセレト内乱の時とは、事情がちがうのだぞ。それに、あの戦で随分財産も失われたはず。戦をするには、金がかかることは身をもってお知りになったであろう」
「それは王妃さまとて十分ご承知。候のご指摘のとおり、わが《ナルカ王家》の領地はあの戦で激減し、加えてこの度の大地震がそれに追い討ちをかけております。後宮の経営一つをとっても痛い出費には違いない。ですが、軍を養うばかりが戦でないことは、侯もご承知でございましょう。とりあえず、王妃さまは《ナルカ王家》のお方であるとだけ申し上げておきます」
 アンクエレはそう言うとまた無表情に戻った。
それをじっと眺め、アヌイはとんとんと目の前の机に拳を打ち付けはじめのだった。どうやらそれは考えを纏める時の彼の癖らしい――いかにも武人らしく刀傷だらけで節くれだった彼の拳をさりげなく観察しながら、アンクエレは慎重に相手の顔色を読もうとした。
 だが、その音がピタリと止んで再び口を開いた相手の言葉は、彼の予想を外れるものだった。
「なるほど、大王家お得意の謀略か。だが、それが失敗すれば、王妃の座は危ういぞ。あの王にそこまでして尽くす価値があると思われるかな?」
「!」
「今の惨状を見るがよい。わずか4年前だ、あの王妃――いや当時はティティス王女か――が先頭にたち、婚約者のジェドビィ王子の頭に二重冠を載せたのは。これは追放された僻みで言うのではないぞ、アンクエレ殿。わずかの間に、王はオスリクにヌートと二人もの愚かな者に頼りすぎて国を乱した。この事実は動かし難い。王は、良くも悪くも人に動かされすぎ、しかも諫言に耳を貸さぬ。これは統治者として致命的欠陥だ」
「侯…あなたは…」
予期せぬ言葉に、流石のアンクエレの余裕も崩れた。
「王妃さまにお伝えせよ。今のままあの王を押し立てているかぎり、また再びの混乱は避けられぬ。応急処置など無駄なこと。やるなら、もっと根本的な処置が必要だ」
「あなた様ならどうなさると?」
「わたしが?王が退位し、王妃が二重冠を戴けばすむではないか。古代のセベクネフェル女王の例もある。王妃なら、血筋から言っても文句は出まいよ」
 アヌイは真剣な面持ちだった。それをみつめるアンクエレの冷静な表情に、刃の如き鋭さが増していく。それでも、アンクエレは表面上は一向に激昂するでも、憤慨するでもなかった。
「型破りなお人だと伺ってはおりましたが、今の王都の役人には考えられないことをおっしゃいますね。王を退位させよとは!そのような前例は聞いたことがありませんぞ。ファラオの坐(いま)さぬケメトなど誰が納得しましょうか。それに大王家からは未だ一人の女王も立ったことはないのですよ?」
「この際王妃を名実共にファラオとせよ、と言っているだけだ。表向き、王の退位が不可能なら、どこぞに幽閉しておけばよいのよ。まあ一服盛るのが一番安上がりだが、さすがにそこまで王妃に要求するのは無理であろうな。念のために言っておくが、後半はただの例え話だぞ」
 ニッと白い歯を見せてアヌイは笑んでみせる。
「さて、果たしてそうでございますか?あなた様が実権を握られるなら、女王のほうが何かと都合がよろしいでしょうからね。王妃さまにそれに当てはまるかはともかく」
 アンクエレの皮肉にも、アヌイはくっと笑って 
「そういう貴殿も驚いたようすもないではないか。同じことを考えていたか」
「とうの昔から」
「それならなぜ王妃に進言せぬ。《ゼド王家》の王を戴くよりそのほうが心情的にも仕えやすかろう?執事というからには、貴殿も《ナルカ王家》の譜代の臣下であろうが」
「それは、わたくしの任に過ぎたることでございます」
アンクエレの声は鋭さを包み込んで無機的なものと化した。それが余計に、彼の感情の高ぶりを示しているように思える。それを見るにつけ、アヌイの心にこのアンクエレと名乗った美鬚の家令にたいする興味が湧いてきた。なかなかに複雑な人物らしいと。
「ふーーん、察するに個人的事情か。まあ、それは置いておこうか。で、見事ヌートを追い落とした暁には、私にアシャの相手をさせ、後ろではワァルトの両方を当たれと言うわけかな」
「畏れながら、そのときにはあなた様は、西州侯ではいらっしゃいますまい」
「はっ!王妃さまには、ヌートの現在の称号を、今度はこの身に賜るとでも?」
「はい。さようお考えいただきたい」
いきなり、アヌイは机を音高く引っぱたいた。
「馬鹿にするな!そんな空約束で、私が思いのままになるとでも?いかに聡明とはいえ、やはり女の考えることはその程度かっ!」
「いいえ、それは侯のお考えちがいというもの」
 アンクエレは、はっしとアヌイを睨みつけて更に身を乗り出した。
「王妃さまは、真剣にあなたを政庁に迎えて、国政に参画させたいとお考えです。そもそも、あなたが西州侯に任ぜられることが決定したとき、王に考え直していただけるよう何度も嘆願をなさいました。オスリク穀倉長官とケティ宰相の妨害で、聞き入れられることはありませんでしたが。アヌイ侯、あなたの軍歴と任地で示された手腕をぜひ、この黒土の国の未来に役立てていただけますまいか」
「断る!」
 明快な回答で、彼はいささかの迷いも見せなかった。
「なんですと?」
「アンクエレ殿。貴殿も、所詮は王都しか見ておらぬ役人に過ぎぬらしいな。王都は、我ら州侯をいいように使うだけで、本当に救済が必要なときには何の手も差し伸べぬではないか。そのくせ己に助けが必要となれば、餌をちらつかせてつろうとする…。そういうやり口にはもううんざりしたのだ。王都は王都で、お互い死に絶えるまで権力闘争をしているがいい。私は私の道を行かせてもらう」
「手に余るとなると、お逃げになるのですね!」
 席を蹴って身を翻したアヌイの背に、アンクエレは挑発的な言葉を投げつけた。アヌイはゆっくりと振り向き、己より随分と細身の書記を馬鹿にしたようにながめた。くっとその唇の片端がつり上がって、そこに顕れた酷薄な笑みは刃となってアンクエレを裂くかと思われた。
「王都の腰抜け役人に、なんと罵られようと一向にかまわぬよ。おぬしらはそうやって、後生大事に体面だけ守っておるがいい。わたしはもう、わたしを必要としてくれる者のためにしか戦わぬことに決めたのだ。本来わたしは北の単純な人間で、南の策謀好きな人間とは性が合わぬ。あちらがわたしを疎んずるなら、わたしはここでわたしの領分を守るだけのことよ」
叛徒として捕らえられてもしかたのないことを、今、彼は言ったのだった。それでいて傲然ともいえる態度である。
計算づくで挑発してみたものの、あっさりとかわされて、アンクエレは唇を噛んだ。確かに、修羅場をくぐった歴戦の勇士にたいして、いささか見え透いた放言だったかもしれない。だが、ここで引くわけにはいかない。必ずこの男を引き入れなければ、王妃と王女の未来に望みはないのだ。向こう見ずなほど勝手な言質を弄するアヌイの不遜な態度は、アンクエレに反感と不快感さえ覚えさせたが、それに引きずられるほど彼も感情的な人間ではなかった。かたりと立ち上がるなり、アヌイをきっと睨みつけ正攻法で陥落を試みる。
「王妃さまも、誠にあなたのご助力を求めておいでですが、それもお断りになられますか?それに、州侯は王の代理官であって、領地もあなたのものではないのですぞ!叛逆罪で誅伐されるお覚悟はおありでしょうね?」
「それが何だ。ならば、取上げてみるがよい。西メフゥ周辺で1万の軍を養えるほどに仕上げたのはこのわたしだぞ。神殿に篭もるしか能のない、北宰相パーセルあたりにそれが出来たか?王都の権威なぞ、糞食らえだ!」
「ならば、あなたも所詮ワァルトと同じ薄汚い輩にすぎぬではありませんか。女王を立てよと言われたその舌の根も乾かぬうちに、王都の権威を否定なさるとは!!結局あなたはこの国を割り、シェマウを掠め取るおつもりなのですね」
 それに対してアヌイは唇の端を曲げるようにして吐き捨てた。
「それの何処が悪い。この国が割れる時が来たのだ、アンクエレ殿」
 一瞬気を呑まれたアンクエレに、更に言い募る。
「大王家は滅びる。それは、火を見るより明らかな自然の理だ。今更、それに抗ってなんとするのだ?貴殿にはそれが見えていると思ったが、わたしの買いかぶりだったのか?」
「あなたのそのよく見える目には、ご自分の見たい未来しか映っていないのでしょうね。わたしに大王家の滅亡が見えるにしても、なぜそれを望まねばなりませぬ?」
「偽善者めが!それほど変化が怖ろしいなら、王家と共に沈むがよい!」
 そこまで痛罵されて、アンクエレはさすがにぐっと息を呑んだ。一瞬、手前勝手な非難を向けてくるこの男に対する、本能的な反発が頭をもたげたが、アヌイは更に押しかぶせるように続けた。
「考えてもみよ、今までこのケメトの国が一つであった時代のほうが少ない。この国は何かあれば直ぐに地方豪族が蠢き出す国だ。ここ200年ばかりそれを纏めていたのが大王家だったが、それが自ら消えてゆくばかりでは、この先ケメトの石積みそのものが崩れるもやむを得ぬだろう。偉大なメル(ピラミッド)とても、緩衝砂がなければ崩れ行くのは世の習い。貴殿の主にもそうお伝えせよ」
取り付く島もないような返事だった。事実、アヌイは今にも出て行こうとするばかりに踵をかえそうとして、アンクエレはとうとう叫んだ。
「では、《睡蓮のことを忘れたか》といえば如何です?」
 その言葉の威力に驚いたのは、アンクエレのほうだった。すらりと鞭のようにしなやかな、アヌイの体が雷に打たれたように固まり、ぎこちない動作で向き直った。その鋭い目に、尋常でない驚きが浮かび、骨ばった拳がぶるぶると震えている。つかつかと大股でアンクエレに近寄ったアヌイは、いきなり、アンクエレを壁に叩きつけると、そのまま押し付けるようにして首を締め上げた。
「な、何をなさいます!」
「それは何のことだ!!どうしてお前がそんなことを言う?」
 アヌイの形相は凄まじく、アンクエレは刃物のような殺気に背が粟だった。先ほどまでの、どこかふざけた風情の陽気な将軍は消え、牙を剥いた獰猛な獣のような男が自分を殺しかけている。締め上げられて息が詰まりそうになりながら、必死にアンクエレは声を振り絞った。
「わたくしは存じません。王妃さまからのご伝言です。《あの睡蓮のことを忘れたか。あのときの誓はいかがした?どうしてもあなたの助けが欲しい》とお伝えせよと…」
 それを聞くなり、首を締め上げる力が俄かに緩み、アンクエレは床に投げ出されて烈しく咳き込んだ。喉に手をやれば、ひりひりとした痛みが走った。危うく絞め殺されるところだったらしい。
「王妃がそんなことを…?」
 アヌイの呟きに、アンクエレは顔を上げ、そして再び息を呑んだ。先ほどまでの彼からは想像もつかないような、深甚な影がその顔を覆っている。憤怒だろうか、それとも恐怖か?アンクエレには見当もつかない。しかし、王妃の伝言が、この場の流れを一挙に変えつつあることを敏感に察しとって更に言葉を重ねた。
「そうです。ティティスさまは、政治闘争の駒としてではなく、真実あなたの力を頼りにしておられる。お願いです。わたくしは、永く姫ぎみにお仕えしてきましたが、このたびは、本当にどうにもならないところにまで追い詰められておいでなのです。あなたが見捨てられれば、ティティス様は文字どおり孤立無援となられ、このまま王に苦言を呈し続ければ、あの嗜虐王は躊躇わず、妻といえどもあの方を容赦なく処刑なさるでしょう。それを阻止できるのはあなただけなのです」
 アンクエレは、必死だった。王妃と西州侯の間にどんな縁があるのかわからないが、王妃の願いというよりも、ネフェルウルティティス王妃――《ナルカ王家》のティティス姫――の願いだという点を訴えたほうがよいと判断した彼は、巧妙に王妃の幼名を強調した。
 彼のその意図を見透かしたように、アヌイは目を細めて彼の言葉に耳を傾ける。獰猛な光りは消えていたが、今にも隙を狙って飛びかかろうとするかのような押し殺した気迫を感じる。
「如何です?アヌイ侯」
 覚悟を決めたアンクエレが、最後の問いを発すると、アヌイの面が歪み、苦虫を噛み潰したような表情で押し黙った。
 それはアンクエレにとって随分と長いものに感じられる沈黙であった。
 アヌイは、アンクエレを睨みつけてはいるものの、その視線は彼を透かして遥か先を見通してはいないだろうか?
 しばらくそうやって睨みあって、おもむろに、アヌイが短く舌打すると
「わかった。宰相云々の件は辞退させていただくが、王妃がヌート宰相を排除するのは黙認しよう。アシャの暴走も、わたしの出来うる限り食い止めてみせよう。これでどうか」
 少しは予期していたとはいえ、信じられない思いでアンクエレはアヌイの日焼けした顔を見つめた。自分の直感は正しかった。王妃とこの男の間には、なにやらいわくがあるらしい。彼があれほど嫌う、王都の権力闘争に加わる決心をさせるほどのいわくが。
それに興味はあるが、今は其れを詮索する時ではないとアンクエレは自制した。とりあえず、もくろみ通り西州侯の協力をえられたことで、満足すべきだと判断したのだった。
「ありがとうございます。これで、わたくしの役目も果たせたというもの。盟約の証にマアトの書をしたためて頂けましょうか?」
 危うく殺されかけたというのにあくまで礼儀正しく振舞う書記に、アヌイは剣呑な微笑で報いた。
「よかろう。こちらにも王妃様の御印を頂戴しようではないか」

 こうして、王妃ネフェルウルティティスと西州侯イブネセル・アヌイの間に密約が交わされ、王妃は王都で、西州侯は下エジプトでそれぞれ暗躍することとなった。



 それから数日後のこと。
「なんだかすっきりとしたお顔ね、殿」
 赤ん坊をあやしながら、ナスリーンは恋人の顔を不思議そうに眺めた。
「ん?そうか?そんなことを言われたのは初めてだが…」
 ナスリーンの腕から手馴れた仕草で娘を受け取りながら、アヌイは苦笑した。アイシスはナスリーンの乳をよくのみ、三ヶ月にしてはよく太った上機嫌な赤ん坊であった。最近は、ひとの顔の見わけがついてきたのか、父親の腕に抱かれると愛らしい笑い声を立てる。今日も、アイシスは上機嫌で、父親の胸に大人しく抱かれた。
ワァルトの叛乱以来戦続きの毎日が始まり、当初イムゥ市郊外の農家に預けられていたナスリーン母子は、ヒクプタハ市に程近い小村の民家に移されていた。王軍の進駐によって、とりあえずはブバスティスから北へ叛乱軍が押し戻されたことで、下エジプト中を飛び回るようになって、その方が具合がよくなったからである。今回も、イピの手を借り、目立たない家を借りることができたのだった。アヌイは、暇を見ては母子の様子を見にやってきた。そんなときは、大抵随身の数も僅かで、一人の時すらある。ナスリーンが諌めても、全く聞くような様子もない。
「いいえ。そうよ。何だか生き生きとして、別の人でいらっしゃるように思えるほどよ」
「お前の勘の冴えたのは、アイシスが腹にいた時だけだろう?当てずっぽうをいうな。なぁアイシスよ…母上は無茶を言うと思わんか…?」
 馬鹿のようにやに下がって娘をあやすアヌイだったが、それを見るナスリーンは心中ざわめくのを止められなかった。確かにアイシスを妊娠していたときは、異常に勘が冴えて自分でも恐ろしいほどだったが、出産後は憑き物が落ちたように元に戻っている。
とはいえ、女が愛しい男の変化を悟るのに、どんなの力が要るというのか。傍で彼を見守ってきた彼女には、確かにアヌイの顔から、あの不思議な陰りが消えてしまったように思えるのだった。こんなに近くにいるのに、いつもアヌイの心の底にあるはずの不思議な陰りが感じ取れない。生来勘のよいナスリーンは、アヌイと恋に落ちる以前にその翳の存在を察していた。愛人関係になっても彼は決して語ることはなかったし、彼女も無用な詮索しなかった。おそらくは女ではないかとは見当をつけてはみたものの、はっきりと確かめたことはない。アヌイは自分の恋愛遍歴を自発的に披露する類の男ではなかったから。ただ、ふと何かの瞬間に自分の背後に誰かの幻を透かし見ているような眼差しになることがあり、直感的にそれが女なのではないかとナスリーンは思うのである。
それでも良かった。彼にとってどうしても埋めようのない心の洞(うろ)でも、一時こちらへ手を差し伸べてくれさえすれば、彼女としてはそれで十分だったのだ。自分の特殊な能力が偶々露見した時も、彼は何も聞かず黙って抱きしめてくれた。時につれない恋人で、当てにできぬ男ではあったが、彼女は二人の間の心身ともに馴染んだ気楽さを愛していたし、娘が産まれたからといってその関係を自分から変える気もない。勿論、一介の楽師にすぎぬ自分に向けてくれるアヌイの優しさは、嬉しく愛しいのである。だが、ナスリーンは自らですら御し得ない『能力者』であるがゆえに、多くは望まぬ性分だった。己も、他人も信じきらぬこと――信じぬことではなく――は、ナスリーンの性格の根幹をなす。
それは一見彼女の美質ではあったが、必ずしも本人に幸せをもたらすとは限らない。あるいはそれも神に選び捕られてしまった者特有の一種の傲慢といえようか。
それでも彼女は極めて女らしい女ではあったから、時々、無性に気になったことは確かである。この男にそこまで執着させる存在がいることも腹立しかった。そう思うとき、彼女の目からはアヌイの周りに透明な壁があるように見えた。
 今はそれがない。どうしたことだろう?
 だが、その訳をきくのも恐ろしいのである。
 アヌイと自分の心の間に架かった幻の橋さえも霧散してしまう気がして。
「この玩具、珍しいものですのね。ヒクプタハの町にはこんな物まで売っているのですか?」
 おもむろに話題を変え、何気ないふりをして話し掛けるのだった。手のひらくらいの木細工で、青く彩色されたそのカバは、顎下の糸を引くとカタカタと口を開閉できるようになっていた。いずれアイシスがこれに夢中になるであろう。アヌイの手土産であった。
「大都会だからな、人も物も珍しいものが揃っているようだな。お前は行ったことがなかったか?」
「忘れるほど昔に一度だけ。以前神殿でお世話になった、女神官さまがプタハの神殿にいらっしゃって一度おいでなさいと誘ってくださるのですけど…」
「では今度連れていってやろうか」
「まあ。本当に?」
 ナスリーンは顔を輝かせるふりをした。
 なんとなく、アヌイがヒクプタハと言う町からも話を逸らしたがっているのがわかったからである。
「でも、わたしいつかイムゥに戻りたいわ…いつのことになるかしら」
「あんな何もないところがいいのか?ヒクプタハに行きたいと言ったばかりではないか、おかしな奴だな」
「だって…あそこはあなたと出会った町ですもの…思い出深いわ」
 その日々を追想するように、ナスリーンは遠い目をした。彼女の白ケシのような顔に、優しい微笑が浮かぶ。その微笑を見て、アヌイはアイシスを抱いたまま空いた手で、ナスリーンを抱き寄せた。そして、その貝殻のような耳もとで言う。
「そうだな…平和な日がきたら、3人で帰ろうか。あそこへ」
 アヌイの広い胸に身をあずけながら、ナスリーンは久しぶりにその歌を口に載せた。 
……
   命あるかぎり汝の欲するままに行へ
ミルラを頭上に飾り、真白きリンネルを纏い
神の与えたまう薫香を身につけよ
徒に嘆き悲しむことを止め
苦悩をば背後に投げ捨てよ
悲泣は未だ冥界の神に届かざるを…
 
それは、いつかの宴会の余興で、ミイラの傍らにて彼女が歌った「竪琴の歌」の一節。
 アヌイが好きだといった歌だった。



  そしてまた同じようにその調べを口に乗せる女人が一人。
  方形に切った石造りの池の傍ら、無花果の木陰の台に腰掛けて、彼女は歌う。

その昔の賢者は誰そ イムホテプはたハルデブブなるその言葉
    まねびて人々は語る
     昔日の館、今いかになりしやと 檣壁は砕け園は朽ちて跡形もなし
      あたかも彼ら未だ嘗て在らざりしが如く 彼ら、いかになりしや
       彼ら今、何を憂い何を望まんとするや

「あなた様がその詩がお好きとは…今まで存じませんでした」
 物静かな問いかけにも、彼女は振り返りもせず、白睡蓮を象った指輪をはめた指を泉水に漬けると、ゆっくりと水を掻き混ぜる。
 水面に反射した陽射しに目を細めて、その手を止めると、直ぐ傍に咲いていた睡蓮を一つ折り取った。
「やはりあの者は、『睡蓮』のことを忘れていなかったのですね」
「はい。凄まじいお怒りで、危うく絞め殺されるところでございましたよ」
 そういって喉首に残った痣を押さえた男の仕草を横目で見て、彼女――王妃ネフェルウルティティスは小さく笑んだ。
「当然ね。それはあの者が一番触れて欲しくない話題だから」
「ですから…いったい、王妃さまとあの州侯にはどんな謂れが?」
 心持ち低くなったアンクエレの声に、王妃は相変わらず涼しげな美貌を曇らせるでもなく、にこりと微笑んで
「ああ…そういえばあの頃、そなたはわたくしの傍を離れていたのだったわ。だから多分あの一件を知らぬのでしょう」
「ということは、先の内乱より前…もう…6年も前から、アヌイ侯をご存知というわけなので?」
「そうね、思えばそのくらいになるのね…。そもそもの始まりはそれだったの。だから、わたくしはあの者が決して嫌と言えぬ申し出をしてみたのよ」
 きらりと目を光らせた王妃に、アンクエレはため息をつき
「やれやれ、お人が悪うございます」と呟き、それでと先を促して頷いた。
「わたくしは、昔、叔父上の刺客に狙われていたところを、あの者に助けられたことがあるの。それも、ここではなく…」
 王妃の腕がすいと上がり、東岸に横たわる黒々とした町並みを指差した。
「あの大神殿の近く、ひどく汚い下町あたりでね」
「姫さまがそんなところにいらっしゃったことがおありですか」
「成り行きで紛れ込んだのよ。そのときに、偶然あの者に出会ったの。彼はわたくしの身分も最初は知らなかったはず、最後には名乗りましたけどね」
「『睡蓮』とは?ひどく侯を動揺させてしまったようですが」
 王妃が手元で弄ぶ睡蓮の花を見つめながら、アンクエレが問うた。
「その時、わたくしの身代わりになって殺された少女の名前よ。『セシェン(睡蓮)』というの。人懐っこくて可愛らしい子供だったわ…彼の知り合いのね。彼は自分の失策であの子供を殺されたことを、今でも悔いているのでしょう。悪いのは、あの子供を巻き込んだわたくしたちのほうであったのに。あの時、『あんたらのような無責任な王族が君臨しているかぎり、また何万というセシェンが死ぬ、俺はそれが我慢できない』と罵られたわ。狡猾で嘘も平気、しかも強引なことも辞さぬくせに、情をかけた者にはひどく優しい人間なのね。『セシェンの魂(カー)に誓って、いつか王家に思い知らせる』とわたくしに言ったくらいだもの」
 聞くなり、アンクエレの顔が強張った。彼には珍しく言葉に詰まりながら
「そ、そのような…なぜ事前にそのことを、わたしにお話くださいませんでした?この大事に、敢えて姫さまに恨みを抱く者など選ばれずとも良うございましたのに」
「数多の血族の血を浴びて生きながらえてきた我が王家に、今更新しい恨みが加わったとてそれが何ほどのことでしょう。いいえ、かえって狙いがはっきりしているぶん、アヌイはましよ。でも、あの男は…ひょっとして性根が優しすぎるかもしれない。それが、時に付け込まれる弱点たりうるでしょうけど…」
 王妃はふっと曖昧に微笑むと、手にした睡蓮花をアンクエレに差し出した。
「でもいいわ。わたくしは、守るべき何ものも持たぬものは信じません。彼が今、己の領土を守りたいと言うなら、そのほうがかえって信用できるというものよ」
王妃からその花を受け取りながら、アンクエレは片膝をついたまま、困惑した表情で女主人の顔を見上げる。王妃は、陽射しよけに白いベールを頭に被り、同じく白い薄物のドレスを着ているせいで、何となく花の精めいて見えた。しかし、彼女の口にする言葉は、どこまでも現世の血腥い匂いがつきまとう。彼女の一言は、時に無辜の民の運命を左右することになるのだから。若き日のアヌイが非難したという、大王家の者の無慈悲さに彼女とても無縁ではないのである。
 それでいて、王妃の凛とした雰囲気は少しも損なわれてはいない。
 それはきっと、彼女だけは、無慈悲でありながら理は通そうとするからであるに違いない――それがこの方を生んだ大王家の悪徳の土壌に咲いた類稀な美質なのだ、とアンクエレは思う。
「しかし…欲に目がくらむということもございますよ…あの御仁は野心家です」
「それがいけないことかしら?ワァルトがヒカウの血筋を誇り、わが大王家に膝を屈するのに我慢できなくなったように、彼もいずれ己の真の望みを見出すでしょう。それまでは、まだ我らにも勝機はあるのです」
「わたしは、あのように何事も力づくで決まると思っているような男は嫌いですね。単純な馬鹿ならまだしも、理屈を捏ねたがる馬鹿など、救いようがございませぬよ」
 辛辣な指摘を聞いて、王妃は初めて年相応の無邪気さを覗かせ、ころころと可笑しそうに笑った。
「ヘンねぇ…お前とあの者はきっと気が合うと思ったのだけど。そんなに嫌うところを見ると、それは同類嫌悪というものじゃなくて?せっかくの大事な同士なのだから、そんなふうに言うものではないわ」
「では姫様はあの男と気が合うと?」 
王妃はふっと謎めいた微笑を浮かべただけで、彼の問いには答えなかった。
長いベールを優雅に捌くと、すっと立ち上がり物騒な密談を打ち切る。そして傍目には、家令と今まで世間話でもしていたかのように、礼儀正しく小首をかしげると、ゆっくりと背を向けた。

王宮の庭園にさっと冷たい風が吹きぬけた。一年で最も過ごしやすい季節だというのに―――――砂埃を巻き上た、その風は王妃の姿をたちまちアンクエレの視界から消してしまった。



11章に続く


 

 9.王妃の密使


王妃の思いがけない言葉を聞いても、アンクエレは泰然自若、眼を軽くしばたいただけであった。
そんな彼の表情を見て、王妃は今夜初めて表情を和らげたのだった。優美な弧を描く眉が悪戯っぽく下がり、瞬時にあの朗らかないつもの王妃になる。
「まったく、そなたほど驚かせ甲斐のない男はいないわ」
 そう言ってため息をついた王妃の無念そうな表情は、珍しく年相応に見えた。
「…こういった性分でございます故、平にご容赦…」
「わかっていますよ。そこに御坐り」
 王妃は直ぐにもとの怜悧な物腰に戻ると、目の前のアカシア材の椅子を示した。王妃が長椅子に着座するのを待った後でゆっくりと腰掛けるなり、アンクエレは再び口を開いた
「わたしの命をご所望とあれば、何時なりと差し上げまするが、いったいどういったご用命かはお話くださいましょうな」
 アンクエレは主家の姫に対する口調に戻り、穏やかな調子で問うた。
王妃はふわりと手を挙げ、額に載せてあった紅瑪瑙で睡蓮を象嵌した金の冠を軽やかな仕草で外すと、傍らの小卓の上に置く。そうして、しっとりとした艶光を放つ黒髪を胸乳の前に梳き流しながら、改めてアンクエレの方に顔を向けて座り直した。
 そうして、口の端をきゅっとあげて微笑んだのだった。
 何の気負いもなく、いやむしろ楽しそうな、その微笑を見つめて、アンクエレは腹を決めた。まさしくイシス女神の如き慈愛の微笑――だが、この姫がこういう表情になると、文字通り“戦がはじまる”のだ。
緊張したアンクエレの眼をゆったりと見返しながら、王妃は眸に微笑を宿したまま口を開いた。
「わたくしはね…陛下の御意に背こうと決心しました」
「はあ。左様でございますか」
またしても、アンクエレは驚きもしなかった。王妃はさらに不穏な言葉を紡ぐ。
「陛下が二つの地の君主(あるじ)になられた日より、わたくしは政に介入するのは避けようと思い、今日まで特にご命令がない限り、後宮に引っ込んでおりました。実際はそうではないのに、まるでわたくしが陛下に王位を授けたように言われ続けるのは、陛下にもご不快であろうと思ったの。ですから、共同統治者として王妃としても、なるべく陛下のご意向を優先させてきたつもりだし、それで問題は無かったのです…辛うじて今まではね。しかし、事ここに至っては座視するわけにはいかなくなったわ。わたくしはヌート宰相を陛下のお傍より取り除きます。いかなる手段をもちいてでも。協力してくれようね?」
 王妃は、瞑目したまま大家令セケンレの報告を告げた。宰相がキヤ姫を第二王妃にと画策しているらしいという話になったとき、初めてアンクエレの醒めた表情が動いた。
「ははぁ…わが方に最近宰相に近い筋よりの進物が増えましたゆえ、おそらくそのようなことではないかと思っておりましたが…」
「わたくしは、王妃として反対するのではないの。陛下の後宮の醜い争いごとに、あの娘を巻き込みたくないのよ」
「そのお心は重々承知しております。キヤ様の傳育官の身としては、姫様が第二王妃に選ばれる――となれば光栄に打ち震えるべきなのでございましょうが、あの方のご気性からして、姉上様と同じ夫君に嫁されることなど、到底ご承知になるはずがないと存じます」
「そうね。そういう娘だわ、キヤは。わたくしもあの娘の結婚相手には、政略結婚となるのは仕方がないにせよ、せめて最上の者を選んでやりたいと思っています。でも、陛下から正式のお申し出があれば、キヤの後宮入りは決定事項になる。いかにわたくしでも、ファラオの命令を拒否する術はありません。だから、その前に手を打ちたいのよ」
「僭越ながら…王妃様におかれては、これ以上の両王家同士の『聖婚』をお望みではいらっしゃらぬ…と?」
「ええ。『聖婚』は陛下とわたくしで最後にしたいの。あれこそが、いつも諸悪の根源だったわ。大王家をここまで弱らせてしまったのだもの」
 アンクエレの眼が微妙に細められた。
「ご無礼ついでに今ひとつお伺いいたしますが、では最悪の場合として、ファラオにお世継ぎが出来ぬとなれば、王族以外の王家のお血筋の方を立てることも辞さぬとお考えでしょうか?」
「そうね…そういうことも含めて、この先のことを考えておかねばならぬでしょうね」
 王妃の表情はどこまでも平静そのものだった。
 アンクエレは、背筋を伸ばすと面を改めて王妃に対峙した。いつもの、どこか皮肉気で達観した男の仮面が外れ、策謀家めいた微妙な眼差しになる。
「さまでお考えでございましたか。では、まず何処から手をうたれるおつもりで?」
「ワァルトが、バスト(ブバスティス)まで迫る勢いになっているのは聞きましたか?」
「はい。東国境の“ホルスの道”を手に入れて、一気に勢力を伸ばし始めたようで…まさか…姫様…こともあろうに、あの者を使うおつもりではございますまいな?」
 にわかに危惧を滲ませた彼の表情に、王妃も薄い笑いを返した。
「いいえ。いくら緊急を要するとはいえ、異国の手先となってケメトに弓引く者に頼ろうとは思いませんよ。わたくしの考えているのは、あの者の仇敵にして唯一ヌートの領域に手を入れることをした男…」
「ああ、では…イメンテト(西州)侯をお考えですか」
 アンクエレはその美鬚を無意識にしごきながら、しばし考え込む表情になる。
「そうよ。ヌートは今や蓄えた財をばら撒き神殿兵まで抱え、王都を守護すると称し、どんどん兵備を増強しているわ。最近は正規の王都守備兵隊ですら、宰相側に取り込まれつつあるという。シェマウ(上エジプト)の弱小州侯程度では、もう歯が立たぬ勢力になってしまっているでしょう?わたくしは、このような流れには反対です。かえって諸侯と諸神殿を王家から離反させるばかりだと思うの。だから、そなたの意見を聞かせて欲しい。かつてジェブ(エドフ)の『生命の家』で並びなき学才をたたえられたそなたならどう考える?」
「そんなカビの生えた昔の話はどうぞお忘れを。それにしても、宰相を追い落とすとなれば、やはりこちらとしても、それなりの者と組む必要はございましょうね。西メフゥ一帯にあれほど勢力を伸ばし、神殿を圧迫しつづけているアヌイ侯を宰相は目の敵にしていますから、王妃であるあなた様がかの方の後ろ盾につくとなれば、国を割る騒動となりましょうが、その点はお考えになってのことでしょうか?」
「もちろんよくよく考えました。考えた末に、ヌートが注ぐ毒を除くには、別の毒をもって制するしかないと思ったのです」
 優しげな美貌とは裏腹に並外れて豪胆と評判の王妃は、さらりとそう言い放った。アンクエレは、考え込む表情になって
「確かに…西州侯の考え方は一種の毒があります。かの方はメフゥ(下エジプト)の西部諸侯の盟主になるつもりでおられるようですからね。ワァルトの叛乱ですら、ご自分の牙城を広げるひとつのきっかけにしてしまうおつもりかもしれません。いずれ間違いなく、あの方は大王家にとって致命傷となる毒をもたらしますぞ。それでも諒となさるのか?」
「お前の言うとおり、あの者は我が大王家にとっては、死に至る毒を持つかもしれない…。でもね、考えてみて。このまま、ヌートの使嗾(そそのか)すまま陛下が嗜虐な振舞を続ければ、間違いなく民は疲弊し、ケメトの国は沈みます。聞けば、アヌイは任地で名領主と謳われた手腕の持ち主とか。それにあの者のやり方はどの神殿にも公平なもので、それをヌートが全神殿の代表として突き上げたから、かえって反発を受けていると聞きましたよ。どちらが王国のためか明らかであろう…?思うに、もう王都の役人はヌートに骨抜きにされてしまって頼りにならぬ。彼らでは、ヌートの影響力を取り除けぬでしょう」
「では姫様は、この王国を割ることも辞さぬというあの方の考えを、お認めになると仰るのですか?」
「そうではない…それは認めないわ。ケメトの国は、黒い土の続く限りファラオの治める地であるべきです。ただ、よりましな悪を選ぶならば、この王国に溜まった膿を出すのに被害が少なくてすむと思うだけよ…それに」
 王妃は一瞬いいよどんで、眼線を中空に彷徨わせた。
「何でございます?」
「あの男の望みが如何なるところにあるか、私にはわかる気がする…」
 王妃のその表情は見たことがないほど不可解なもので、さすがのアンクエレも困惑した。
「なぜあなた様に、それがおわかりになるのですか」
 だが王妃は曖昧に微笑したのみで返事はしなかった。続いて自らの策をアンクエレに淡々と提示してゆき、ひとまずその話題から遠ざかった。
 そうして二人が討議を重ねるうちに、アンクエレの顔はみるみるうちに鋭さを増したようだった。彼は机上の絵図面を見つめたまま、慎重に言葉を選びながら言う。
「基本的に姫様のお考えの策には異論はありませぬ。それにしても思い切ったことを…侯にはこれは一種の災厄ですぞ。それに、あれも利用するにはあまりに危険です。後々に禍根を残さねばよろしいのですが」
だが美貌の王妃は涼しい顔で
「結構。全ての責めはわたくしが負いましょう。それに、これくらいのことが切り抜けられぬ者には、到底この先のわが王国の命運を託すことはできませぬ」
 一切を見切った者に相応しい非情な言葉には、さすがのアンクエレも苦笑いをするしかなかった。だが、王妃の乳兄弟でもある彼は、その潔さに一抹の不安が抱え込まれていることを見逃さない。真っ直ぐに王妃の顔を見つめたまま、彼は鋭い眼で訊ねた。
「しかし…仮に、西州侯が荷担して宰相を除けたといたしましょう。これについて、ファラオになんと弁明なさるおつもりか?」
「え?」
「それともこれは、墓の下まで持って行かれる秘密になさるのか。あれほど、宰相に帰依なさっている王が、王妃さまの企みをお知りになっても、まだお赦しになると思われますか?」
 王妃はその指摘に一瞬絶句したように見えた。
実際それが、もっとも彼女の心を責め苛んでいる点であるのかもしれない。幼い頃よりの、敬愛と信頼を全て賭けても王の心は遠かった。誇り高い王妃は、二度と同じように泣いて縋ろうとはしないだろう。しかし、今の境涯を諦めて受け容れるには彼女の自負心は強すぎる――とアンクエレは思った。
 王妃はついと顔を背けると、長い髪で表情を隠した。だが、アンクエレは、王妃の白い滑らかな額に刻まれた眉根が、苦しそうに震えている様を確かに見たのだった。
「陛下には…一切が済んでからわたくしから申し上げます。陛下は今、宰相に扇動されていらっしゃる。今、わたくしから諫言申し上げても全て逆効果になるばかり。全ての元凶はあの神官あがりの宰相にあります。あれさえ遠ざければ、また…昔の英明な陛下ご自身を取り戻されるでしょう。目の前の曇りが晴れれば、陛下に弁明も聞き届けていただけよう」
 それは半ば自分自身に言い聞かせるかのような、必死な呟きだった。アンクエレは思わず視線を伏せた。痛ましくて王妃の姿がみていられなかったのである。
「畏まりました。では、全ては陛下に内密ということで、以後は一切を進めるといたしましょう」
「そうしておくれ。お前だけが頼りよ」
 王妃の思いつめた声にアンクエレは益々深く頭を垂れた。
彼の胸中には、激しい渦が逆立ち始めているのを自分でも自覚しないではいられない。それは、日頃の自分の皮肉で覆った自分の心の殻を容赦なく砕いていくほど烈しい。
(王は…唆されておいでなのか。あの英明な王子だった方が?おそらく問題は、ヌートの扇動如きではない…もっと奥が深いのではないのか…そう例えば…王ご自身の…あの古い噂)
 かつて、ジェドカラー王が即位する前に《ナルカ王家》の家令代理を勤め、つぶさにその言動を見聞きした彼には、王の性格についても王妃とは少し違った意見を持っている。だが、それは口に出されることはなかった。彼のなかの底深くしまいこまれ、決して日の目を見せることはない。
「わかりました。そうまで仰せなら、微力ながら力を尽くしてやってみましょう」
「そう!そなたが力になってくれれば、どれほど力強いことか。頼みます」
 ホッとした王妃の美しい顔がぱっと輝く様を見ながら、彼の心はズキリと痛んだ。

(これほど聡明なお方でも、愛するものの心を再び変えようとするあまり、その怜悧な眼も曇りが生じるらしい。そして、おれはそれに殉ずることを望んでいると?―――まさか!)
内心の動揺を隠すかように、アンクエレは掌に爪が食い込むほど拳を握りしめるのだった。


この時代、王の軍隊を指揮する最高司令官は言うまでもなく王である。王の直属である王軍は、南面師団と北面師団で構成され、それぞれ二万ずつの兵士を擁していた。南北の区別は上下エジプトに対応し、徴収兵の出身地もほぼ重なる。北面師団の駐屯地は北方のギザ、南面師団の駐屯地がアビュドスである。各師団には、一万ずつの兵士を統率する同格の将軍がおり、時代によってその数は変化したが、現在のところ4名の将軍が任命されることになっている。ただしそのうちの一人、北面師団のアメン隊の将軍であり、東国境のへブア砦の城主でもあったテティアン将軍は既に亡き人である。
イブネセル・アヌイ西州侯は、かつてその4将軍のうちの一人であった。同じく州軍長ケネプは、アヌイ指揮下のモンチュ隊の連隊長から主任副官まで抜擢された人物であり、その他現在の西州軍にはこのときのモンチュ隊から、主に中隊監督官クラスの下士官といった元部下が多数流れ込んでいる。これら熟練の兵士が西州軍の中核となり、他州軍を圧する勢力になったのは無理からぬなりゆきといえた。
現在の王軍は、公称4万の兵士を擁すといっても、そのほとんどは、半農民の徴収兵士であり、その実力には各隊によってムラがあるのが実際のところである。その事情に加え、最近王軍で勢力を増してきているのが、黒い膚の『アシャ』と呼ばれる外国人傭兵である。彼らは、ヌビア・リビア出身の傭兵で、腕一本で諸国を渡り歩くゆえに荒っぽく、しかし、頼もしい存在ではあった。特にヌビア傭兵は弓に長けていて、重宝される存在である。外国人を容易に信用しないケメトの国民性から、以前ならば彼らは沙漠の国境警備隊に配置されることが多かったが、ここ何代かの王は、率先して王都の守備隊に彼らを組み入れてきた。そして、当代のジェドカラー王は、破格にも王宮の警備兵に彼らを投入したのである。王都の城壁内を、我が物顔にアメン神の縫い取りのある外套を翻し、闊歩する黒い兵士たちは民の密やかな恐怖の源泉でもあった。

「ですから…先ほどから申し上げているとおり、わが軍としてもこれ以上の兵を割くことはできない相談なんですよ!」
天幕のなかに、爆発寸前といった若い男の声が響いていた。
「そちらの事情は、そちらで解決していただきたい。これは、正式な王命、つまり勅命ですぞ!明後日までには、バスト(ブバスティス)の包囲を増強し、叛乱軍を叩かねばなりません。そのためには少なくとも1000の兵士が必要だ!」
傍目にも、『アシャ』とわかる膚色の黒い将校は居丈高に言い募った。頬に走る長い刀傷が薄紅色に浮かびあがり、彼も頭に血が昇ってきていることは傍目にも明らかであった。
そこへ、静かな声が割って入った。
「では…後方の我が主、アヌイ侯との連絡の都合もござることではあるし、とりあえず今お貸しできる兵500で手をうちましょう。これで如何」
「馬鹿な!半数ではないか」
「しかしですな、タハルカ殿。わが殿から正式な許可を得るとなれば、早く見積もっても往復2日はかかりますよ。当然ご承知でしょうが、いくらファラオのご命令でも、州軍の最高責任者である侯のご同意なくば、フゥトタヘリィに駐留するわが州兵を動かすことはできませんからね。だが連れてきた兵500なら、州軍長のわたしの裁量ですぐさまお貸しできる。今のところはこれが限度です。よくお考えあれ」
だが、納得がいかない表情の黒い肌の将校は、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。
「ケネプ殿、お言葉を返すようだが…」
「いや、是非にも承知していただきたいですな。我が軍の兵士500なら、並みの州軍の1000には匹敵しますぞ。貴殿にとっても決して、損な話ではない。それに…」
黒い膚の王軍将校と向かい合って座ったケネプは、足を組替え、ことさらに悠々と顎をなでつつ続けた。
「あまり、ここで時間を食うのは、叛乱軍を喜ばせるだけでは?王都の宰相閣下も良き知らせをお待ちではありませんかな?」
タハルカと呼ばれた将校は、ぐっと言葉に詰まると、忌々しげにケネプの角張った顔を睨みつけ、しばらくそうしていたが、やがてはき捨てるように言った。
「わかり申した。ではその500をお借りしましょう。貴殿はフゥトタヘリィの陣へ帰参なさって結構。その際には是非、西州侯にお願いして下さるか。次回の攻略戦には必ず、御自ら兵を率いてこられるようにと!」
「は。主の病がいえましたら、ただちにそう言上いたしましょう」
ケネプは涼しい顔でそういうと、ゆったりと立ち上がり、傍らの若者を促して天幕の仕切りを跳ね上げて出て行った。

あわててケネプの後を追いすがった若者は、しばらく黙って後を続いていたが、思い切ったように切り出した。
「あーーあのーーう、州軍長殿…伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ、ホルス」
「残していかれる500の兵って、マネトの部隊の…ですか?」
「そのつもりだが」
「あーーでもーーーあれは…一騎当半…くらいじゃ…いくらなんでもハッタリが過ぎませんか?」
ぴたりと立ち止まったケネプは、振り返るなり、忌々しそうに思いっきり口元をゆがめてまだ若い部下の童顔を見下ろした。このホルスは、最近彼が補佐役として使っている中隊長である。年は21と隊長クラスでは最も若かったが、背丈だけは長身のケネプにも負けないほどある。ただし、横幅は若者らしくまだ細い。ホルスは、イメンテト州軍からの生え抜きで、ケネプのように王軍に勤務した経歴はなかったが、特に武勲に秀でているためこの地位に抜擢されたのだった。ただし、ケネプとしては実戦に使える指揮官に育てるには、もう少し修養が必要と思わないでもない。
「黙ってろ!せめてあの糞忌々しい天幕が見えなくなるまでな!!」
ホルスはケネプの叱責に、逞しい肩をすくめ、黙って後をついてきた。
二人は、大河を右手に見下ろしながら無言で歩いた。道すがらあちこちで、馬と兵士の集団を横目に通り過ぎ、眼下の農耕地にも同じような人の群れが見える。
ここは、下エジプトの第1ノモスの都ヒクプタハ市から東へ60キロほど離れた、中部デルタ地帯の小さな町にある砦である。ヘリオポリス(オン)市を背後に控え、前方30キロの地点まで叛乱軍が迫っていた。
アアム・ワァルトの反乱が勃発してより、はや3ヶ月が過ぎている。
今はペレト(播種季/太陽暦で1月下旬頃)の半ばともあって、下エジプトのデルタ一帯をさながら海のように満たしていた大河の増水も、ようやく退きつつあった。
だが戦況のほうは、お世辞にも華々しいとはいえない。
討伐軍召集の発令は早かったが、何かと手間取る王都の軍隊は、兵士の移送には絶好の季節であるはずのアケト(増水季)を無為に過ごし、ひと月以上遅れてようやく王軍の派遣が決まった。
そうしてジェドカラー王即位前の内乱以来、数年ぶりに組織されたファラオと諸侯の連合軍の陣容は一応整いつつあったのだが、肝心の戦闘はといえば、ブバスティス市を陥落させたワァルト軍と下エジプトの州連合軍は膠着状態に入っている。
ワァルト軍がここまで勢力を伸ばしたのは、王軍の混乱を的確に見てとっているからである。
当初、宰相命令により東部デルタの諸侯で反乱討伐軍が編成されたが、寄せ集めの軍隊の弱点を露呈したばかりか、無駄な勢力争いを誘発したにすぎなかった。しかし、ワァルト軍が北部カナーン3州の藩王達と結び、国境である「ホルスの道」の安全を手に入れたことによって、それまでのんびりと支配権争いをしていた東部デルタの諸侯は、一気に劣勢に立つことになる。
何しろ、カナーン沿岸経由で下エジプトに入るはずの物流が、東の玄関口アヴァリスで急き止められてしまう形になったのだ。カナーン諸都市の藩王から支持を取り付けたワァルト侯は、ガザやシドン・テュロを根城に活躍する海上商人とも結び、北部の貿易の半分を押さえつつあった。    
折からの食糧難に加え、戦闘による農地の荒廃、住処を追われた流民の増大を招来したこの展開により、古来から固い結束を誇ってきた東部デルタ諸侯は分裂に追い込まれた。アヴァリスに近い州侯は次々にワァルト軍に寝返り、今や東部デルタ一帯は「アヴァリス王国」ともいえる独立地域となっている。そうなって初めてサイス侯を筆頭とする西部デルタ諸侯は、衆議の挙句、勇名高い西州侯イブネセル・アヌイを陣頭に押し立てることに決したのだった。当の西州侯本人は、丁度領内の神殿勢力と紛争を繰り返している最中で、渋々重い腰をあげたのだが、戦となれば、そこは期待を裏切ることなく順調に反撃を開始していたのだった。
しかしその西州軍の快進撃も、先月、王都から北面師団がやっと到着したことによって終わる。王軍を率いるタハルカ新将軍は、王命を盾に総司令官となることを宣言し、諸侯を押さえつけようとしたのである。やりたくもない戦に借り出されて、内心怒り心頭だった西州侯は、得たりとばかり病気と称して州都に引き返してしまった。もちろん、アリバイとして州軍3000をケネプ州軍長に託してゆくことは忘れなかったが。
そうして、ケネプが気ばかり強い王軍将校との折衝に神経を擦る減らす日々が、もう20日以上続いている。

しばらく歩きつづけて、ようやく小高い岩場に達した頃、ケネプは足を止めた。やれやれといいながら、岩場に腰掛け紺碧の大河を見下ろす。ホルスも黙って並んで腰をおろした。
「見ろ、またギザから新しい部隊が来たらしいぞ」
ケネプの指差す方向を追ったホルスではあったが、じき振り向いてためらいながら切り出した。
「ケネプ様…やはり侯は噂されるように、この戦を続けるおつもりがないのでしょうか…?」
「ま、少なくとも、あの黒狐の指揮下なんぞでは、貴重な州軍を動かすおつもりはないだろうな。我らは、一応王命に従って従軍はするが、無駄な犠牲は極力避けよと仰せだったから」
「でも相手は叛乱軍ですよ?放っておいていいんですか?」
少しだけ声の調子が高まった若者を眼で制すと、ケネプはくたくたに着古した外套の裾の泥を叩きながら、ホルスに向かって不機嫌な声で喋りはじめる。普段は身奇麗にしているケネプも、ここ数日の折衝では着替える暇もないくらい雑事に追いまくられている。そのせいか衣装はいささか薄汚れ、日焼けした顔も皺が目立ってきていた。
「あのなあ、ホルスよ。そもそも、何でワァルトが反旗を翻したかといえば、あの辺の地震被害も考慮せずに王都が賦役の割り当てを厳しくしすぎたからだ。王都の居丈高な態度に、ヒカウの名家の当主であるワァルトが堪忍袋の緒を切り、それにカナーンの藩王連中が味方したせいでこんな内乱になったってのは、お前も聞いてるだろう?我らが西州侯も、神殿と争って王都に目をつけられているから、下手すればワァルトの二の舞の恐れがある。だから、無茶苦茶な王都の指図でも無碍にはできんし、かといって、へいこら従って無駄な消耗するのも避けなきゃならんのさ」
「……それじゃあ…西州も叛乱軍の一味にされたりするんでしょうか…?」
 ケネプは「叛乱軍」という一語に複雑な表情を浮かべた。何しろ、彼の主のやることきたら反乱より性質(タチ)が悪いと思わないでもないからである。しかし、年若く一本気なホルスにそれを説明することは避け
「大いにありうる。今の宰相は神官上がりのヌート殿で、ことにアメン神殿とゴタゴタしているアヌイ様を目の敵にしているそうだからな」
ホルスの童顔は、みるみる紅潮してきた。
「そんな!侯の差配で、わが州は餓死者の数もがひどくならずにすんだんですよ。見てるだけだったくせに、神官のやり口はいつも陰険だ!!」
「だからせいぜい奴らに足元を救われないよう、適当にワァルト包囲網の周辺を走りまわっていればいいんだ。どうせ大した戦闘もできやせんし、兵糧はやつらもちだからな。有難いことに――ということで、明日の帰参に備えて各小隊の隊長を下に集めておけ」
「はっ、承りました!」
すぐさま立ち上がって走りさっていくホルスの後姿を、ケネプは苦笑しながら見送った。やはりもう少し、胆(はら)芸を教えねばならんかなと思いながら。


そうして、西州軍を預かるケネプが絶妙の綱捌きで王軍との折衝を図っている頃、病と称して陣を引き上げた当の西州侯イブネセル・アヌイは、根城の州都イムゥからやや南に離れた第一ノモスの州都ヒクプタハ市に姿を見せていた。無論、御忍び行で、供回りはわずかしか連れていない。
アヌイは均整のとれた長身を目立たぬ傭兵風の外套に包み、人目を避けるようにして、黄昏時の人波が慌しく行き交う市内の小神殿に入った。
古の王都ヒクプタハは下エジプト一の大都市であり、その人口は増水季に移動してくる民や周
辺一帯の村落もすべて勘定に入れれば、なんと80万に達するという。つまり下エジプトの人口の大部分が、このあたりに集中しているのであった。
周囲を堅牢な白い城壁で囲まれたヒクプタハ市は、反乱軍が東に迫っているというのに、普段どおり国際色豊かな商売人であふれている。それはこの街はデルタを貫く二つの支流の根元、いわば天秤の支柱の位置にあるせいで、反乱軍が東を抑えたものの、他の3つのルート――サイスを経由する西の支流沿いの交易路及び、アヌイが押さえたリビア沙漠経由の交易路、それに紅海側の港から東海岸の山を越えてナァ・イテルウ河畔に入ってくる交易路――は今だ王軍の勢力下にあり、交易量は減りはしたものの今だ活発な活動があるためである。河岸には大小さまざまな商船が錨を下ろし、そこに続く桟橋あたりには、荷を降ろす人足や、荷を点検する書記、買い付けにきた商人や、船荷の物々交換目当てに露店をはる市民たちでごった返していた。
ただ、海洋向けの大船が停泊している北港近辺は、大緑海へ出る途中のアヴァリスが反乱軍の支配下にあるため、入港する船も滅多に無く、係船してある船の停泊期間も延び、未だ出発の見通しも立たないせいでいささか活気がない。そして商人の町とはいえ、戦闘が間近に迫っていることもあり、市内には王軍兵士の姿が多く目に付く。彼らのほとんどは北面師団の駐屯地、ここからやや北に位置するギザ砦から来た兵士である。
その日、市内中央のアメン・ラー神殿、西隣の更に広大なプタハ神殿、他にも小さな神々の神殿が目立つ複雑な市街の路地を、当のアヌイは慣れた足取りですいすいと進んでいった。
その彼がネフェルテム小神殿の一角の礼拝堂に滑り込んだ。番人に何やら握らせて体よく追い払うと、彼は迷うことなく最奥にある祭具室を目指す。彼の足取りは滑らかそのもので、些かの迷いもうかがえない。そして、分厚い木の扉を目にすると躊躇うことなく中へ入った。
室内は漆黒の闇に沈んでいるが、隅には確かに人の気配がある。
「誰だ?」
鞘走る音に続いて誰何する年老いた声を聞くなり、闇の中のアヌイの口元ににやりと不敵な微笑が刻まれた。
「わたしだよ。イフナクテン老。久しいな、急な呼び出しで驚いたぞ」
アヌイの呼びかけに、これまた闇の中からふふふと不敵な笑い声が沸きあがった。
「相変わらず、疾風(はやて)のような御仁じゃな。とはいえ無事のご到着は何より」
途端、カチッという音とともに明かりがともり、狭苦しい室内を薄く照らし出した。
中央の石の机を前に、二人の人物が腰掛けていた。声を発したのは、手前のイフナクテン老人である。今日ばかりは、着古した軍装に身を包み、中肉中背の老体とはいえまだ十分に身のこなしはきびきびしている。シェムンの村の好々爺は、きりりとした老軍人に戻ってかつての同僚に型どおり挨拶した。皺深い丸顔に、なつかしそうな表情があふれ出ているのは隠し様もなかったが。
「本当に久しぶりだ…2年…もう3年ぶりか?」
「王のご即位式以来ですからな、かれこれ3年にはなろうかと」
「そんなにか!…そうだな、ミヌーエが5つだったからそのくらいになるな。娘と孫息子は達者か?」
「お蔭様で」
二人はしばらく旧交を温めあっていたが、直ぐに厳しい表情に戻って席についた。
イフナクテン老人は咳払いするなり威儀を正し、壁際の沈黙したままの人物にアヌイを引き合わせた。
「では、宜しいかな、西州侯閣下。この方が、例の手紙でお話しておいた人物です。是非ともお目にかかってお話したいと申されるので、時節柄このようなところまで来ていただくことになり申した」
「あいや、イフナクテン殿、その先はわたくしから直接、侯に申しあげましょう」
そう言ってもう一人の人物は顔を上げると、目深にかぶっていたフードをはらりと落とした。薄明かりのなかに、物静かな男の顔が浮かび上がる。耳下で揃えた貴族風の鬘、何処といって特徴のない平凡な顔立ちだが、炯炯と輝く眼が相手をとらえるや眼が離せなくなる印象がある。そして、綺麗に整えられた顎鬚がすっきりと似合う瀟洒な物腰は、彼が都人であることをはっきりと示していた。
「西州侯イブネセル・アヌイ様には、お初に御目にかかります。わたくしは、《ナルカ王家》の執事にてアンクエレと申します。このたびは、急にお呼びたてしたにも関わらず、わざわざ当地までお運びいただきありがとうございました」
深みのある声で彼は名乗った。そして、少しも怯むでもなく、気負うでもなくアヌイの強い眼差しを真っ向から受け止めたのだった。

ここに、イブネセル・アヌイの運命は一つの分岐点を迎える。
それを運んできた男にとっても。彼らの出会いの舞台が、古の王都、別名「北の都」と呼ばれるヒクプタハであったのも何かの因縁かもしれない。いずれにせよ、今の彼らには知りようもないことではあった。


10章に続く

 8.イシスの娘


女神イシスは、千の神々を奉ずるエジプトにあって、国家神アメン・ラーに匹敵するほどの権威と人気を保ち続けた稀有な女神である。冥界神オシリスの妹にして妻、王の化身たるホルス神の母であるこの大女神は、王家の祖としても尊崇されている。そのため「イシス」は王の母なるものの称号でもあり、王の娘は古来より「イシスの娘」とよばれてきた。
女系を通じて、太古の王の血を伝える現王妃ネフェルウルティティスは、まさしく当代の「イシスの娘」と呼ぶにふさわしい身分である。

しかし、現実はどうであったろうか。

「王妃さまは評議の場においでになる必要はない、との王よりのお達しでございます」
 王妃は、無表情に告げる男の小賢しげな顔を一瞥したが、言葉に出してはなにも言わなかった。そのまま手にした羽扇をビシリと鳴らして退出を促す。宰相つきの書記長は、相変わらず無表情に、馬鹿丁寧な礼だけは忘れることなく退がっていった。
 昼下がりの王妃宮の一室でのできごとである。
 雲ひとつなく晴れ上がった紺碧の空が、地上の褐色の建物群と鮮やかな対比を見せている。王妃は、窓辺からそれらの風景を黙って眺めていたが、女主人の姿を見守る侍女たちの表情は限りなく陰鬱であった。と、そこへ重苦しい雰囲気を突き破るように
「あんまりななさりようではございませんか!王妃は大王様の御遺勅により共同統治者と定められていますのに、ヌート宰相様は王妃様を蔑ろにされること、目に余ります!アメンの大祭司でもない身ですのに、いったい何様のつもりでございましょうか!」
 金切声で抗議したのは、王妃付きの老女官長カイトである。痩せぎすな体を怒りに震わせて、いつもは愚痴っぽく元気のない彼女にしては珍しく、顔まで赤くなっていた。
 しかし、その怒りの抗議も、静かに窓辺に腰掛けた王妃の耳に入る様子はない。
「何を騒ぐのカイト?わたしもあんな気詰まりな会議は出たくないわ。第一、お前が怒ることではありませんよ」
「でも王妃様…」
「いいのよ。ヌートがそれほどやる気なら、どれほどのことができるか拝見させてもらおうではないの。わたくしも今は後宮再建のことで手一杯だから、かえって有難いわね」
 王妃は、涼しい美貌を曇らせることもなく手元で扇を弄びながら、そううそぶいた。事実、そこは執務用の広間で、書き物を続ける王妃の手元にはパピルスの書類がうず高く積み重ねられており、足元には王妃の言葉を記録する書記が控えているのだった。王妃は不愉快な使いに執務を中断されたことを忘れようとしてか、いささか乱暴に頭を振ると、また執務用の椅子に座りなおし、パピルスを繰り始めた。
 今年で19歳になるネフェルウルテティス王妃は、歴代の王妃のなかでも、とりわけ後宮の運営に力を入れていることで評判の女性であった。彼女が当主となってより、このテーベの後宮で織られる布が格段に質の良いものになり、良い織り手はたとえ外国人でも破格の厚遇がなされているという。
王妃は国務にあっては夫である王の影にすぎないように思われていたが、彼女の領域内ではその才能を発揮することを躊躇いはしなかったのである。
 そこへ、小走りに侍女が駆け込んできた。
「御執務中に失礼いたします。大家令さまが王妃様にお目通りしたいとお越しでございますが」
「セケンレが?そう。ここへお通し」
「かしこまりました」
 侍女に導かれて、枯れ木のようにやせ細った白髪の老人が姿を見せた。
 セケンレは王妃の出身《ナルカ王家》の財政実務を切り盛りする最高責任者であり、後宮の官僚のトップでもある。彼もまた、代々《ナルカ王家》に仕えてきた執事の家柄の出で、王妃の産まれる前から家令を勤める古株でもあった。王妃は、この祖父のような老人に後宮の経営については全面的な信頼を置いている。
「どうしたの、今時お前が顔を見せるなんて珍しいこと。なにか緊急の事態ですか?」
 セケンレの皺深い顔に微笑みかけた王妃は、その顔に浮かぶ苦虫を噛み潰したような表情に眉をひそめた。この老獪な老人をこんな顔にさせるできごとは、昨今滅多にないことであったからである。
「王妃様、畏れながらお人払いを願わしゅう…」
 セケンレの口からもれた声からも苦々しいものが滲んでいる。王妃は躊躇することなく書記や侍女たちを下がらせた。
「それで?」
「姫様は、最近評議にでていらっしゃらないとか、今日もそうなので?」
 二人きりになると、昔の名残でつい敬称を忘れて呼びかけるも、老人の顔からは深い憂愁の影が消えていない。
「そうよ。わざわざ宰相からお達しがあったわ」
「とはいえお出ましになるべきでございました」
「爺。もったいぶるのはおよし!何があったのです」
「本日の評議では、おそらくフゥトイヒトのセクメト神殿からの訴状が検討されると思われます。というのも…シェマウ(下エジプト)のイメンテト(西州)侯が、勝手に神殿領に配下の州書記を入れ、神殿の穀倉庫の内実を調査しはじめたということでして。当然、わが《ナルカ王家》の寄進した、セクメト神殿の穀倉庫も被害を被り、何とかして欲しいとの訴えがわたしのところにも寄せられてきました。しかるに、宰相様はアメン神殿からも訴えられたのをいいことに、これらの訴えをわたしどもから取り上げておしまいになりました」
 聞くなり、王妃の優美な眉が逆立った。
「なんですって?ヌートは我が《ナルカ王家》の王領に介入するつもりなのですか。領地の訴訟事は、神殿領内のことといえど、領主のわたくしが裁くべきものですよ」
「宰相様曰く、これはあくまで聖域の侵害の問題であるからして、王領といえど領主の決するものに非ずと…」
「聖域の侵害ですって?侵害かどうかは、まず、訴えられた領主たるわたくしが調査させて決めることでしょう。いかに、宰相が神官とはいえ、前例を無視しています。それにしても、西州侯といえば、イブネセル・アヌイ将軍でしょう?彼が神殿でなにを始めたというの?」
「大雑把に申し上げれば、神殿の取り分を正確に把握して、残りの扶持を不正のないように領民に行き渡らせるべく調査しているのですな。シェマウ(下エジプト)では、いまだ地震の余波で食糧不足気味であるところへ、盗賊が行き交って物騒な事態が続いておりますとか」
「でもそれは、本来の州侯の職分ではないはずよ」
「大王様のお決めになった前例に照らせば、そうも言えますな。しかし、本来それを成すべき王都が、神殿にそれを委ねてしまって以来、神官のやりたい放題がまかり通っているのは事実でございまして…」
「我が《ナルカ王家》の王領内でもそうだというの?」
「王領といいましても、神殿に寄進した形になっておりますから、実際のところ監督もしにくくなっております…」
 次第に、老人の声はトーンが落ちていった。王妃は老人を見遣りながら溜息をつく。
「それこそがヌートに付け入られる原因になるのよ。迷惑するのは結局民だというのに、州侯と、王都と神殿の間で延々と駆け引きが繰り返されているだけなのね」
「西州侯の苛立ちは、わからんでもないですが、州軍を背景に強権発動したともなれば悪しき前例となるおそれがあります。領主である当《ナルカ王家》としても、今のうちに手をうっておかれることをお勧めいたしますが」
「かといって西州侯を訴えて、ヌートを勢いづかせるのは我慢できないわ。やはり、その件は宰相任せにせず、詳しく調査させてわたくしに報告しなさい。西州侯を処罰するにせよ、しないにせよ、ヌートの言いなりに引きずられることは避けねば」
「御意のままに」
「シェマウはそれほど混乱続きなのですか?」
「は…ことに、異国と国境を接している地域は、盗賊どもが跋扈して惨い有様らしゅうございます…」
 王妃はたちまちに顔を曇らせ、血の気が失せるほど唇を噛んだ。
「そんな有様なのに、王都は何ら有効な手を打てないのですね。わたくしも、ヌートと顔を合わせたくなさに引き篭もっていましたが…そんな悠長なことをしている場合ではなかったわ…なんと愚かなことをしていたのか」
「姫様のご心労お察しいたします…」
 セケンレ老人の手が震えるのを目の端にとらえ、王妃は訝しげに問う。
「爺や。まだ、わたくしに言いたいことがあるのね?なんなの?これ以上驚きはしませんから、全部言っておしまい」
 老人はその言葉にびくっと身を震わせ、しばらく沈黙したあと、意を決したように口を開いた。その様子は、まさしくこれこそが彼が言いたかったことだと思わせるに十分な真剣さであった。
「実は…さる筋より、王が御妹君のご成人式を急がせていると漏れ聞きました」
 王妃は、なんのことかわからずただ軽く眉をひそめただけである。王妃の異父妹ネフェルキヤ王女は、当年13歳ではあるが、混乱続きで成人式を延ばしていたため、扱いとしては子どものままであったから。
「ファラオが…ああ、このようなことを申し上げるこの爺をお許しくださいませ!最近、姫様の許にお通いでないということですが…お心当たりはございませんでしょうか」
 搾り出すような老人の言葉に、王妃は一気に青ざめた。全てが明瞭に把握できたからである。
「まさか…まさか…陛下はこのうえキヤを第二王妃に据えようと…?」
「ああ、わたしも将にそれを恐れておるのでございます。王には、姫様をはじめご愛妾の方々が未だお子をお産みでございません。スメンクマアト大王の血を残すには、一番重要なことをなしておられない。それで、王を焚きつけたものがおるのでしょう」
「またヌート宰相なの?」
「…断言はいたしませぬが、どうやらその疑いが強うございます。王家の婚姻を司るアメンの神官である宰相なら、この企てを推し進めかねません」
「そのような勝手なこと、わたくしは断じて許しませんよ!」
 今や王妃は椅子を蹴るようにして立ち上がり、怒りのあまり全身をふるわせていた。普段はほの白い顔に、怒りのせいか朱が走り、釣りあがった切れ長の眼が爛々と煌いて別人の如き迫力である。
「王族の婚姻は、当主が決めるもの。特に《ナルカ王家》の王女がいずれに嫁ぐかは、当主のわたくしが決することです。陛下にお勧めするそのへんの側室選びではあるまいし、わが王家の姫に対してようもそのような無礼な差し出口を…」
 それでも苦々しい表情で、セケンレが
「しかし…このまま陛下と姫様に和子がお生まれにならぬことがあれば、賢しげにそのような進言をして参る臣下が出ぬとも限りませぬ。ファラオの世継ぎは、二王家の血筋を受けたるものでなければならぬと…」
「キヤには、わたしのような気苦労はさせません。させようとするものも許さぬ!」
「それでも、敢えて爺は申し上げます。このままお世継ぎがいらっしゃらぬ事態が続けば、王家存亡の危機にございます。キヤ姫様を陛下にというのは、ティティス様にはお辛いこととは思いますが、確かに一つの選択肢であるのではございませんでしょうか」
 老人は痩身を乗り出すようにして、王妃に全身で訴えかけた。彼とても辛い進言であるには違いなく、その顔色は死人のように蒼白であった。それでも、彼は王妃の理性に賭けたのだ。生れ落ちた時から見守ってきた者として、あるいは内乱時代を家令として潜り抜けて来た者として、この王妃には嫉妬など無縁であろうと信じて。
 だが、王妃は立ち上がったまま老人を睨み据えるようにして強く言った。
「いいえ!その道こそが、多くの王家の者を滅ぼしてきたわ。父上も、叔父上も血族を憎み合ってお心を喪くされて命を落とされた!たった11で無残に殺されねばならなかったシェマイトラー兄上も、御子を二人も暗殺された悲しみのあまり病がちであった母上も、皆その犠牲になったのです!もうそんな醜い争いは沢山よ。わたくしが世継ぎを産めないなら、キヤ以外の誰にでも他の女に陛下の御子を産ませればよい。その子がファラオに相応しければよいのです!」
王妃は並々ならぬ決意を込めて、言い切った。その気迫に抑えつけられたように、大家令は額を床にこすりつける。
「御意。そうまでお考えであらば、もう爺は何も申し上げませぬ」
 その上を、王妃の決然たる言葉が流れていった。
「セケンレ、お前には先ほど言いつけたことを遂行するように命じます。あとは、わたくしにかわりしばらく後宮のことをみるように頼みます」
 老人は、撃たれたように拝礼した。
 そそくさとセケンレ老人が退出してゆくと、王妃は畏る畏る伺候した女官長に短く命じるのだった。その声は鋭く、強く、さながら戦場で指揮をとる将軍のよう。
「今すぐ、キヤのメンナト(傳育官)をお呼び!」
「畏れながら王妃様、アンクエレ殿は王領からみの所用でエドフへ出ておりますが…」
「ならば今すぐ呼び帰しなさい!」
 居並ぶ侍女たちは、王妃のめらめらと燃え上がらんばかりの怒りに声もなかった。





同じ頃、下エジプト第3ノモス・イメンテト州の都、イムゥ市においてもう一人の「イシスの娘」が産声を挙げた。
彼女の父親は、初めての子である彼女を、母親の希望を入れてイシス女神の御名を頂いたアイシスと名づけた。アイシスは大きな黒い瞳が印象的な、くっきりとした目鼻立ちの美しい赤ん坊であった。
「今にきっと、素晴らしい美人におなりですよ」
やけに手馴れた手つきで赤ん坊を抱き上げた青年が言う。
「ほう。イピは生まれたての赤ん坊の相をみるのか?それともお前、どこかに子どもを作ったか?」
「兄貴の子どもを山ほど見てますから。でも、こんなに美しい赤さんは初めてみました。お名前に相応しい御子ですねぇ」
父親に赤ん坊を手渡しながら、イピはなおも感心したように赤ん坊のくしゃくしゃの泣き顔を見つめつづける。
「ケネプ隊長も、そう思われませんか?」
「確かに。うちの坊主のときとは比べものになりませんな。母君に似てらして、ようございましたよ」
 赤ん坊を怖々抱き上げていた父親は、それを聞くなりややむっとしたように
「何を言うか!目のあたりはわたしに似てるだろうが。よく見てみろ!」
「はいはい。さようですね」
「なんだその気のない返事は!」
「殿、いいかげんになされませ。ケネプ様が困っておいででしょう」
 床の中から、そう笑ったのは母親のナスリーンである。先日娘を産んだナスリーンは、身体はまだ産褥の疲労を引きずってはいたが、笑顔は輝くように美しかった。彼女は予定日が近づくと、公邸から出て、イピが手配したイムウ郊外の小さな村の民家に産屋を設け、そこでお産をしたのである。
 娘が生まれたと知らせが入ったとたん、父親であるイブネセル・アヌイは14日間の産褥のための忌み日が開けるのを待ちかねたように、ケネプ補佐官とともに産屋を訪れ、お産の一切を手配したイピも交えて、はじめての娘に対面したのだった。戦場ではいかなる躊躇もしないアヌイも、あまりに小さな娘を抱く手はこわごわとぎこちなかった。しかしそれも、娘をあやしているうちに融け崩れ、今ではイピを相手に早くも親馬鹿を披露する有様である。
 ナスリーンは、そんな彼の何とも言えず嬉しそうな顔を見て、愛しさと誇らしさで胸が一杯になる想いである。わが子を飽かず眺めるアヌイの顔を、ただただ微笑を浮かべて見つめているのだった。
以前、アヌイ自身が彼女にが語ったところによれば、彼はイムゥ市より更に北、オシリス信仰の厚いブシリス(ジェドウ)市に近いデルタ地帯の小領主の三男として生まれている。彼はごく若い頃から兄たちと共に戦場を駆け回って、やがて王軍に入った。以来、故郷に帰ったことはないという。生母には早くに死に別れ、父も兄も戦乱で亡くし実家は没落した。故郷には遠い係累がいるらしいが、なんの連絡もとっていないとか。ナスリーンも天涯孤独であるが、アヌイも似たような境遇であったのである。

(わたしはアヌイ様の正式な妻にはないれないけれど、とりあえずは家族なのだわ…)

彼女の微笑みはどこまでも透明な輝きに満ちている。そして愛する人に子供を抱かせることができた喜びが、人知れぬ泉の水面のように穏やかな美しさをナスリーンに与えていた。
 やがてアイシスが眠気を催したのかぐずり始めたのを気に、ようやくアヌイは腕の中の小さな娘をナスリーンに返す気になったようだった。慎重な手つきで娘を手渡す際に、やけに真面目くさった表情で
「礼を言うぞ、ナスリーン。わたしにこのように愛しいものを与えてくれたこと」
「わたしこそ…殿にお礼を言いたいのですわ」
 ナスリーンはアヌイの真剣な眼に微笑みかけると、背後で会話を交わすケネプたちに聞かれないようにつと身を寄せた。そして、アヌイに抱きしめられたまま彼の耳元でそっと囁いた。
「わたしにとって人は恐ろしいものでした。わたしの力は、時として自分が見知らぬ他人そのものになることがありますから…だからこそ、琴の音色のほうが近しいものに感じていたのです。でも、アイシスがお腹にいるとき、あの恐怖は感じなかった。そしてアイシスをこの手に抱いたとき、愛しくてたまりませんでしたわ。人の心の裡がわからなければ、触れて抱きしめて、愛していると伝えればよいのですね…それを判らせてくれたのはアイシス。そしてあなたですもの」
 そうして今しも眠りに落ちようとする娘の柔らかい頬に指を滑らせると、アヌイを見上げてふわりと微笑んだ。
 アヌイは無言でナスリーンの頭ごと抱き寄せると、瞼の辺りに口付ける。少し涙の塩辛い味がするような気がした。
「閣下…申し訳ありませんがそろそろ…」
 背後から慎ましやかな咳払いがして、ケネプが帰還の刻限であることを告げる。
 すると、アヌイは忌々しそうに振り返って
「聞いたか、ナスリーン。ケネプは本当に無粋なやつだろう?」
 そういって、もう一度、今度はわざとらしくナスリーンの唇に接吻し、眠ってしまったアイシスの額にも口付けると、ようやく身を起こす。
「では帰還するか」
「はい」
 ケネプは可笑しそうな表情をこらえきれず、イピを促して先に産屋をでてゆく。それに尾いて出かけたアヌイだったが、戸口のほうで振り返り、寝台に起き上がって見送るナスリーンに
「また来る。身体をいとえよ。何か不都合があったら遠慮なく邸に使いをよこせ」
 と優しく声をかけた。
「はい。ありがとうございます。女神の祝福があなた様の上にありますように」
 ナスリーンはアイシスを抱いたまま、そう挨拶を送るのだった。
そしてアヌイの丈長いマントの後姿が、葦の茂みに隠れて見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
無意識に身体をゆすり、小さな声でいつか誰かに教わった子守唄を歌いながら。

 
 



 だが、ナスリーンがようやく見出した幸せに陰りがさすのも、そう遠いことではなかったのである。
 ジェドカラー王の治年第4の年、王は突貫工事で修復を仕上げた大王葬祭神殿にて、無事新年の儀式を行うことができた。儀式を行ったのは、今や宰相を兼任するまでになったヌート大神官である。その宰相の精力的な巨躯の傍らで、すらりとした王の姿は人々の目にも、いかにも心もとなげに映った。
 しかし、王は更なる親政をとの意気込みで気負い立っており、人々の声無き憂慮など一向に眼にはいっていない様子であった。
そこへ、王都の人々を驚愕の渦に陥れる一報が飛び込んできた。
もうもうと砂煙を立てて、王宮の門前に一騎の兵士がたどり着いたのである。砂と埃にまみれ、疲労困憊したその兵士は、意識を手放す前に小さな一つの箱と書状を役人に手渡した。
 目の前に持ってこられたその箱を見て、玉座に腰掛けたファラオは開けるように指示し、大臣の一人が青ざめながら蓋を取ってみせた。
「こ…これは…ヘンティ・イアブティの州標…」
 固唾を呑んで見守る一同の前に、真っ二つに折られた黄金の州標が掲げられた。【東】を表す聖なる文字が無残に真ん中から切られている。そして、その上にセト神像がつけられているのを見て一同はしんと静まり返った。
「その他には何がはいっておる。それにそのパピルスが見たいぞ」
 沈黙を破るようにしてジェドカラー王の低い声が響き渡った。
 すらりとした長身のファラオは、いつもの癇症な早い口調ではなく、一同の心底を寒からしめるように抑制の効いた態度で、ゆっくりと広間に居並ぶ大臣たちを見渡した。
「人の耳が…」
 唇を舐めながら、青ざめた大臣が中からそれを採り上げた。
 おう―――というどよめきがあがる。黒く乾いた肉片には不釣合いなほど華麗な耳飾が残っていた。【永遠】を象徴する、王の個人的な徴でもある「ジェド」を象った金と赤のイヤリング。それの持ち主を判別し、送り主の伝言を見抜けという意図が明瞭に感じられるものだった。王はすっと冷笑を浮かべ
「テティアンが討たれたか」
 王の一言に、傍らに立っていたヌート宰相が声を張り上げた
「おのおの方、へブアの砦が落とされたようだ。これは明らかにファラオと王国に対する叛乱ですぞ、そしてこのパピルスによればその旨がはっきりと記されている。かくなる上は、討伐軍を起こすべしでしょう」
「その通りだ。我はこの赦しがたい反逆者に存分に思い知らせてやらねばならぬ。軍議を開くぞ」
 王はすっと立ち上がると、手にした勺杖で強く床を打った。
「ケメトの秩序を乱すものは、なんびとであろうと死を持って贖わせる!」
 大臣たちは一斉に恭しく頭を垂れた。
 だがしかし、王の背後にあるもうひとつの玉座にぽっかりとあいた空間が、彼らの心を益々重いものにしていたのである。

たちまちこの知らせは王都を席巻した。
下エジプト第14ノモスのヘンティ・イアブティ(上東方)州の都アヴァリスにて謀反の狼煙があがったと。しかも反乱軍を指揮するのは、州侯アアム・ワァルト自身であるという。ワァルト侯は自らの領土の北端に隣接するへブアの砦を急襲して陥落させ、砦の守備隊長であり王の親しい友であったテティアン将軍を殺害し、耳を切り取って王に送りつけたことも皆が知るところとなった。
上東方州はケメトの東部国境を守る重要な地であり、その地を守るはずの州侯が中央に叛乱を起こしたという報は、民を驚愕に陥れるに十分なニュースであった。

カナーンの北方三州の領主と連動した大反乱の幕開けである。それは、征服王スメンクマアトが打ちたてた一時代の秩序の崩壊を告げる嚆矢でもあった。

そんなある夜、王が宰相と二人きりで篭った至聖所でのことである。
「宰相よ。大王の御霊は遂にわたしを見放そうとなさっているのではないのか…」
神像を見上げたまま、ぽつりと王が呟いた。彼の秀麗な面は見事なまでに無表情であったが、
けっして宰相の精力的な目を見ようとはしない。
 そんな王に苛立ったように、だが、どこまでも礼儀正しく、宰相は声を強くして励ますように言う。
「何を仰いますか、お気弱な!このように、葬祭殿を復興させたファラオに大王様のご加護のないはずがありませぬ。直ちに北面師団を動かし、反逆者ワァルトの討伐に向わせるべきでごじましょう」
「シェマウ(下エジプト)の諸侯を動かせば良い」
「なりませぬ。特に、あの罰当たりな西州侯あたりは、これ幸いとばかりに近隣に勢力を伸ばすにちがいありません。直接王軍を派遣して、ワァルトと他の諸侯の連携を防ぐべきでございましょう」
「わかった。宰相に任せる。余はここで祈っていることにしよう」
「御意のままに」
「のう、宰相よ。これで試練は最後であろうか?」
「……陛下…」
「これを乗り切れば、余を認めていただけようか……」
「ご心配にならずとも、陛下は、天に嘉されたる偉大なる王(ファラオ)にございます」
 その一言に、初めて王が宰相を振り返った。
 両脇に垂らした房が振り切れるほど激しい仕草で、そして吐き捨てるように王は
「もうよい。退がれ!!」
  扉を指差す王の指が細かく震えている。
  宰相は分厚い唇を歪めると、恭しげに逞しい体躯を屈めゆっくりとした足取りで出て行った。
  その足音が聞こえなくなると、王はくるりとまた正面のスメンクマアト大王の神像を振り返り、ぎりぎりと睨みあげた。
 そして王は眼の前にあった蓮の花束を振り上げると、力任せに壁に投げつけた。跡形もないほど花は砕け、あたりに雨のように花びらが舞い散った。狭い室内は、香の濃密な香りと、花の馥郁たる芳香で息がつまりそうなほどである。
 そのなかに佇む聖なる白い衣装の王の影が揺れる。
「蛇めがっ!」 
一人、至聖所に佇むジェドカラー王の目には、煮えるような怒りが燻っていたが、冷ややかに見下ろす神像のほかは誰も王の心の裡を知りようがない。
 
同夜、後宮の王妃の室に一人の男が姿を見せた。
「アンクエレでございます。お召しにより参上いたしました」
「お入り」
 アンクエレは、普段どおりの平静さを保っていたが、通された部屋に足を踏み入れたとたんややたじろいだ。いつも通される居間ではなく、窓のない王妃の書斎だったためである。うずたかいパピルス文書の束に埋もれるようにして、王妃が待っていた。
灯火が一つだけ灯され、王妃の姿を幻想的に浮かび上がらせる。まさしく、彼女は壁画の女神のように凍り付いていた。
そして、王妃はゆっくりと彼の方を向き直ると
「キヤは?」
「御寝みになられました」
「そう。最近忙しくて、ゆっくり話をしてやるひまがないのだけれど、元気にしていますか、妹は?」
「はい。珍しく真面目にお勉強なさっておいでです。進講の老師方もあの方の理解の早さに舌を巻くほどでございまして、これで暫くはわたくしも安心して眠れると申すべきでしょうか」
わざとらしい彼の軽口にも、王妃はにこりともしなかった。
アンクエレは、出張先のエドフから急遽自分を呼び戻した王妃の用件は、ただ事ではないと直感して身が引き締まるのを感じた。王妃の類まれな美貌は、冷たい炎に照らされて彼から言葉を奪った。
そのとき、きゅっと結ばれていた王妃の形の良い唇が割れて、渇いた声がもれた。それは、限りない歳を取った巫女の口から漏れるに似た、韻々と長く尾を引く不吉な響きで彼の耳を打った。
「アンクエレ、叔父上を討った時のように今一度わたくしの参謀となり、そなたの命をわたくしにくれぬか」



9章へ続く


 

 7.ナスリーンの予言

 突如沸き起こった馬蹄の轟きに、盗賊たちは凍りついた。
 彼らが警備兵の留守をついて急襲した村は、無残に蹂躙され、男たちの死体が累々と横たわり、一箇所に集められた女子どもは声もなく座り込んでいる。食料を根こそぎ奪い取り、次々と駱駝の背に括り付けていたところだったのだ。それを遮る轟きにたちまち動揺が走った。
「な、そんな馬鹿な…警備隊は東へ召集されているはずだぞ!」
「でも、首領、あの…あの旗の徽章…イメンテト女神の徴じゃ…」
手下が震える指で指した先に、砂塵に靡く旗が見えた。隼と羽の縫い取りは、イメンテト(西方)女神のマークである。総勢100人ほどの盗賊たちは、いつの間にやら、ぐるりと軍隊に取り囲まれていたのだった。
ここはリビア国境のオアシスに程近いファルン・ワジの村。
この村を襲った盗賊たちは、驚きながらも相手の少人数を見て取って、すぐさま応戦体制に切り替えた。
「ようし。あいつらもついでに身ぐるみはがしてやれ!ファラオの印章が刻まれた王軍の剣なら質がよくて高く売れるからな!皆殺しにしてやんな」
 首領の掛け声一下、剽悍な沙漠の盗賊たちは兵士をめがけて突進を開始した。
 しかし、迎え撃つ形になった小隊は、落ち着き払っている。先頭にいる黒いマントをはためかせた若い男は、手を上げて後ろの部下を牽制し、存分に引き付けると一気に振り下ろした。
 沙漠にもうもうと砂塵が立ち込め、馬蹄の轟きと剣戟の音が高く混じりあう。
 そのなかで、右に左に剣を振るっていた首領は、手下を叱咤してみるみるうちに返り血に染まっていく。
「お前が首領か!?」
突如正面から聞こえてきた陽気な声に、ごま塩髭の首領はむっとして剣を振り上げた。
「そうともさ。お前ら、すきっ腹の州兵なんざ一刀両断にしてやるぜ、来な!!」
「そのすきっ腹の我らの食糧を狙ってくるお前らは何だ?ハイエナか?どうせ目もかすんで剣も満足に振るえまい!」
 そうののしったのは、先頭にいた若い男だった。隼のように鋭い目が首領を射抜き、しかもこんな乱戦になりながら、どこかふざけた風情のある口元で笑っている。彼もまた、長剣を血に染め、半身に返り血を浴びて壮絶な姿になっていた。首領は、男の技量を人目で見て取ったが、相手の若さと自分の半分くらいしかない体つきをとらえると、地面にペッと唾を飛ばし、剣を構えなおして馬腹を蹴った。
「それはお前が確かめてみやがれ、若僧!」
 両者は激しく激突し、数十合打ち合った、しかし、首領が一撃を繰り出したとき、半身をねじってそらせた男は間髪いれず首領の顎下から斬りあげ、その斬戟の激しさで、首領が馬からどうと落ちた。すかさず、馬から飛び降りた男は、首領にのしかかって身動きできないように固めると、さっと剣を握り替え首領の厚い胸板に渾身の力で振りおろす。断末魔の叫びは短かった。男は迷わず短剣を抜くと、ざっくりと首領の首を掻ききった。
「首領は討たれたぞ!」
 ごま塩髭の首を掲げて男が叫ぶと、兵士たちは俄然勢いづき、反対に今やほとんどが斬り殺された盗賊たちは、泡を食ってわれ先に死から逃れようとする。
「逃すな!黒土(ケメト)の国境を侵すものに、その罪を思い知らせるのだ!」
 男が大音声で一喝したそのとき、逃げ出す盗賊たちの行く手に、またもや兵士の一団が現れた。
 それを率いる長身の指揮官は、にやりと笑って鞍上で長剣をしならせている。そして一気に丘を駆け下りてくると、次々と血煙の下に盗賊たちを叩き込むのだった。
 たちまちのうちに、盗賊たちは壊滅状態になり、10名足らずを残してほぼ全滅の有様となった。
「ケネプ!たまにはわたしに最後までやらせろ!」
 血まみれの顔を陽気に崩して、先ほど首領を葬った若い男が笑う。その腕に隼と羽の紋を掘り込んだ金の腕輪が輝いていたが、これも持ち主同様朱に染まっていた。
「毎度毎度そうおっしゃって、あなたが殲滅された盗賊団はこれで4つめでは?そろそろ、わたしにも剣を振るわせてくださいませんかね」
 こちらは、まだ砂まみれながらも白いマントを汚しもせずに、背の高い指揮官は苦笑した。隼と羽で象徴されるイメンテト神は、下エジプト第3ノモスの州神であり、それを掲げる兵士を率いるのは、西州侯イブネセル・アヌイその人。加勢した小隊を率いるのが、州軍長ケネプである。
「なんのまだまだ暴れ足りんぞ!」
 イブネセル・アヌイ侯は、剣の血糊をマントの裾でぬぐいながら死体の山に顎をしゃくった。
「が、まあここまで叩いておけば、当分チェヘヌ(リビア)との国境は静かだろう」
「はい。もう残るはせいぜい数十人単位の盗賊団ですから、いかにお粗末な国境警備隊でも手に負えないということはないでしょう」
「はん!本来なら、奴らの仕事なんだぞ。このクソ忙しいのに、なんで州軍を動かなきゃならんのだ」
 危うい文句もこの人物の口からでると、笑いを誘われるのか、周囲の兵士たち(幸いにして、死者は18名ですんだ)も口元をほころばせる。
「ペルセン!奴らの根城を吐かせてそこに向え。お前の部隊を全部連れて行っていいぞ。残党を始末したら、お宝があるだろうから、それを根こそぎもって帰れよ。それから、アクト」
「はっ」
「お前の部隊はこの村に残しておくから、村人の保護にあたれ。2日で戻れよ、あとは、シナトルーンオアシスの役人に任せておけばいい。それと、東チェヘヌの各部族の長に連絡を取ってすぐにイムゥへ来るように言え!おまえらの怠慢でこの有様だときつく言っておけよ!」
「かしこまりました」
 ワジで暫時休息を取る間も、アヌイは歩き回っては兵士たちの様子を見て周り、生き残った村人に声をかけて励ました。更にそれぞれの部下に細細と指示を与え終わると、アヌイは鞭を鳴らして、東を示した。
「では、皆ご苦労だが、今日のうちにフゥトイヒトの砦まで帰還するぞ。続け!」
 結局40名弱の小部隊となった州軍は、アヌイの指揮のもと、沙漠を東へ駆ける。アヌイの傍らにはケネプが付き添い、時折馬を寄せてはなにやら話し込んでいる模様であった。
 アヌイの活躍を目にすれば、例えば、ケネプの妻ナフテラなら目を丸くし、息子のミヌーエならば手を打って大喜びしたであろう。
このところ、西州侯は、地震後の下エジプトの混乱に付け込んで、西のリビア砂漠から侵入しては農村を襲い、食糧や時には村人を奴隷に連れ去る盗賊団の一掃に忙殺されていた。西州はその名のとおり、下エジプトでも最西部に位置するため、豊かな耕地の恵を狙って西から侵入する盗賊にとって、格好の進入路となるのである。本来なら、国境を警備する王軍が盗賊征伐にあたるべきなのであるが、先ごろ警備隊を上エジプトに大移動させる勅令が出され、そのため、手薄になった西部国境は盗賊の跋扈する暗黒地帯と化していた。
このことは、国土の防衛上も、州の経済的要請の観点からいっても憂慮する事態であった。カナーン地方からエジプトに入る東廻りの通商路ほど活発な交易はないとはいえ、リビア経由で西からもたらされる大緑海の島々の産物は、エジプトにとって貴重な貿易品である。特に、ケフティウ(クレタ)からの荷、西沙漠地帯で産出する岩塩や神事のほかミイラ作りに欠かせないナトロンを運ぶ隊商の安全確保は、西州の重要な任務であった。
ただしそれはかつての話である。
 州侯の職務権限は、昔は徴税から国境警備まで幅広く及んでいた。しかし、200年前に全土を統一したスメンクマアト大王は王の権限を強化するため、各州侯の権限を容赦なく削り、以後の王もその方針を踏襲した。そのため、今や、州侯といっても実質的には州都の市長程度に過ぎなくなっている。各州における軍隊も、地元の徴収兵の寄せ集めで、決してその軍事力は高くなかった。
 しかし、イブネセル・アヌイ西州侯の場合、もともとが王軍南面師団の将軍を勤めた人物であり、一時には一万余の兵士を指揮していたこともあって、彼の赴任以降、西州軍は組織改変により格段に強化されていた。地震以来、職にあぶれた農民の若者が流れ込み兵士のなり手には不足しなかったし、それらを指揮する人材も他州よりは恵まれていた。なんと言っても州侯がこの地に赴任してきたとき、ケネプのほかにも王軍から移動してきた隊長連中も少なくなかったのである。言い換えれば、現段階で盗賊団征討の任に堪える力があるのは、弱体化した国境警備隊より西州軍であった。
とはいえ、西州も地震の後の混乱で、街や耕地の復興に手をとられることもあり、そういつまでも盗賊退治に走り回っているわけには行かなかった。
 もうとっぷりと日が暮れたころ、ようやく目指すフゥトイヒトの町が見えてきた。
市内中心部にセクメト神殿を擁するこの町は、イメンテト州のなかで州都イムゥに並び大きな町である。一同は、神殿側の供応で部屋を提供され、ようやく腰をおろすことができたときははや真夜中近くになっていた。
「もう少し御酒を運ばせましょうか?」
 そういって、ケネプが話し掛けたにもかかわらす、その言葉は主の耳を素通りしたらしかった。アヌイは杯を弄びつつ、神殿の中庭の暗闇を見下ろしたまま返事をしない。夜陰に混じって、樹木の爽やかな香気が流れ込み、心地よい宵であった。だが、アヌイの表情は爽やかとは程遠い。
「閣下?」
「ケネプよ、見てみろ、あれを」
 アヌイが顎をしゃくったさきに、神官たちが夜の儀式に望むべく供物を掲げて至聖所へ向う姿が続いている。いずれもつるリと頭部を剃りあげた神官たちは、恰幅もよく、沐浴のあとのせいか汚れ一つない清潔な衣をまとっている。後ろに続く、供物群は夜目にも膨大な量であることが見て取れる。幾つものワイン壺、パンの山、大量のトリの足がのぞいている。
「今日、我らが村から守った食糧だとて、あれよりは少なかろう。一体、今のご時世にあれほどの供物が必要か?」
「確かに、この神殿は財政事情が豊かなようで…」
「違うな。ここだけではなく、ある程度の領地を持つ神殿はどこも台所は潤沢だろう」
「それはそうですが、いずれは領民に下されるわけですし…」
「その前に奴らの腹にはいるのさ。見ろ、あの坊主どもの弛んだ腹を!」
中部エジプトの農村出身で、どちらかといえば敬虔な人間の部類に入るケネプは、主の暴言に顔を顰めた。
「アヌイ様、どこで誰が聞いているかわかりませんぞ。ご自重ください」
「待て待て、勘違いするな。別にわたしは、女神に文句を言っているわけではないぞ。まあ、言いたくなる気持ちは多々あるがな。巷には、食糧不足に怯える民があふれて、備蓄を掠め取る盗賊が横行しているのに、神殿は大王の出した聖域のお墨付きを盾に、我ら州政府には指一本触れさせん。それがおかしいといってどこが悪いのだ?」
 歯に衣着せぬ口調で、アヌイは言い切った。そのよく日に焼けた面長な顔から、先ほどのふざけた雰囲気は消え、鋭い目が真摯な表情を浮かび上がらせた。ケネプは座りなおすと、咳払いして口調を改めた。
「つまりは、神殿領も州侯の支配下に置けと仰いますのか?それでは、大王が打ち立てた神殿の保護政策に真っ向から異議を唱えることになりはしませんか」
 アヌイははんというふうに鼻に皺を寄せ、益々容赦ない口調になる。
「大王!スメンクマアト大王陛下か!!死んで140年以上になろうというに、かの君の影がまだこの国を支配しているな。人の心さえも。考えてもみよ、大王が神殿の保護を厚くしたのは、当時の州侯連中の力がまだまだ侮りがたいほど強大だったからにすぎぬ。王家の後援者として神殿を重視したわけだ。しかし、そうやって強大な権限を集中させた王家のほうは自ら自滅しつつあるではないか。このたびの地震の後始末にさえ、有効な手を打てないほどな」
「では…あなたは古の諸侯がもっていたように、ノモスの権限を拡大せよと仰いますか?」
「そこまでは言わぬさ。せめて、己の治める州民の保護に足るほどの裁量を与えて欲しいとは思うがな。ま、それもこれも、もともと神官なんていう胡散臭い連中は好きではないから言うのだが」
それを聞くなり、ケネプはいっそう思案顔になった。
「それでは今からはもっと厄介なことになりますな。とうとう、大王葬祭神殿のヌート殿が宰相に就任するそうで。神官から宰相というのは、珍しくないですが、あの御仁は書記神官ではなく祭司神官ですからね。いかに、行政手腕に長けた方とはいえ先が思いやられます」
「思いやられるどころか、お先真っ暗だろうよ。ヌートが目指すのは、自分が率いる大王葬祭神殿が全神殿に優位してこの国に君臨することだからな、この先ますます手のつけられん聖域が拡大することになりかねん。そうすると必ず、イペトスウト(カルナク)と大王葬祭神殿の主導権争いが再燃するだろう。考えただけでうんざりだ」
 アヌイは不味いものでも口にしたように、苦々しく吐き捨てた。
「ファラオはなぜ、そこまでのヌート大神官殿の増長をお許しになるのだと思われますか?」
「陛下は…決して暗君ではない。大王の威光を借りて、この混乱を立て直す気でいらっしゃるのだろうと思う…が、最近あの嗜虐の気の噂を聞くとそれも不安になるな」
 アヌイは宙に眼を据えて、手にした果物の種を指で弾き飛ばした。
「王都の役人は、出仕前に妻子と別れの酒を交わすそうですよ」
「そうだろうなあ…最近は王都からの小うるさい指示もないし、我が州でも砂漠の小部族から通行税を巻き上げ、盗賊退治に走り回れるほど勝手ができるからな。ある意味、こちらは助かるが、王都の民は堪るまいよ」
 アヌイは外の暗闇に目をやり、表情を厳しく引き締めた。
「ケネプ…これは好機と見るべきではなかろうか?」
 それは、決して大きな声ではなかったが、彼の補佐官を圧倒した。
「閣下…」
「わたしはここへ飛ばされたとき、それまでの軍歴が全て否定されたというのに、あまり絶望はしていなかった。正直、戦に飽いていたし、この田舎ののんびりした雰囲気は、宮廷の殺伐とした空気を忘れさせてくれたからな。だが、この穏やかさも、全ては宮廷、ひいては王都の役人――まあ結局は大王家だが――が握っている。民の生死を分ける盗賊対策も、ほったらかしで権力ごっこに没頭している奴らのな!わたしは、最近つくづくそのことを馬鹿馬鹿しいと思うようになったぞ」
 ケネプは喉に絡んだ声を漏らした。
「わたしも、今の混乱の諸悪の根源は、王都と王家の力が弱まっているせいだとは思います。しかし…何といっても大王の打ちたてた平和の力は大きい。州侯がかつての有力諸侯並に勢力を伸ばせば、またこの国の分裂を招き民は塗炭の苦しみを味わうことになる。それは避けたいと思うのです。これまでの内乱でも結局ひどい目にあうのはいつも農民でした」
 実直なケネプの脳裏に浮かんだのは、故郷の妻子の姿であったかもしれない。アヌイはそれを黙って見返し、静かな声で宣告した。
「わたしとて無用な混乱は望まぬ。だが、このままでは間違いなくこの国は割れる」
「あなた様はそれをお望みですか?」
「さぁ…わたしがすすんで割ってやると思うほどの意欲はないが、割れたならわたしにとって捲土重来の機会であることは確かだろう?さてそのとき、わたしはどうするか――お前はどうする?」
「今更なことをお尋ねになりますな。そもそも、あなたがメフウ(下エジプト)の僻地を切り取り強盗まがいに手に入れてそれで満足なさる方ですか?それにどうせあなたのことだ、そうなったらなったで腹案の一つや二つ、いや十くらいはお持ちでしょう。最近はサイス侯にもお近づきのようですしね」
「サイス侯はメフゥ(下エジプト)諸州の盟主たる家柄のお方だからな。先代のお父君には世話になったのだ。今の御当主ラーヘテプ殿はお人が良すぎて頼りないが…正直、その方がわたしには有り難い」
「あなたのなさる事は意図がわかるようでわかりませんが…、とにかくお好きなようになさいませ」
アヌイは、実直な部下の真摯な眼ざしをじっと受け止めると、いきなりくすりと笑った。
「思えば、お前とこんな話をするのは久しぶりだ。わたしもいよいよ子持ちになるし、いろいろ思うことがあるせいかな」
「そうですね。あなたは何でもお一人で決められるし、そのうえ随分遊びまわってなかなか本音を聞かせていただけませんでした。ナスリーン殿に感謝すべきでしょうな」
 いろいろ言いたいことがあるケネプだったが、するりとこちらの懐に入ってくるこの上司にかかってはその意欲も失せるのである。ある意味この二人は正反対の性格の持ち主であった。即断即決且つ秘密主義のアヌイと熟慮慎重型のケネプ。だからこそこの二人のコンビが続いているのだともいえた。ケネプも気の置けない口調になり、自らの杯に酒を継ぎ足した。
「もうそろそろ、産み月ですね。お帰りを首を長くしてお待ちでしょう」
「そう意味では、お前の妻子にはすまぬことだと思う」
「仕方がありません、軍人になったときから覚悟はしてますから。ところで、いつナスリーン殿を妻にお迎えになるのです?」
「あれが結婚するのは嫌だというのでは仕方ない。ナスリーンは神殿こそ離れたが、イシスの女神官の籍を返上したわけではない。公認楽師を続けるなら、神官籍は必要だからな。しかも、あのイシス神殿の女神官は未婚の女と決まっていて、既婚者は神官はおろか楽師にもなれぬらしい」
 ケネプは納得のいかないといった顔で、首を傾げた
「では、神官籍にこだわらなければ良いだけの話ではありませんか。ナスリーン殿ほどの技量があれば、無籍でも十分やっていけましょう?」
「わたしも何度もそういったさ。だが、あれは物心つく前からイシスの神殿で育ったせいか、神殿を離れるなど考えもできぬらしい。楽師も辞めることはできんという。子を産んでもわたしの傍にいられればいいといって、そのままだ」
「それでいいのですか?あなたも」
「わたしは別にかまわん。ナスリーンがいいなら、それでいいさ」
「この先、閣下が正式な妻を娶られることがあっても、ナスリーン殿はそれでいいと言うんですか?」
「そんなことは考えたこともない」
「ないと言われても…あなたは仮にも一州の長なんですよ。いつまでも独身でいることはできませんでしょう。妙齢の娘を持つ近隣の貴族からも頻繁にお話が来ていますし、大体、結婚に早すぎるほどのお歳でもないでしょうに」
「わたしは結婚はせぬ」
「せぬって…それはどういう…」
 思いがけない言葉に、ケネプは絶句したが、主の顔をみて口を閉ざした。いつもは陽気な主にはふさわしからぬ、陰鬱な表情を見て取ったからである。こうなると彼には手におえぬことを経験で知ったいた。しばらく気まずい沈黙が続き、ケネプは夜もふけたことを口実に、アヌイの室を辞した。
あれほど、豪放磊落で艶聞も多いアヌイが、こと結婚の話になると人を拒絶する口調になるのはなぜなのだろう。自らは、幼馴染の女性と結ばれ、今のアヌイの歳には既に数人の子をもうけていたケネプには想像外のことだった。アヌイの派手な色恋沙汰をどうこういうつもりは、彼には毛頭ない。基本的に愛妻家の部類にはいるケネプも、倫理を他人の色恋に振りかざす愚からは縁遠い人間である。彼が気になるのは、主が時折見せる濃い鬱屈の影だった。滅多に表には出てこないが、一度目の前に出てくるとそれは彼を立ちすくませるほど深い。
 なにが主をあのような絶望的な表情にさせるのか……?
 
 翌日、朝早くフゥトイヒトのセクメト神殿を出発した一行は、昼過ぎには州都イムゥ市に到着した。ペレト(播種季)2月14日の大地震から、はや7ヶ月が経過し、大打撃をうけた市外も着実に復興しつつあった。半壊した州侯の公邸も、瓦礫を取り除いて整備され、市外に広がる耕作地は麦の収穫後の乾いた土が見えている。ナァ・イテルゥが再び増水をはじめるのも間もなくである。
 その公邸のなかでも、静かで日当たりのいい部屋にナスリーンは移されていた。小柄な彼女にはバランスが悪いほどに、その腹部の膨らみは大きい。しかし、その他は全く以前のまま、白ケシを思わせる可憐な佇まいである。
「お帰りなさいませ。ご無事でようございました」
「体の具合はどうだ?食は進んでいるか」
 軍装をとき、くつろいだ普段着姿になったアヌイは、そそくさとナスリーンの額に接吻しながら、その肩を柔らかく抱きしめた。
「はい。順調ですわ」
 落ち着いた色調の幕が寝所を取り巻き、やわらかな光が差し込むなか、ナスリーンは寝台に身を起こして恋人を迎えたのだった。その表情も柔らかい日差しそのままで、久しぶりに見るアヌイの顔に吸い寄せられるように仄かな笑みが浮かぶ。
「それは良かった」
 そういって、彼女の傍で肩肘たてて寝転ぶ姿はどこまでも優しい。
「殿、お帰りになったばかりでこんなお願いをするのもどうかと思うのですが、是非聞いていただきたいことがありますの」
 ナスリーンはアヌイの方ににじり寄ると、真剣な顔で彼を覗き込んだ。
「何だ?改まって」
「この子のことですけど…産まれたら、神殿にいれていただけませんか」
「何?」
 アヌイは半身を起こした。
「女の子なら、イシスの神殿に。男の子でも、いずれかの神殿にいれると約束してくださいませんか」
「お前と同じ道を歩ませたいというのか」
「はい。わたしは途中で降りましたけど、子どもには神の御手の傍に居させたいのです」
 アヌイは眉間に皺をよせ、短く切った黒髪をがりがりと掻いた。
「わたしの手元で育てさせるのはそれほど嫌か」
「いいえ!そういうことではありませんわ。わたしの気持ちの問題ですの…それに、何も乳飲み子のときから離すというのではございません。いずれはそうするとお約束いただきたいだけなのです」
「……」
「殿は、この子を後継ぎになさるおつもりですか?」
「いや。息子が産まれても、必ずしも軍人にしようとは思ってない…が、神官なあ…娘ならそれもいいだろうが、わたしは神官という人種が嫌いなんだぞ」
「それは存じておりますが…なにも悪い神官さまばかりではございませんよ」
「ああ。わたしが言ってるのは、神殿組織の腐敗に我慢できないということだよ。もちろん尊敬すべき神官はおられるし、愛するお前も神官だしな。あの生活にむく人間なら、神殿にはいるのも一つの選択だろうが、まだ産まれてもいない子をやる気には到底なれんぞ」
「でもいずれはご検討くださいますわね?」
「それは約束する」
 ナスリーンはぱっと顔を輝かせ、嬉しげにアヌイの首に縋りついた。
「そんなに神殿を離れたのが心残りか?」
「殿も、軍籍を離れることなどおできにならぬでしょう?それと同じことですわ。もし、この子にわたしのような力があったらと思うと不安で…」
「ではわたしが神殿の敵に回ったら、お前はどうする?」
 ナスリーンの幾分ふっくらとしてきた背を撫でながら、ごく自然にアヌイは尋ねた。しかし、ナスリーンは雷に打たれたように飛び上がる。
「神殿の敵?いったいなにをなさるおつもりですの?」
「なに、神を敵に回すのではないぞ。あの神殿組織そのもの、わが領民が苦しんでいようと甘い汁を吸いつづけるやつらのやり方を変えてやろうというのさ」
「で、でもそれは…それは王都を刺激しませんか?」
「うん。だから、そこは巧妙にやろうと思ってるんだが。お前はどう思う、あの肥えふとった神殿を」
 いつになく真剣なアヌイの顔に、ナスリーンも表情を改めた。
「神への供物を欠かさぬために、神殿の穀倉を豊かにするのは仕方がないことだとおもいますわ。でも、さすがに、このごろの食糧難の噂のなかでもあの排他的なやり方はひどいと…噂では神殿の領民でないものが領地に入り込むだけで、ひどい目にあうことがあるそうですし」
「まあお前はいったん外に出た人間だから、そういってくれるが、昨日セクメト神殿の長と話をしたら、そのどこが悪いと言わんばかりであきれたわ」
「殿は、本気で神殿倉庫に手をつけるおつもりなのですか?」
「そうだ。我らの子が神官になるかどうかはともかく、このままでは、神殿だけ肥えふとり、領民は飢えて死ぬ世がやってくる。そんなのは、州侯としても人の親としても我慢できん」
 アヌイは拳を撃ちあわせてきっぱりと言った。ナスリーンはそんな恋人の姿に驚きを隠せない。最初出あったとき、彼女のほうはアヌイを、都の軍人というのはこういう軽重浮薄な輩なのかしらとおもったくらい印象が悪かった。しかしいざ恋仲になり、公邸に移り住んで彼の傍で暮らし始めると、意外に公的な面でも真摯な性格であることを発見している。州侯のなかには、地元の有力者と通じて莫大な私財を蓄えるものも多いのに、そういったことに手を染めている様子はなかった。アヌイは政務を書記任せにして留守がちなのだが、西州は以前より治まっている感がある。
 この方は、田舎に逼塞してふてているように見せかけて、実はだれより下エジプトと王都のことに詳しいのではないかしら。そう思い始めた頃、あの地震が発生し、アヌイが先頭をきって州を取り仕切りはじめ、彼女は自分の勘が正しいことを半ば確信しはじめている。それでいながら、子どもが出来たと聞かされたときの、素直に嬉しさを爆発させた
の彼の笑みを、ナスリーンはいまでも瞼にありありと浮かべることができる。
 この女たらしで、遊び好きで、しかし、底の知れない深みをもつ複雑な男は何を目指そうとしているのか。神殿領に介入するという大胆な発言を聞きながら、ナスリーンは軽い眩暈を覚えていた。
 眩暈…それはだんだんと大きくなり、ナスリーンの頭に轟音が響きはじめる。
 それは嵐の吹く音に似て、彼女は思わず耳を塞いだ。

――ドウシタ?


誰?

―――ナスリーン、ドウシタノダ?

あなたは誰?
真白き女神よ、あなたがわたしを召喚されたのですか?



見よ。御身、美しき隼と真理の羽の徴を戴く者よ
隼の船の向う道を進みなさい
黄金と血に彩られた冠が観えます
御身は全てを得、全て失い
そして完(まつた)きに達するでしょう… 

突如吹き込んだ風に、アヌイは女を抱きしめたまま凍り付いている。
女は普段の美声とは似ても似つかぬ嗄れ声で語った。
そして告げ終わるやいなや、彼の腕のなかに倒れこんでしまった。
俄かには信じがたいその出来事。己の技量のみを頼みに生き、神も悪霊も女の柔肌の温もりほどには信じぬ男はいつのまにか額に脂汗をかいていた。
部屋の中は、先ほどとかわりなく柔らかな日差しに包まれているというのに。彼は、冷静な頭の隅で、ちりちりと冷たく燃え盛る炎が上がったのを自覚した。必死で押し殺そうとしても、消すことはできない熾火の如きもの。
その名は『野心』という
そして、別名を永遠に満たされることなき渇きとも………。

 6.凶つ影

掌を生あたたかいものが掠めた。どうやら、犬は上手にパンくずを口に入れることができたらしい。少年は、更にもう一切れちぎると、テーブルの下に手を突き出した。
すると何事も見逃さない母の声が飛んで、思わず首をすくめるのだった。
「これミヌーエ!およしっ!お客様の前でしょう」
途端、パン屑は彼の掌から零れ落ち、犬はすかさずそれを咥えるや表へ走り去ってしまった。
「まあまあいいじゃないですか、ナフテラさん。わたしなんか客の部類に入らないですよ。ただの押しかけ、この豆粥目当てのね」
そういって、とりなしてくれる客の言葉にミヌーエ少年も思わずにっこりする。彼は、この客人がたいそう好きなのである。たまにしかに会えないが、いかにも都会人らしい洒脱な物腰と、陽気な性格、人懐っこい笑顔は、兄弟のいないミヌーエにとって兄のように慕わしい人物であった。それに、時々彼のからりとした笑い方が、遠くに単身赴任中の父を思い出させるように思う。もちろん、客人の青年は長身雄威の父とは比べ物にならないほど小柄なのだが、父の友人だということでその辺はいいかげんな認識である。
「んまぁ。こんな豆の粥くらいで喜んでいただけるなら、毎朝でもいらっしゃってくださいな。本当にうちのだんな様ときたら筆不精で、イピさんが来てくれなかったら、あちらがどうなっているのかわかりゃしないわ」
ナフテラは口を動かしながらも、イピに給仕する手は休めない。
広い食堂でも一際長いテーブルの上には、大きな鉢に盛られた豆粥、様々の種類のパンに果物、とれたてのキュウリや絞りたてのミルク等々の朝食にしては多すぎるほどの料理が、ところ狭しと並べられていた。これらすべてが、この家の女主人であるナフテラの心づくしである。イピは、若者らしい旺盛な食欲を見せて次々とその料理を平らげていく。その姿を、ナフテラも、ミヌーエも、そして、かたわらで釣具を手入れしながら座っているナフテラの父イフナクテン老人も、目を細めて見つめていた。
ミヌーエも、この日ばかりは食べすぎてもうるさく注意されることもないので、好きなだけ取って食べることができる。いつも簡素な一家の食卓は、この日ばかりは祭礼の晩餐並みに豪勢なものであった。とりあえず今のところ彼は、とろとろに煮詰めた母自慢の豆粥を掬い取るのに夢中だ。
「イピさんのご一家も皆さんご無事でよかった。親父さんは引退したと聞いたんだが、地震でも大丈夫だったんだね?」
「そりゃあもう、殺しても死なないってのはうちの親父みたいなのを言うんですよ。ウアセト(テーベ)はとにかく人が多いから、怪我人や死人が大分出てますけど、親父ときたら近所の炊き出しやなんかんやで寝ることもしないんですからね。ま、元気でいてくれてりゃ文句は無いんですが」
「そりゃあ立派なことだ。わしも見習わなきゃな。ところで、イメンテト(西)州はどんな具合だね?婿殿は無事だと聞いてはいるんだが…」
頃合をみて、イフナクテン老人がイピにもっとも気になっていることを尋ねた。
「ええ。ケネプ隊長はお元気でしたよ。イムゥのへんも被害が大きかったんで、領民の救援に追われてたようですね。皆さん元気だと伝えたら、安心したみたいでしたよ。一段落したら必ず休暇をもらって帰るからって」
「あちらも随分ひどい被害が出たんでしょうねえ?」とナフテラ。
「うーーーん、一番酷いのは北のサイスとかブトなんかの大きな街のほうですね。イムゥのあたりはひどいといっても…農地がほとんどだし…。あ、でももちろん大変な被害なんですよ。侯の屋敷は半壊に近いし、農民には水路が壊れて家が消えた人も多いから。やっぱり被害の規模は、メフゥ(上エジプト)の地震よりあちらのほうが大きかったみたいですね」
「やっぱり、海に近いほどひどいのね。このあたりは、川上のバステト神殿の祠が壊れたくらいで、二度とも水路も民家も大丈夫だったのよ。ま、うちは売り物のビールの甕をだいぶ壊されたけどね」
ナフテラはイピの杯に新しいミルクを注ぎながら、忌々しげに顔をしかめた。召使も皆遠ざけ、いま食堂にいるのは彼女の家族と客人だけである。そのせいか広々とした食堂には、話題の割には和やかな空気が漂っていた。
先祖伝来の小さな農園を切り盛りする彼女にとって、今度の地震はかなりの痛手には違いない。しかし、生来くよくよしない性格なので、いまはイピから新しい情報を仕入れるのに夢中である。そんな彼女は、子持ちとはいえ24歳の若妻でもある。顔立ちはとりたててどうということもないが、ふっくらと優しい面輪で、人の心を和ませる雰囲気がある。彼女の夫のケネプが下エジプトへ単身赴任してから一年近くになるが、いつもてきぱきして屈託がない。ケネプと結婚したばかりの頃は、彼女も王都に住んでいたためイピとも顔見知りで、父親に従って彼女が故郷のシェムンに引っ込んでからも、一家ぐるみでイピとの交流は続いているのだった。
夫の留守を守るしっかり者のナフテラとその父親であるイフナクテン、そして孫のミヌーエに一家にイピが混じると、まるで家族がもう一人増えたかのように、いつも延々と他愛無いおしゃべりが続くのである。
そのイピは、器用な手つきでブドウの皮をむきつつ、皆を眺め渡して休まずしゃべり続ける。
「何てたって一番厄介なのは、地震で農地の境界石がずれちゃったことですね。これは農地監督官がこないと直せないんだそうですよ。それなのに、壊れた水路を早いこと直して、地面が緩いうちにまた種をまかなきゃなんない今ごろになっても、音沙汰ないんですってさ。まーったく、王都の役人なんて威張り返るだけで愚図だから、肝心な時に役に立ちゃしない」
「でもねえ、そんな時ぐらい州侯の裁量でぱっぱっと決められないの?このあたりでもそうことがあったけど、直ぐに書記がすっ飛んできたわよ」
 不思議そうにそういうナフテラに、釣り竿の結び目を締めつけていた老父が苦笑いしながら
「そりゃ、ここいらの領主は大アメン神殿だからだよ。そうじゃないところでは、それは無理だな。大王さまが州侯の権限を大幅に削って以来、何事もウアセトの指示に従わなくちゃならんのだよ、ことに耕作地の線引きはそうだ。もともとメフウ一帯は古い家柄の領主や、小さくても数だけは多い神殿の領地が入り組んで複雑なところじゃから、州侯閣下といえどやりにくいじゃろうて」
「まああ。それじゃ…種蒔きが遅れるいばっかりじゃない。そうなれば、収穫にだって響くわよねえ…」
 娘の追及にはとりあわず、老父はイピに向き直り
「イピさん、それでもアヌイ殿は相変わらずのほほんと寝ていなさるのかい?」
 すると、イピは待ってましたとばかりに頷きながら
「いやそれがね、ご老体、地震のあとは俄然張り切っていらっしゃるんです。まるで人が違ったみたいに仕事一辺倒でね。わたしが公邸に顔を出したら、早速執務室に引っ張っていかれて、商売の話になりましたよ。家をなくした人を集めて、仕事を分け与えるおつもりらしい。王都が文句はいわない程度でやるとかで…」
 それを聞くなり、ナフテラが頬杖をついたまま身を乗り出した。いかにも興味津々といった風で、表情豊かな黒眼が好奇心で輝いている。
「まあ、本当?あの遊び呆けてるって聞いてたアヌイ様が?」
「こりゃ娘よ。アヌイ殿はもともと真面目な方なんじゃよ。何じゃその言い方は!」
「はいはい。失礼いたしました。お父様も、だんな様もアヌイの殿びいきなんだから」
 ツンとそっぽを向いた母親の顔を見上げて、今度は、匙を振り振り息子が言い放つ。
「かあさま、僕も殿のヒイキだよ!!」
ミヌーエの一言にイピが爆笑した。あまりに笑いすぎたのか、涙を拭いながら
「たった七つの子どもにこんなに支持されるとは!熊手のオスリクがアヌイ様を目の敵にしてド田舎のイメンテト州なんかに飛ばしたのは、おべっかしか能のない奴にしては慧眼というべきなんでしょうかね?」
「仕方ないわ…この子は、センウセレト内乱のときのアヌイ様の活躍ぶりを父親からさんざん聞かされているから、刷り込まれちゃっているのよね」
苦笑したナフテラとは対照的に、イフナクテン老人は眉をしかめて吐き捨てた。
「何の、あの腰巾着にそんな眼があろうものかね!阿奴の眼は、ファラオの眼と共有しておるのさ。アヌイ殿が邪魔だったのは、オスリクじゃなくてファラオのほうだろうよ」
「お父様!軽々にそんなこと仰るものでは…」
 あわててナフテラがミヌーエの耳を塞ごうとしたのを横目で見つつ、のんびりとイピが顎を撫でながら
「うーん、俺の親父も似たようなことを言ってましたが…。ジェドカラー王が、叔父君センウセレト様の軍を撃破したのは、多分にアヌイ様の率いる南面師団の活躍あってのことってのは周知の事実なのに、あの方がいきなり僻地の知事に飛ばされたのは誰かが讒言したんだろうって」
「そうだろう。獅子を倒したあとでは、猟犬は不要になるってことじゃろう。いくら軍人より州侯の方が格が上でも、古巣の王軍から引き離して僻地へ飛ばすやり口は厄介払い以外の何者でもないからな」
「まあ…」
「でもそろそろ、当のオスリクの命運が尽きるでしょうね」
イピは、食事の手を止め、食卓を囲む人々の顔を眺め渡して重々しい調子で言った。
「じゃあ、王都で起こっているっていうあの大粛清の噂は本当なのね?」
 改まって真剣な顔で尋ねるナフテラに、イピは再び重々しく頷き返した。幼いミヌーエまでもが固唾を飲むようにして彼の話に聞き耳を立てている。下エジプトからも、上エジプトからも同じくらいに離れているこの村では、旅の商人くらい貴重な情報源はないのである。外の世界で如何なることが起こっているのか、3人は固唾を飲む思いで聞き耳を立てるのだった。
「ええ、すべて本当ですよ、ナフテラさん。陛下がケティ宰相を罷免すると宣言されて以来、急に取り憑かれたみたいに御改革をなさっています。ここまではアヌイの殿と似てますけど、ここからが大王家のお家芸というわけでね。つまり、ささいな間違いでも、きつい罰が与えられるんですよ。陛下の剣からは血の乾く暇もないんですってさ。お陰で、王都の役人や民草は震えあがっていましてね。オスリク穀倉長官は病気と称して出仕しなくなりましたが、王の後ろで糸を引いているのは間違いなくヌート大神官だから、政敵のオスリクを見逃すはずがないですね。早晩、奴はマアトの法廷に引きずり出されるでしょうよ」
 イピの語りを聞くなり、イフナクテンが長い溜息を吐いた。そして、苦々しい調子で
「えげつないことばかりしていたオスリクには当然の報いだろうが、地震の被害も癒えていないのに、陛下は何をお考えなんだろうなあ…これ以上人心を不安に陥れては、混乱が増すばかりじゃないか。大王家のお方は、もともとご気性が激しくていらっしゃるが、それにしてもあまりの変わりようじゃあないかね…ご即位前の王は英明な貴公子だったと思うんだが…」
「さて…この先どうなるんでしょうねえ…」
「本当に腹立たしいったらありゃしない!」
 ナフテラは、パン籠から芥子の実入りの固焼パンを取ると、一息で真っ二つにねじ切った。それを見た男たちが、図らずも一斉にぽかんと口を空けたほどの思い切りのよさである。
「長い戦乱が終わって、やっと新王が立たれたとおもったら、またこんな有様だなんて!王家の方々は二重冠の取り合いで、わたしら民のことなんてどうでも良いんでしょうけどね。たったお3方しか残ってないんだから、早いとこ御子をつくるかどうかして、落ち着いていただきたいもんだわ。役人を殺して回ったって、お世継ぎはできないわよ!」
「じゃあどうやったらできるの?かあさま?ぼく、弟が欲しいんだけどな」
 無邪気なミヌーエの質問に、一同は絶句したが、例によってイピの如才ないとりなしで場が治まったのだった。
 ミヌーエ少年は、御子うんぬんはともかく、半分もわからない大人の話を熱心に聞き入っていた。
ここシェムンの村は、王都テーベより更に下流、上エジプト第16ノモスの怜羊(メヘト)州北部にある一般的な農村である。
イフナクテン老人は、50人ほどの小作人を使う中流の農園領主の家に生まれた。この地は彼には曽祖父にあたる人物が、当時のファラオから下賜されたものだという。しかし長子であった彼は、農民であることに飽き足らず、若い時に王都に出て軍人となり、王軍の南面師団の中隊長まで勤め上げた村の変わり者である。そんな老軍人イフナクテンも、数年前に引退して故郷に戻ってきてからは、管財人任せにしておいた農園経営に取り組み、穏やかな生活を送っていた。ミヌーエの父ケネプと母ナフテラは幼馴染、しかも親が決めた許婚者同士だった。イフナクテンの希望もあってケネプが養子婿に入るかたちで8年前に結婚している。二人の間には5人の子供ができたが、つぎつぎと病で亡くし、今では次男のミヌーエしか残っていない。そのミヌーエはテーベで生まれたのだが、物心ついたころにはこのシェムン村で母や祖父とともに暮らしていた。ナフテラは父のイフナクテンを助けてこの農園を切り盛りし、夫のケネプが、休暇の都度村へ帰ってくるという生活がずっと続いている。この変則的な夫婦は、村でも有名であった。なぜなら、一兵士から州軍の長まで昇り詰めたケネプは村一番の出世頭だから。頑固なイフナクテン老も密かに自慢の婿だろうと、もっぱらの噂である。とはいっても、一般に軍人の社会的地位が高くないこの国ではイフナクテンの一家が妬みを買うこともないのであった。
 もっとも、まだ7歳のミヌーエ少年は祖父の釣りのお供をするか、農園を切り回す母の手伝いをしながら、バステト神殿内の学問所に通うのが日課であり、外の世界とはほとんど交流がない。遊び相手といえば、親族や村の子どもたちしかおらず、父親似で際立って背が高くだが物静かなミヌーエは、彼らのなかで一目置かれる存在だった。最近、祖父の手ほどきで剣の稽古をはじめたが、末は軍人になれと決められているわけではないし、父のケネプも同様の意見らしかった。この国では、軍人は労多くして益少なしとして敬遠され傾向にあり、ミヌーエが祖父の跡を継いで農園領主になろうと誰も不思議には思わないのである。
先月の二度にわたる大地震には、村中が肝をつぶしたものの、地形の関係か幸いにして人死は出なかった。そのため、村は急速にもとの平穏な日常を取り戻しつつある。
 結局のところ、ミヌーエにとっては、残虐な王が君臨するという王都テーベも、父が単身赴任しているイムゥ市も、イピが足しげく通っているというヒクプタハ市のいずれも、空想のなかにしか存在しないのである。それらのイメージはあまりに漠然としていて、とらえどころのない空の雲のようなものだった。要するに、少年の目は常に未来を見ている。シェムンの村の麦畑の上に広がる青空に似た澄んだ明るい未来を。

 しかし、王都の民にとって、王は現実化した悪夢の如き存在だった。
地震の名残で敷石が波打つ王宮前の広場に、不気味な鳴き声が響き渡る。空を暗くするほどの、ハゲワシたちが旋回し、人々は怯えたように頭を垂れて駆け去っていく。
 そんななか、ホリ老人は城壁の一角を凝視したまま、ピクリともせずに佇んでいた。
「惨いねぇ…なにもあんな…」
「しっ。兵士に聞かれたらただじゃすまねえ!帰るぞ」
 背後で囁きかわされる呟きにも眉一筋動かさず、ホリは岩のように立ち尽くしている。
 彼とて、それらを見るのが今日初めてというわけではなかった。それらが晒されてから三日以上経過しており、見飽きた者たちは立ち止まることさえしない。
 王宮の城壁、しかも市場に面した長い壁にずらりと吊るされたものがある。大小さまざま、全体に黒ずみ所々ハゲワシの餌となり無残な瑕口を露呈してるそれは、人間の体――既にバァが天上へ飛び立ってしまった骸であった。数十はある死体は、いずれも素っ裸で後ろ手に縛られ、足首もきつく縄目が食い込んでいる、しかも皆一様に首が落とされていた。それは、エジプト人が何より尊ぶ死後の再生を許さない、という断固とした処断者の意思表明でもある。なかでも、中央で揺れる一際損傷の激しい死体の足元には石版が置かれていた。ホリは、もう何度も告知役人聞かされたそれを、改めて見直した。声は出さず、その文字を目で追う。

この者、元穀倉長官オスリク・フイ、王に対し数々の造言を為し国政を著しく混乱させた。ここに、その血族全ての命と財産をもって、その罪を贖わせるもの也…


 末尾にマアト女神を現す羽と、王の署名が刻まれている。
「熊手のオスリク」の異名をとり、指一本、舌先三寸で多くの人々の希望を奪った男は、今やハゲワシの餌に成り果て、生前の恰幅のよい肉体は小さく乾いて崩れつつあった。
オスリクの血族全てが同様の運命を辿り、王の乳母であったオスリクの伯母イウヤも、もっとも幼い3歳のオスリクの曾孫ですら赦されなかったのである。
「可哀想になあ…あんなに小さな子どもまで…」
「本当だよ。子どもに何の罪があるっていうんだい!」
「大体、奴を重用してたのは陛下じゃないのかね?」
「そうそう。熊手野郎がいなくなったって、暮らしは前より良くならねぇってのはどういうことだ!」
 ひそひそと囁きかわされる声はだんだんと高くなっていく。ホリはそれに加わることはせず、無残なオスリクの骸を見つめつづけていた。自然に脳裡には有名な歌の文句が浮かんでくる。
(…かつて在りし日人々の姿、今はなし 彼らいかになりしや…か全くだ)
 
商売柄、この強欲な穀倉長官には何度も煮え湯を飲まされてきたホリも、彼の末路には哀れをおぼえる。しかし、そうは言っても声高に王を非難する民の意見に賛成するわけではない。つまるところ、オスリク穀倉長官は自らの無能ゆえに墓穴を掘り、政治的闘争に敗れたにすぎねぇ。あの癇症のファラオにへつらう以上、その容赦ない矛先が自らに向けられることも予想すべきだったのさね――と、オスリク穀倉長官とヌート大神官の暗闘を静観してきた商人は、どこまでも冷静だった。
 彼には、石板の上に書かれた目に見えない署名が見えている。大神官ヌートという、血の色の署名が。ホリは、大神官の脂ぎった生々しい眼光を思いおこし、流石に胸が悪くなってその大きな鼻に皺を寄せた。

その時、彼方から悲鳴が上がり、地鳴りのような蹄の音を轟かせて騎馬兵の一団が駆けてきた。広場に集まった民衆は、たちまちのうちに蜘蛛の子を散らすように姿を隠す。ホリの直ぐ傍を、砂煙を上げて黒い肌の兵士が駆け抜けていった。そのはためくマントに、アメン神の二枚羽の意匠が縫い取られているのがはっきりと確認できる距離だった。ホリは危うく蹄に引っ掛けられそうになり、バランスを崩してよろめく。
その身体を誰かががっしりと受け止め、耳元で怒鳴ったのが聞こえた。
「何やってんだよ親父!踏み殺されたって訴えていくところはねえんだぜ!!」
寸でのところで老人を引きずって非難させたのは息子だった。
「ったくぅ!ヌートの飼い犬なら飼い犬らしく神殿で頌歌でも唄ってりゃいいんだよ、アホどもがっ!」
ホリの長子、ソベクは駆け去る兵士の後姿に唾をはいた。どうやら口の悪いのは、一家の血筋らしい。30半ばのソベクは父親に似ぬすらりとした体で向き直ると、父親の服の汚れを払い叱り付けるように言った。
「親父、心配させないでくれよな。何かしなきゃいけないと焦る気持ちははわかるけどさ」
「すまんすまん」
ホリは息子の小言に首をすくめた。ホリが花屋の商売を全面的にこの長子に譲って以来、表立っては息子に大人しく従っているように見える。少なくとも表面上は。
「それはそうと、イピがヒクプタハから帰ってきたよ、今俺の店に顔を出してる」
「そうか。案外早かったな…もっと時間がかかるかと思っとったわい」
親子は、無残な死体に背を向け、西市場にあるソベクの店に向った。道すがらソベクは、声を潜めて父親に話し掛けた。
「なあ親父。ヒクプタハに店を出すのは反対しないけど、あんまりアヌイ将軍に肩入れしないほうがいいんじゃないか?」
「なあに、駒はいくつあっても商売の邪魔にはならんさ。お前の店はお前のやり方でやるがいい、わしはわしのやり方に従うだけじゃよ」
「大神官のやり方が気にいらないのかい?」
「そうじゃない。あの大神官の政治力はたいしたものさ、義弟がうまいこと喰らいついているが、なかなかいい商売をさせてもらってるらしい。だが、わしはあの大神官と心中する気はない。大体、神官が大きな顔をしだすと、商人には有り難迷惑なことばかりだからな。将軍は未知数だが、この先実力者に育つ楽しみがあるわな」
「やれやれ、親父のその商人にあるまじきつむじ曲がりは死ぬまで直らないよな」
「はは…わしにいわせりゃつむじ曲がりでいたほうが、この世は面白いわい」
ホリはそう豪快に笑い、陰気な顔をして佇む市民を振り向かせるのだった。

さて、その城壁を入った王宮においても、荒廃した雰囲気がただようのは否めない。過日の地震以来、王宮はほぼ半分の規模に縮小されていた。王の主宮殿と後宮、政府宮はとりあえず被害を免れた西宮殿の一角に集められ、全体的にすっきりとした陣容に変化したが、人心はまだまだ被害の後遺症を引きずっていた。
しかし、それにも増して王宮の雰囲気を暗くしているのが、穀倉長官一族の殲滅を指示したジェドカラー王の嗜虐的な振る舞いである。
折りしも、政府宮の一隅、評議の間では王の苛立たしげな声がこだましていた。
「ではなにゆえ、余の指示どおりの石材が集まらぬのか。申し開きしてみよ!マイア!」
それに、ビシリと机を打ったらしい鋭い音が続く。
王は、立ち上がるなりいらいらと歩き回った。その顔は、怒りに青ざめてなお端正であったが、狷介さは隠しようもなく、目には見るものをたじろがせるような光を浮かべている。長い黒髪を束ねて首の後ろでくくり、顔の両脇に細い房をたらした王の髪型はすっきりとした面立ちの彼によく似合い、稀な美男といって差し支えないが、かえってそのことが恐ろしさに拍車をかけるのだった。
名指しされたマイア宝庫長官は、ビクリと肩を震わせると、低い声でぼそぼそと言い訳を並べ立てた。要するに、王が要求する大王葬祭神殿の修復工事にまわす工人が不足しており、なぜかといえば、地震後の耕地整理がまだ終わらないからである。ケティ宰相が罷免されオスリク穀倉長官が刑死して後、宝庫長官が実質的に官僚のトップになったのであるが、現マイア長官は前任者が王に諫言して処刑されたため急遽昇格しただけの凡庸な人物である。
彼だけでなく、評議の間に詰める大臣たちの顔ぶれも随分入れ替わっていた。地震で命を落としたものより、王に処断されて消えたもののほうが多い有様である。替わって入ってきたのが、つるりと頭部を剃り上げた神殿付きの書記たちである。王に面と向って、抗議する雰囲気は消え去り、ただ黙って叱責を受け入れる場が出来上がっていた。
 そんななか、王の傍らにひっそりと座す王妃ネフェルウルティティスの表情は全く冴えなかった。王から意見を求められることも少なくなり、たまに大臣たちをとりなしても、冷ややかに受け流されるほうが多くなっている。それでも、王妃は己を鞭打つようにして評議の場には出てきた。日毎にだんだんと青白さが増すその姿は痛ましく、大臣たちは王妃の顔をまともに見ることすらできないのだった。
 しかし、王は妻の憔悴ぶりも一向に気にする様子もない。
「耕地整理より、まずは半壊した葬祭殿の回廊の修復を急ぐほうが先だと申したはずだ」
「しかし…しかし陛下…今、この点を決めておかねば来年の収穫に響きまする。工人に支給するパンも工具も不足しておりますし、せめて募集人数を半分にしてはいかがで…」
「ならぬ!余は新年祭までに元通りにすると誓願をたてたのだ。王が一旦立てた誓願を自ら
破るなど許されると思うのかっ!」
 いっそうきつくなった王の眼差しに、マイア宝庫長官は汗を拭き拭き
「ご…ごもっともでございます。では新たに下エジプトからも工人を徴収いたしましょう」
「お待ちなさい」
マイアと王のやり取りを黙って聞いていた王妃が、堪り兼ねて立ち上がった。大臣たちは驚いたように一斉に顔をあげる。だが、彼らの表情には安堵よりも危惧のほうが強かった。いかに王妃といえども、昨今の王の行状からは簡単に心を動かすことは難しい。何より、王はかつてはあれほど尊重していた王妃を、無視するかのように振舞いつづけているのだから。
王妃に内心同情を寄せる一部の大臣は、はらはらした表情で腰を浮かせたほどだ。それに気付かぬ振りをして、王妃は物柔らかに切り出した。
「陛下。畏れながら、それでは本末転倒ではございませんでしょうか。来年の収穫に響けば、神々への供物とて事欠く有様にもなりかねませんわ。それは神々もお望みにはなりますまい」
懸命に説得しようとする王妃に対し、王はちらりと無慈悲な視線をかえした。それを迎える王妃の背は一瞬にして鳥肌立ち、見返すのに自らを叱咤せねばならないほどだった。これがあの優しかった夫かとは信じられないほど、冷酷でぞっとするほど残忍な眼差し。
「心配いたすな。この誓願が果たされれば、来年、神は恵み深き収穫を下されよう。工人たちには、イペトスウト(カルナク大神殿)の神殿倉庫からパンを配給させればよいであろう。喜んで働くように存分に出させるようにな」
 王はふいと視線を外すと、居並ぶ大臣を見渡して決然一笑した。
 もはや絶句してなにも言えなくなった王妃を尻目に、大臣たちは粛々と議事を運び、たちまちのうちに散会となった。あくまで優雅な物腰で出て行く王を機械的に拝礼して見送り、椅子にへたり込んだ王妃は、ひとり室内に残されたまま石のように動かなかった。
 そうして、どれくらいの時がたったのか、もはや薄暗くなり、侍女がおそるおそる王妃に声をかけた途端、薄青いドレスの裾を翻して王妃はそこを飛び出した。
 さやさやと鳴る裳裾ももどかしげに、早足で王妃は王の居間に向かう。いつも優雅な王妃の取り乱した姿に、召使いたちが慌てて跪いて道をあけてゆく。それに目もくれず、警備の兵士の制止を撥ねのけるようにして、王妃は夫の居間に飛び込んだ。
「おや。妃よ、そんなに血相を変えて何事かな?」
王はそこにいた。
しかし、彼ひとりではなく、傍らに魅惑的な目の小柄な侍女をはべらせている。最近、王が寵愛しているその若い女は、好戦的な目で王妃を睨みあげた。王はくつろいだ姿で、先ほどよりは不機嫌さが消えていたが、それでも王妃の眼からはいつ爆発するかわからない危うい苛立ちが仄見える。
「陛下、お話がありますの。その女を退がらせてくださいませ」
「おお妃よ。これのことは気になさるな、猫か、鳥のようなものだと思ってくれ」
だが、王妃はきっと切れ長の目尻をあげるときっぱりと言い放った。
「わたくし、猫も鳥も我慢できませんの。ことに無礼な猫は」
 王妃の容赦ない拒絶に、王はくつくつと笑うと、乱暴なしぐさで女を追い払った。女は未練がましく王妃の方を睨んでいたが、王が卓上から杯を叩き落とすと、忽ち怯えて逃げ出した。王妃はしゃんと背を伸ばすと、丁寧に拝礼してからおもむろに切り出した。
「陛下。陛下はこのところ…無礼な物言いははお許しくださいませ…わざとあのような酔狂な御振舞をなさっておいでですの?」
 王はゆっくりと膝を組みかえると、にこやかに口を開いた。
「面白いことを言う人だ。いいえ、わたしはどこまでも真剣ですよ。オスリクは見るも不愉快な無能者だから、冥界神のもとに送り届けたのだし、大王の葬祭殿を復興するのも、わたしがそう望むからいち早く修復させるのです」
 王の口調は上機嫌とさえいえるものだった。しかし、彼が破片で傷つけた掌を執拗に引っ掻いて傷を広げようとする仕草が、王妃を慄然とさせた。王はそれを無意識にやっているらしいのだが、真っ白な腰布に無残な鮮血の染みがぽたりたりぽたりと滴り落ちている。王妃は思わず手を差し伸べようとしたが、王はついと手を振ってそれを拒絶した。まるで、王妃の手を恐れるかのような態度。王妃はさすがに一瞬傷ついた顔をしたが、すぐに気を取り直し小さな声で懇願でもするように囁きかけた。
「でも…そんなにお急ぎになってもそれが何になりまして?陛下は…あまりに急ぎすぎておいでではないでしょうか。臣下も民もついてこられないほどに」
妻によく似た王の切れ長な目がすっと細くなった。唇の端をつり上げ、音もなく立ち上がると王妃に向って半身を乗り出す。彼の発する雰囲気が一気に凍りついたようだ。
それは、王妃が思わず一歩退いたほど妖気じみた変貌だった。
そうして王は腹の底に響くような低い声でゆっくりと問いかけた。
「あなたもわたしにはついて来られぬと…そう仰りたいのかな?わたしのやる事には賛成できぬと」
「いえ、そうではありません。わたくしは何時なりと、陛下のお傍におりますわ。でも、陛下のお心のうちが曖昧なままでは、民草は困惑して途方に暮れますでしょう?」
「余は地上の神たるファラオだ。我が言葉は唯一絶対にして神聖なものぞ。余の心が判らぬというそんな愚か者たちは、神罰を受けて無残に死ねばよいのだ!」
「陛下!」
「あなたでも余の心がわからぬか?わが血をもっとも濃く分けた従兄妹殿よ」
王妃はくたくたと膝をつくなり、瞳を見張って震える声で哀願した。それは半ば恐怖に震えるものの悲鳴のように聞こえた。
「かつては…あなたさまのことなら何でもわかっていると自惚れておりましたわ。でも今は、暗闇を手探りで進んでいる気がします。陛下のお心は、遠くわたくしから離れてしまわれました…ご即位よりしばらくしてから…あの地震の日から…。いったいどうしてこんな事に?わたくしは、あなたの妻ですのに、どうしてお心を開いて戴けぬのでしょう…ジェドビィ兄さま。あなた様をあんなに愛した乳母のイゥヤまで殺せと仰せになったあなたのお心が判りません…何をそんなにお怒りなのです?わたくしではそのお悩みを和らげることは出来ませぬか?わたくしに非があることなら、いかようにも改めましょう。ですから…真実を仰ってくださいまし」
 王妃は一縷の望みを託して、幼いころから呼び慣れた夫の幼名を唇に乗せた。彼女のふっくらとした真紅の唇は、惧れと、哀しみに細かく震えている。
だがその必死の懇願も効果はなく、たちまち表情を消した王は、ついと半身を引き冷たく見下ろして王妃の真摯な心を容赦なく突き放した。
「わたしはどこも変わっておりませんよ。さ、もう遅い。女官たちが心配しているでしょう、送らせますから、奥宮殿へお帰りなさい」
「イヤです!きちんとお話をしていただけるまでは退出いたしません」
 激しく首を振る王妃だったが、王は一転して投げやりな表情になると、優雅ともいえる仕草で物憂げに手を上げ
「わからないのはわたしのほうですよ。わたしは、あなたにこれほど礼を尽くしてお話しているのに、あなたはそれが理解できぬと仰る。こんなに悲しいことがあるだろうか、我がイシスの映し身に見放されるとはね」
「そんな…わたくしが陛下を見放すなど…そんなことは有りえません」
「だが、あなたの態度ではそうとるしかないでしょう?このうえ、未だわたしを悩ませてやりたいとお思いか?」
 その口調はぞっとするほど冷ややかで、温もりの欠片もなかった。挙句の果てに王は、くるりと背を向け、仕切りの幕を手荒く下ろして奥へ引っ込んでしまった。それは最早王妃と会話するつもりはないという王の明確な意思表示である。
王妃は薄布越しに物言わぬ夫の背を呆然と見つめ、しおしおとうなだれると、力ない足取りで扉に向かった。
そして、王妃の哀しみに追い討ちをかけるように、王のどこか危うさを覚えるような哄笑が覆い被さるのだった…。

その夜、遅くまで王妃の寝所には明かりが灯っていた。最近は、夜も王の足は遠のき、婚儀を挙げて3年足らずだというのに、早くも王宮内部では王妃は王の寵愛が失せたと囁かれ始めている。
自室の窓からその明かりを遠くに見ながら、ネフェルキヤ王女は何度も寝返りをうって眠れないでいた。夕刻、こっそり覗き見た姉の姿が瞼から消え去らないのだ。
優しげでいながら、じつは相当に気丈な姉が、ひとり声を押し殺して寝台に突っ伏して泣いていたあの姿。驚きのあまり、彼女は声をかけ損ねたほどで、姉の鳴き声は胸を抉られるように悲痛なものだった。言い渋る侍女から無理やり聞き出したところ、王となにやら言い争いをして帰ってきたという。
「ファラオなんか大嫌いっ!姉上を王妃に迎えられたとき、永久にイシスの映し身として大切にするって神前で誓ったのを忘れたの?大嫌いよ、残虐王ジェドカラー!」
あれこれ考えていると、ひとりでに、深窓の姫君らしからぬ王に対する悪口雑言が口をついて出てくるのだった。しかし、それは決して姉王妃の前では口にできない言葉だった。聞けば、王妃はその優美な眉を震わせて悲しむのだから。いかに気の強い王女でも、母とも頼る姉を悲しませることだけはしたくないのである。
「姉上はどうしてあんなファラオを好きになったのかしら?」
 鹿爪らしく自問自答してみたが、もとより、王女には手に余る問いだった。明日、いつも冷静なアンクエレに聞いてみようと決意して、彼女はようやく眠りに落ちた。
 
最早、唯の干からびた肉塊と化したオスリク一族の上を、大きな翼を掠めて妖鳥が飛び去ってゆく。王都に凶々しい影を落としながら。それはさながら、人々の安眠を妨げる悪夢の具現のようだった。
ジェドカラー王の治年第3の年もそろそろシェムウの3の月(収穫季/太陽暦では5月頃)に入ろうとしている。