15. 水満ちるとき


「ホリの旦那、あのお客人は大丈夫かねぇ…」
 潮風と太陽で赤銅色に焼けた顔を心配そうに顰めながら、船長はそうホリに声をかけた。
 だが、自分の目の前に広がる光景に目を細め、くんくんと鼻を鳴らして嬉しげなホリ老人は返事をしない。
 薄紫の水平線がゆるやかに弧を描いて両端で消えゆく、その景色の簡素雄大。いつもなら、両側に見え隠れするはずの淡褐色の岩肌も、沙漠の赤い稜線にも遮られることはない、紺碧の海原。
 何より、馴染んだ泥臭い水辺の匂いとは明らかに異なる、強い潮風を胸一杯に嗅いで、ホリは感に堪えないといった声で
「ああーーーいいねえ、やはり海に出ると安心するね。それにこの匂い!懐かしいぜ」
「だったらあんたも戻ってくりゃあいいのに。花屋の商売は息子に譲ったって聞いてるぜ?」
 鷲鼻の目立つ強面の船長は、合点がいかないといった顔でそう問い返した。
「花屋はやめた。だがこの稼業はワシが死ぬまで抜けられねえんでね」
「ははーーん、だからあのお客人をわざわざ見舞いにこんな海の上まで来たってわけかい?」
「そういうわけよ。あのお人はどんな容態だね?」
「ひと月前に担ぎ込まれてきたときは、体力が落ちきってて一時は危なかったんだが、なんとか持ち直したよ。あんたが付けた医者の手当てもよかったしな。だが、それからがいけねえ…」
 船長はふうと溜息をつくと、ホリのほうに向き直った。
 二人の頭上にはやや西に傾いた太陽がギラギラと照りつけていた。彼等は、帆柱の真下に座り込んで遠くの水平線をぼんやりと見つめながら話を続ける。
「いけねぇってなぁどういうことだ?元気になったって返事だったぞ」
「確かに体力のほうは持ち直したし、飯も食うようになったよ。ちゃちな河舟しか乗ったことねえケメトの男にしちゃあ、この海に出ても寝込むでもないしね。だけど、アタマ――というか心の中がまだ病のままじゃねえかなあ。目が据わってんだよ。水夫(かこ)の小僧っこどもなんざ怖がって絶対あの人の部屋にゃ近づかねえし、俺が話し掛けても滅多に返事をしねえ」
「へえぇ……あのお人は、そりゃあ人好きのする男のはずなんだがね」
「そうかい?じゃあ、あんたがその目で確かめてみろよ…そら、噂をすれば出てきなすった」
 そういって船長が顎をしゃくった先に視線を転じて、ホリは一瞬目を見開いた。
(これはこれは……思った以上にヤベェかもしれねえな)
 彼らが現在乗っている船は大型の外洋船で、後部甲板には船体中央に二階建てになった甲板室があり、二人の頭上には巨大な四角い帆が潮風をうけてはためいている。帆柱のてっぺんから甲板梁へくくりつけられた幾本もの麻綱は、澄みきった青空を縦横無尽に切り取り、柳葉形の甲板に複雑な幾何模様を描き出していた。竜骨がわりに甲板上に縦に渡した太い綱に触れぬよう、軽やかな足取りで、作業中の少年水夫たちがすり抜けていく。ただ今は、海風を受け、漕ぎ手たちも船底で一休み中とみえ、30名弱の乗組員もまばらにしか見えない。帆柱の上の見張りは無言で前方を注視し、ピクリともしない様はどこか彫像めいている。船尾にある葦を編んだ筵で囲われた甲板室、つまり船長とホリが坐っているあたりから眺めて後方部分は、海風に焼けた甲板の色とは対照的な彩りが眩しい。
だが、その甲板室の扉を開けて姿を見せた男はそれとは対照的な顔色だったのだ。
 痩せた――というほどでもなく、まだ生来の頑丈そうな体格を保っていたが、どこかげっそりと憔悴したといった雰囲気を漂わせている。それは、すっかり彼の顎全体を縁取ってしまった無精鬚のせいか、それとも褐色のうなじを覆い隠すまでに伸びてしまったやや癖のある黒髪のせいとも。かっと照り付ける陽の光さえも、彼の下ではひときわ濃い翳と化す。
そして何より、彼の放つ雰囲気はびりびりと張り詰め、尋常でない殺気を醸しだしている。
その男がこちらを振り向いた途端、ホリの姿を捕らえて立ち止まった。
 ホリも悠々と彼を見つめ返す。
 とっくりと品定めをする商人の目を跳ね返すのは、相変わらず強い光を放つ黒い眸子ではあったが、その中には以前には見られなかった紛れもない敵意が感じ取れた。雰囲気に相応しい凄みのある声で、男がホリに言葉を投げる。
「やっと来たか。お前たちがそろそろ何か言ってくると思っていたぞ」
「そりゃよかった。じゃあ、あなたもやっと決心がおつきになったってわけですね。アヌイ様」
 ホリが坐ったままアヌイを見上げてにっこりと笑った。
 そのいかにも愛想のよい百戦錬磨の商人の笑みこそ、悪神めいたアヌイの殺気とまともに刃を合わせるに相応しいものであろう。
 船長は心得て、そそくさと席を立って水夫たちに指示を出すべく船首のほうへ去っていった。
「お前は船乗りだったのか、ホリ?」
 つかつかと歩み寄ってきたアヌイは、ホリの真向かいにどっかと腰を下ろすなりそう尋ねた。
「おやおや、わしらの話を盗み聞きしてらしたんで?そうですなあ、ざっと50年くらい昔の話ですよ。北航路を行きかう船の乗組員でね、親方にしごかれて、そりゃあちこちいきましたよ」
「いつ黒土(ケメト)へ?」
「17になったばかりの時だったかねぇ。ふっと、あの街へ揚がった途端、帰れねえようなことになっちまってね」
 ホリは、ターバンを解いてだいぶ白くなった短い頭髪を露にした。そうしてアヌイを見返す皺深い顔は、見慣れたテーベの老獪な大商人ではなく、日に焼けていかにも海に馴染んだ老船員のようにも見える。
「生まれはどこだ?ずっとケメトのものだと思っていたが、そういえばお前の顔は何人にも見えるな」
「生まれは海の上さね。わしの父親はケメト生まれだったそうですよ。母親のことは…さぁ…だれもワシに教えてくれなかったが、おおかたプントのあたりの人間じゃねえですかね。どっちにせよ、記憶にないから詳しいことはわからねえやな」
「そのお前が、見事にウアセトで成功して大商人になった。――いや、それも全てはあの祭司長の差し金か?お前ほどのものがずっと操られていたとは意外だが」
 アヌイはホリの顔から目を離さない。だが、ホリはゆったりと腕組みを説いて背を帆柱から離すと、大きな鼻をこすりこすり
「あなた様はどう思っておいでか知らねえが、ワシは確かに『プタハの僕(しもべ)』として契約はしたが、それは生きる為というだけのことでしたわい。もっとも、あれらは道具にするにはあまりに危険で、わしが操られていたという面はあることはある。だが、それがどうかしたかね?」
「…なに?」
「身分も財産も後ろ盾も無い、20歳そこそこの若造が見ず知らずの異国で、徒手空拳で何かを始めようと思ったとき、偶々つかんだ手づるを使って這い上がろうとするのがどこが悪いんだね?そもそも、プタハ神殿はウアセト(テーベ)に幾つも拠点を作っていたのが、そこにあるとき下っ端として放り込まれたのがわしだったというだけのことですよ。そこから先は、運がついていたとしかいいようがねえ。」
「お前はプタハのお蔭で、とは言わぬらしい」
 おそらく嫌味と思われるひと言葉を耳にしたとたん、ホリは肩を揺すって哄笑した。
「如何にも千の神々の王国のお人に相応しい言い草だぁね。わしにとっちゃあ、未だに、神なんぞこの――と、老人は拳で船板を叩き――板の下に御座っしゃるという天候と運命を操る海の神くらいしか想像できねえ。プタハ・アメン・ラー・オシリス・イシス…何と呼ぼうと同じことじゃねえですかい?このへんの船乗りなら、それをフゥトホル女神と呼びますよ」
「ああ…そういえば、デンデラのフゥトホル神を『メフカト(トルコ石)の貴婦人』というな、確かに船乗りが崇めるに相応しい幸運と破邪の女神というわけだ」
「17のわしは、あの時、自分で自分の未来を切り開いてみたいと思った。そのために、多少誉められたもんじゃねえこともしたが、所詮、おのれは海の神の手の上を漂う塵芥のようなもん
だ。ひとりの人間のできることなんざたかが知れてる」
「では、ここで私に刺し殺されても後悔は無かろう」
 眉一つ動かさないアヌイは、声も全く調子を変えてはいない。
 だが、落ち窪んで周囲が黒ずんだ目には、一瞬白刃めいた物騒な光が浮かんだ。
「気短なお人だねえ。まあワシの話をお聞きなせえよ。あなたの軍がどうなったかくらいご興味ないんですかい?ここがどのあたりかも?それに…お嬢さまのことはどうです」
 最後の一言に、アヌイの視線が僅かに揺れた。そして、益々声が凄みを帯びて低くなる。
「お前らは…俺の娘を、アイシスをどうしたのだ!」
「ちゃんとした乳母をつけて、安全な場所でお預かりしておりますよ。あの赤ん坊があんたの娘だということは、乳母以外の誰も知りませんから、命を狙われる危険もとりあえずはねえでしょう。そうそう、そのことで、メリトゥトゥ様からご伝言を預かっておりましたわい」
 アヌイの瞼がピクリと引き攣ったのを見て取って、一旦言葉を切ったホリはまた穏やかに 
「御方はこう仰せになりました。『我、ナスリーンの最期の望みを叶えん。そなたの娘アイシスを当神殿で庇護し、神官の教育を施し、俗界のいかなる者にも危害も加えさせぬことを誓う。我が神セケルの名に賭けて。これだけは、そなたの返事如何に拘わらず誓約すると伝えよ』と。ナスリーンさまのことは本当にお気の毒なことでしたな。あの方の御遺骸もまた、安全な場所に移されておりますから、ご安心を」
 それを聞いた途端、アヌイの口が思いっきり皮肉っぽく歪んだ
「あの男の口から出た誓約なぞ、誰が信じられるか!!」
「お言葉を返すようで恐縮ですがね、あの御方が『セケルの名に賭けて』と仰ったのなら、わしらのような口からでまかせで世を渡る商人の言葉とは重みが違う。アメン神官の訳知り顔の説教とも違うもんなんですよ。御方はヘリ・シェセタァ(秘密に通じた者)でわしらとは別の眼で世界を見ておいでですからね。お嬢さまの安全はどこよりも保障されたと考えていいでしょう」 
「ふざけるな!我が娘の命と引き換えだろうが何だろうが、私の矜持は売らぬ。アイシスのためにお前たちの手先になると思ったら大間違いだぞ!お前の息子もあの時、きっちり縊り殺しておくべきだったわ!!」
 途端、ホリが鼻で笑うようにして吐き捨てた 
「へぇぇ、くだらねぇな、全くがっかりしたわい!もう少し、器量のある男だと思っていたが、まるで青臭えガキのような寝言を抜かしやがるわ」
「何だと!?」
 アヌイの眼がすっと細くなり、僅かに腰が浮いた。しかし、いっこうに動じぬホリは、気色ばんだ相手を頭の先から床においた指先までしげしげと眺めわたすと
「おっとこりゃ失礼を。でもね、将軍、この船の上じゃあんたは唯の病み上がりだ。そこから海へ飛び込んでも、ケメトにたどり着く前に溺れ死ぬしかねえよ。まして、この船の者はだれもあんたの命令には従わねえからね」
「やってみねばわからんぞ」
 肩膝突いて今にも飛び掛りそうな男の怒りをついと手を上げて遮り、にやりと見返したホリは愉快そうに
「やっぱり、あんたはかなり諦めの悪いお人だね。結構結構。だがらこそわしはあんたを今まで援助してきたんだよ。だが、ただの無謀は感心しねえな。そんなことはおおよそ慎重家のあんたらしくないだろう?この海の上じゃあ、生きるも死ぬも海の神の御意志次第、いわば素のままだな。そしてわしもここじゃあ王都の商人でもなきゃ、プタハの僕でもねえ、唯のじじいの船員あがりだよ。わしとあんたがこうやって話すのはこれが最初で最後だ。だったら、妙な気取りは捨ててじっくり話をしてみる気はねえですかい?」
 ホリは膝に投げ出してあったターバンで悠々と汗を拭うと、アヌイに向って、西の海上の遥か先に顎をしゃくってみせた。
「ここがどのへんか、船長から聞きましたかい?」
 アヌイは剣呑な表情を崩さない。しかし、先ほどのホリの一言が、僅かに効果があったのか、いつしか彼は再び船床の上に膝を組んで坐りなおしていた。二人の頭上で、筵織りの巨大な帆がはたはたと軽快な音を立てた。
 それをふっと見あげて、しばし海を見遣ったアヌイは、黙って見つめるホリに視線を返して口を開く。
「知らん。海の色からして、ワジ・ウェル(大緑海)でないらしいが」
「まあねえ、あんたは多少星は読めるらしいが、眼が醒めたらいきなり海の上じゃね。ここは、シナイ半島のワディ・マガラの鉱山の近くを通り過ぎて、あと3日も南下すれば右手にサウウ港が見えるってあたりですよ」
「そうか…やはり赤の海だったか…下の海にしては航海の季節が違うと思っていたが…」
 アヌイの呟きにホリは黙って頷いた。
 ケメトの民は、現在のアラビア半島とケメトの間に広がる狭隘な海を、古来『赤の海』と呼び習わしてきた。これに対し、『下の海』とはペルシャ湾からアラビア海のあたりのやや広い地域を指す言葉である。エジプトにやってくるバビロン・エラムなど東国の商人たちは、一般的に二つのルートを取るとされていた。即ち、ティグリス・ユーフラテスの二大河沿いに北上し、ビュブロスなどの地中海東岸都市から出る船で下エジプトに入るか、あるいは、隊商を組んで砂漠を横断し、シナイ半島を経由して同じく下エジプトに入るルートである。
だが、ティグリス・ユーフラテスの河口から南回り航路で下の海を抜け、アラビア半島沿岸を迂回しつつクセイル港目指して北上してくる商船の存在も、昔から知られていた。王家がシナイ半島のティムナ渓谷に銅山開発を始めてからは、とくにこの赤の海を行きかう船の数が増えた。
ただ、専ら季節風に頼って航行せねばならないため、これらの船も航海の季節は限られており、実際のところは北上ルートほど利用されてはいない。現在の季節風は、北西風である。これによってシナイ半島側を発した船は南下することができるのだった。クセイル港は、守護神ミンを戴く都市コプトスを起点とするワディ・ハンママートの海上の出口であり、プントへ派遣される船団はここを母港とする。サウウ港はそのクセイルよりもやや北にある同様の港町で、ワディ・エルガススと呼ばれる隊商路を使ってエジプトに入れば、ハトホル神殿で名高いデンデラに出ることができる。
そういったことを想い描きながら、アヌイは足を組み替えながらホリに問いかけた。
「ではあれから直ぐヒクプタハは陥落して、お前たちは意識の無い私を運び出して海へ?」
「さようで。なんのかんのと言っても、船の上までワァルト軍が追っかけてくることは出来ねえからね。奴らは主にケフティウ(クレタ)の商人と結んで、北航路を押さえるには熱心だが、そのぶんこの赤の海には目がむかねえ――というより、奴らは手が出ねえ。何しろ、ここはずっとケメトが支配してきた海だから」
「そういえば、はるか昔、この国がまだ形作られぬ頃、隼を戴く一族が海の向うからやってきたという伝説があるな。デンデラにフウトホル女神が御座すのもそれに由来すると聞いたことがある」
「メフカトの貴婦人は、ホルス神の妃ですからね。それにケメトの土地は、いわるほど閉鎖的じゃねえ。南からも北からも、そして西の大砂漠からも今も昔もどんどん人が流れ込んできたわけだ」
「だが不思議と民の気質は変わらんな。流民の末裔が自らの国を誇り、他国を貶めてきた。それにしても、王家の船団は、内乱のなかで随分失われたはず…ここ数十年はプントへの使節も派遣されていないと聞いているぞ?」
 だんだん興味を向けてきたアヌイの様子に、話の流れを寸断させぬよう、ホリはあくまでさり気無く続けるのだった。
「プタハの神がなんで『職人の守護者』って言われるか、あんたは考えてみたことねぇですかい?船の持ち主は王家や大神殿でも、それを作るのはほとんどヒクプタハの船大工だ。船員も大工も大体はヒクプタハの親方のもとで見習いをはじめて段々と熟練の者になってゆく。とすると、 
船がだれの所有であれ、ケメトの水運を実質的に動かすのはヒクプタハ出身の者たちってことになるんですな。そして…」
「ああ…そして、そいつらは大体親子代々、子弟代々、プタハ神殿の息がかかったものだというんだろう。だったら戦のどさくさまぎれに、船の一隻や二隻は易々とちょろまかしてのけると」
 アヌイは目を閉じたまま、船縁の柵にもたれてそう言葉を継いだ。
彼の面からは先ほどの激情は綺麗に消え、再び押し殺した殺気とも呼べるものが漂い始めている。だが、ホリには僅かながら事態が動きつつあることを肌で感じ取っていた。それは、商人としての、いやそれ以上に、潮風を読む船乗りとしての勘のようなものであろう。
「そうそう、そういうことってす。今、ワァルト軍はアシュートの手前まで迫ってるということだが、肝心の首領がアヴァリスから動こうとしねえ。あんなに指揮線を延ばして大丈夫なのかねえ。ヒクプタハには甥の将軍を置いてあるが、こいつがあの港に火をかけるなんてことをする馬鹿でね。おおかたケフティウの商人どもが焚きつけたんだろうが、あそことアヴァリスの港じゃあ規模といいのちのちの便宜といい、お話にならねえことくらいわかるだろうに。戦利品欲しさにやることっていったら沙漠の盗賊も真っ青だよ」
「…ケネプたちは元気か」
 アヌイはぽつりと呟くように言った。
「何とかね。西メフウの連合軍は今じりじりとチェメフ(リビア)のほうへ追いやられつつあるが、サイス侯や頑固なブトの大公あたりとまだ頑張っておられますよ。あんたがいなくなってふた月は経とうっていうのに、あんたはまだどっかで生きていると信じて部下を纏めていなさるってこった。泣けますね」
「そうか……皆…まだなんとか戦っているか…」
 アヌイは遠く遥かな西の空へ視線を投げた。そうして顔を背けた横顔を改めて見直すと、病でげっそりやつれていた頬に、濃い陰翳が掃かれ、別人のように陰気な顔立ち見えることにホリは内心驚くのだった。
 さすがに口を噤んだホリだが、油断の無い眼差しはアヌイの顔から離そうとはしない。だが、さすがに次の一言には絶句した。
「なぁホリ。わたしでも海賊くらいにはなれるだろうか?」
「はぁ?今、何といいました?」
「海賊にでもなろうかと言ったのだ。こうして潮風に靡かれていると、このまま南なり西なり、どこへでもきままに流れていくのもいいのではないかと思えてな。プントというのはこのずっと南の国だそうではないか、お前の母の国なら見てみたいと思ったことはないか」
「アヌイ様…あんた…」
「おまえの例の雇い主が、わたしの娘を生涯保護してくれるというなら、わたしには気がかりなこともなくなった。あれの母は娘をイシスの御神の膝元で育てたいと願っていたから、その願いを叶えてやれるしな。ケネプもこれ以上わたしの消息が掴めなければ、さすがに諦めるに違いない。とすれば、わたしをケメトに縛り付けるものは何も無いというわけだ」
 アヌイはすっと立ち上がると甲板の手すりのところまで歩み寄り、背を持たせ掛けるなりまたくるりとホリのほうを振り向いた。彼のやや大き目の口許がくいと吊り上り、微笑の形をとった。
「そうだ!わたしはずっとこうしたいと思っていたのだ。どこまでも景色のかわらぬ、息の詰まるようなあの国、昔の王の栄華に憑かれた頭の固い連中がのさばる国を出て、どこか…どこか何にも繋ぎとめられないところへ行ってみたいとな!」
 頭上の碧空を振り仰いで、アヌイは叫ぶようにそう言った。ホリにはそれが解放を願って止まない囚人の嘆きにも似て聞こえた。彼の独白にはおそらく偽りなどないだろう。今や、アヌイの捕らえどころのないふざけた風情の外殻は綺麗に剥がれ落ちた。彼は心の底に仕舞い込んだ苦い思いを持て余し、行く先がわからなくなっているらしい。
 ホリの大きな目がきらりと光った。
「本気でそんなことを仰るんですかい?」
「ああ。本気だぞ」
「確かにあんたならその器量で直ぐに手下を集められるだろうし、海賊のほうが向いているかもしれねぇ。やることっていやあ、あんたが今までやってたことと大して変わりゃしないしね」
「だろう?ずっとこのまま南下して、クセイルもネケンの首も通り過ぎプントへ、そしてそのまた先の海の果てへ行ってみるのも悪くない…地の果てへ、ヌンの海をもみてやろうよ!」
 そういって彼はまた頭を仰け反らせてからからと笑った。だが、その愉しそうな声音にも老獪なホリは誤魔化されなかった。
「でも無理ですよ。あんたがいくらそうしたいと思っても、セシャトの女神があんたについて書き記したという文書にはそんな予定は入っていないでしょうよ。何より、あんたは心の底ではそんなことは望んじゃあいねえな」
「なぜそう言い切れる?お前も予知者か」
 からかうようなアヌイの態度に、ホリはすっと表情を引き締め、彼もまた立ち上がった。長身のアヌイに比べ哀れなほど背の低いホリだが、恰幅のよい身体に腕組みして睨みつける様は、堂々として一歩も引かないといった迫力を放射した。
 そして、アヌイを睨みつけたまま彼は続けた。
「こんな簡単なことがわかるのに何の才能が要るかね?あんたはみっともねえ真似はお嫌いな人だ。っていってもそれは、人の信頼を裏切ったり、人を手玉に取ったりするのがみっともないっていうんじゃねえ。そんなこともできねえヤワなやつこそわしは軽蔑してきたからね。あんたもわしと同じで、実は『高潔』なんざワニの餌にでも呉れてやるって人間だろ」
「はっ、利いた風な口を…」
「やかましい!」
 嘲笑しかけたアヌイを、ホリはその大喝で黙らせた。
「じゃあ聞きますがね、自分にゃ出来ねえと目を瞑って尻尾を巻いて逃げたりすることがあんたに出来ますかい?あんたが望むと望まぬとに拘わらず、あんたにここまでケメトの運命が関係してくるってことは、あんたの運命の星はケメトでしか輝かないっていう暗示じゃないかね。それが恐ろしくて、逃げても結局あんたは一生自分を蔑みつづけて苦しむでしょうよ。それに耐えられるのかね?」
 アヌイの濃い眉が怒りで閃いた。
「このわたしが恐れているだと?」
「そうじゃなきゃなんだい?わしにはあんたが運命の分かれ目を目の前にしてビビってるとしか思えねえよ?こういうことに腕力や知力は関係ねえんだ。歳も、身分も、男だろうが女だろうが、それさえも関係ねえ。やるかやらずに逃げ出すか決めるのは人の…そうだな、ケメトの言葉でいえば、それは持って生まれたカァの程度によるんだな。あんたに逃げるって言わせるってことは、あんたのカァはその程度だって思って良いんでしょうな!」
 最後の言葉に、アヌイの顔が醜く歪んだ。まるで激痛を堪えているような凄まじい目で彼は一歩踏み出し、ゆらりと彼の周りの空気さえもが歪んだよう。
斬られる――と、ホリは観念したが、さすがに顔を背けるようなことはしなかった。
「お前のようなやつに何がわかる…」
 腹に響くような声で、搾り出すようにしてアヌイはそう毒づいた。
「お前のような満ち足りた顔の男が一番腹が立つぞ!!」
「そりゃどうも。だがそれはあんたが解決すべき問題でしょう。わしにはどうにもしてやれねえな」
 ホリは仁王立ちになったまま、びしりとアヌイの胸元に指を突きつけて
「最後にこれだけは言っておきますよ。あんたは野心家だ、そしてその野心こそがあんたの原動力で、あんたはそれに抵抗する力がないんだよ!なんでそれが分からねえんですかい?なにが原因が知らねえが、そいつを恥じるなんざ馬鹿げてるさね。あんたが産まれたとき、その魂を吹き込んだっていう七人のフゥトホル女神様も、今のあんたを見たらがっかりなさるよ」
「黙れ、お前こそ今更善人面して忠告か!」
「いんや。別にあんたが生きようが野垂れ死のうが、わしは痛くも痒くもねえんだよ、はっきりいって。わしが提示した条件を呑むか、さもなきゃ、海に放り出されて溺れ死ぬか、どっちでもお好きなほうを選びなせえ。ここまで粘ったあんたの根性に敬意を払って、死に方くらいは選ばせてさしあげますよ」
 アヌイの眼がかっと血走った。彼はブルブルと拳を握って立ち尽くし、そして、おもむろにホリにくるりと背をむけると、足早に甲板室のほうに姿を消した。

 その姿を黙って見送るホリの目には、どこか痛ましげな光があった。
 
 それから二昼夜、アヌイは自室に籠もったきりで一切外に出てこようとはしなかった、ホリもまたそんな彼をそのままにしておいた。それでいて、自分は船長と昔談義に耽ったり、見習い船員をからかったり、船具の手入れの早さを競い合ってみたりと、はなはだのんびりと過ごしていたのである。
 だが、その夜、乗組員のなかでも最も年若い見習い少年がぽろりと漏らした一言が、ホリに思い腰を上げさせたのだった。

「アヌイ様、ホリです。入りますぜ」
 筵を撥ね上げる前に一応そう断っておきながら、ホリはうっそりとした動作でそこへ足を踏み入れた。途端に、隅の暗がりから不機嫌そうな声がする。
「おい、そこ踏むな。せっかくの苦心の作だぞ」
 言われて足元を見たホリは、思わず叫び声を漏らさずにはいられなかった。
「こいつぁ…すごいな。あんたが描いたんですかい、これ?」
「他にすることもなかろうが――いいから、それ寄越せよ」
 壁に凭れかかるように座り込んでいたアヌイは、ホリが胸に抱えていた酒壺をひったくる様にすると、縁に直接口をつけてあおりはじめる。まさに咽を鳴らさんばかりに。船長からせしめたとっておきの葡萄酒壺がすっかり空になるのを横目に、ホリは自分の足元に広がる図形をしげしげと覗き込むのだった。船室といっても二人が並んで腰を下ろせば、すでに窮屈に感じられるほどの狭いものである。だが、月明かりに顕わになったものにはそんな狭さは意味をなさない。
 そこには、描き殴ったようでありながら、渾身の作であることは明白である地図――もちろん、正確な地形を反映しているとは言い難いものの、現在地、近郊の諸都市、隊商路に間道、オアシスに港、そして軍隊の配置まで詳細に描き込んであった。タールをどこから調達してきたのか、船板に直接描きつけたのだろう、あたりには真っ黒になった葦の切れ端の残骸が散らばっている。
州都、有力神殿都市と思しき場所にもなにやら印がつけてある。それらの意味不明な印も複雑に線が引かれて結ばれてあるのだ。
 ホリは腕組みし、無意識にうなり声を発しながら目の前のアヌイの力作をじっくりを自分なりに解読してみようとするのだった。そしてしばらく沈思黙考したのち、しみじみと
「いやはや、あんたがここまで事態を把握してるとは、正直驚きましたわい」
「べつに大したことではあるまい。お前も、お前の馬鹿息子も、あの男も喋りすぎだ。あとは少々頭を巡らせてみればよいことよ」
 まるまるひと壺空けたというのに、僅かな酔いの気配も見せぬアヌイは面白くもなさそうな声で返事をする。
「この西と南の△印は何の意味です?」
「いちおう、援軍か協力が見込める地といっておくか」
「じゃあ、あんたの答えは出たと思っていいんですね」
 ホリは、アヌイのほうに向き直ると声を改めた。
「どうなんです?あんたの答えを聞きたいんですよ、わしは」
 それに対し、月光が差し込む方向に視線を流したアヌイは、外の暗い海を見遣りながら
「船長はあとどのくらいでサウウに着くといっている?」
「風次第だが、このぶんならあしたの夕方には着けそうだって話でした」
 ぱっと振り返ったアヌイは真っ黒に汚れた顔で無表情に
「では決まりだ。私に手を貸せ、ホリ」
 どこまでも傲岸不遜というべき一声であった。さすがにホリは苦笑し
「あくまであんたが頭じゃなきゃ、この話はご破算だってことかね」
「私の他にお前らがあてに出来そうなのがいるのか?」
 そっけない返事を聞いて、ホリはまた複雑な顔で笑うのだった。
「残念ながらいないみてえだね。だから、正直言ってあんたを海に放り込まずに済むならそれに越したことはねぇってわけだ。で、あんたの側の条件を聞きましょうか」
「アイシスをわたしの許へ連れてこい。気色の悪い話はそれからだ」
「…わかりました。で、それだけですかい?」
 不審顔で問い返すホリに対し、アヌイはきっぱりと
「お前らがわたしの娘を絶対的に保護するという約定は、そもそも我らの間で条件ではなりえぬと奴はいったな。ならばそれは何があっても守ってもらうぞ。それに、ここからはわたしの戦だ、お前らにあれこれ口出しはさせん。おこぼれが欲しくば、黙ってわたしに手を貸せばよいのだ。それにわたしがこれが欲しいといえば、お前らはそれを提示できるのか?」
「出来る限りのことはいたしますよ。何がお望みです?仰って下さいよ、わしで出来ることなら…」
 ホリの眼にも真剣なものが漲り始めていた。 
 アヌイは口の端を吊り上げるようにして一言
「では、わたしの奪われた名誉を」
 一際強い眼光で宣言され、ホリは自分の失言を悟った。
 そうだ、あれほど権謀術数を駆使してひとまず確保した勢力圏を、この男は一瞬で失ったのだ。突然姿を眩ました指揮官の行方について、下エジプトでは様々な憶測が飛び交い、中には酷い中傷もあるとはホリも聞いていた。そんな流言蜚語を信じた輩、あるいは、機を見るに敏な協力者たちは、たちまちのうちに、アヴァリスに一大勢力を誇るようになったワァルト軍に走り、彼の動かせる兵力は激減してしまった。何よりもアヌイの勢力の拠り所であったもの、歴戦の勇者、名誉ある将軍として、自らが育て上げた兵たちからの信頼をここふた月で彼は失ったのだ。
 押し黙ったホリから視線を外すことなく、アヌイは凄みさえ見せて笑い
「残念ながら一度は破れたが、これからはそうはいかぬ。今度こそ、やつらの息の根を止めてやるのだ。わたしの怒りがどれほどものものか、身をもって思い知らせてやる」
 何の――とは、ホリは問いたださなかった。一連の経過を知っているホリにも見当はついたし、何より、白い歯さえ見せて笑ったアヌイの常ならぬ殺気に圧倒されてしまったからかもしれない。
 この男は変わった。
 今までは、心の底にどんな非情な、あるいは穢い部分を隠しもっても、この男はその豪放磊落な雰囲気でそれらから目をそらさせてしまう得な性分であった。それは時に馬鹿馬鹿しいまでの率直さで理想を語り、あるいは己を信じる者がもつのみが放つ厭味の無い無邪気さといったものの中に顕われていたといえよう。時としてそれはホリを密かに苛立たせるものだったが。
だが、今のこの笑みは何だ。
むくりと身を起こした獅子の、牙を剥くに似た酷薄な笑みは。
 あるいはこれこそが彼の本性なのかもしれない。彼は心の底に怒れる獅子を隠しもっていたのか。相手を目の前から消し去るか、貪り食わねば抑え切れぬ、憤怒(いかり)の獣を?それに気がついたこの男は、今までの陽気で有能なだけの将軍ではいられなくなるのだ。己の真の望みを知った以上…。
 それならそれでいいやね。わしが待ってたのは、誰からも愛されるような部類の人間じゃない、誰からも恐れられ、慄いて視線を伏せられ、嘆きを持ってその名を呼ばれる者だ。この男が何を目指そうとかまわねえ、それをどうっやって獲るつもりかが知りたいんだ。

 ホリは溜息をひとつついて、またアヌイに向き直り
「ひとつだけ聞かせてくださいませんかね、なんで急に気が変わったんですかい?」
一瞬黙り込んだアヌイは、ホリの肩越しに遠い目になった。あるいは、不意に夜空に引き込まれたような虚ろな表情で、彼はぽつりと呟いた。
「声を聴いたからだ…」
「……それはなんかの夢の話をなさってるんで?」
「夢か現かはわからん。あるいは、熱に浮かされてみたわたしの妄想かもしれないが、やけに生々しくてな。わたしはその意味をずっと考えていたのだ。そして、先日お前に言われたことも」
「………」
「真実などどうでもいい。とにかくわたしは、あの夜、はっきりとナスリーンの語る声を聴いた。あいつは俺にこう言った、ホリ」
 無意識だろうか、黒く染まった指で乾いた唇を擦りながら、アヌイは目を閉じて語った。
《あなたの運命を河の水に喩えるなら、今、アケトのナァ・イテルゥのように一番高いところに満ちてきたと思いなさい。それに乗れば、ひとまずはあなたの運命を制御することができるでしょう。先のことはわからぬにせよ。でも今を逃せば浅瀬に捕らわれて身動きできなくなるのよ。それだけは嫌なんでしょう?それに運命の神が差し出してきた機会を、そんなに無碍に扱うものではありません。それは神々を蔑ろにすることで、人間が独力で神々の真意を測ろうとすると、二度と自らの運命の舵を切ることは許されなくなるわよ…》
「だから俺にその流れに乗れという、そしてこちらへ何度も手を差し伸べて来る。だが俺があいつを抱きしめようとすると、河があいつをさらっていってしまう。ナスリーンの…あいつの敬愛する女神は、あいつにあんな無残な運命しか与えなかったのに、それでもまだそんなものを信じてるんだ。そして俺にも敬神を説く―――女ってのは、つくづくお人好しの馬鹿だな…そうは思わないか?」
 掌で目元を覆ったアヌイは、小さくくつくつと笑った。だが、紛れもなくその語尾が震えていることをホリは気づかずにはいられなかった。
「ナスリーン様は『予知者』であったそうで」
 途端、アヌイの大き目の口許が屹と引き結ばれ、叩きつけるように
「そんなのは冗談にもならん!あいつは心底それを厭わしくおもっていたし、嘆き悲しんでいた!」
「…そうでしたか」
「……だが、結局あの能力(ちから)が、俺にまであれを見せるんだろう。そしてナスリーンの死が事故だったことを証し立てる…」
「いったいあなたは何をご覧になるんです?」
 思わず身を乗り出したホリだった。
「ナスリーンが命を落とす瞬間の場面だ。まるで俺が宙に浮いてそれを見ているかのように鮮明に見える。番兵ともみ合った拍子に、強風に煽られて足を滑らせ、城壁の外へ投げ出されるあいいつの姿をくりかえし、くりかえし…真っ赤なのはあいつの血かそれとも夕日なのか…」
「そいつはまた…なんてぇ…悪夢そのものじゃないですか…」
 声が詰まったホリに力なく笑い返して、アヌイは続けた。
「そうだな。どうやっても俺はナスリーンを助けてやれぬと思い知るだけだからな。それもこれで二人目だ」
 そこまでの事情を知らぬホリではあったが、追求はせず、それどころか慰めるように
「あんたはつくづく不思議な男だ。酷薄かとおもえばひどく優しいね。平気で人を手にかけるくせに、そういうのはてんで駄目なのかい。でもねえ、こういっちゃなんだが、アヌイ様、この世で想いを残さずに死ねる幸せな人間がどれくらいいますかい?そういうのはすっぱり割り切らなきゃならんでしょうが」
 だがアヌイは強く首を振った。 
「俺はそうは思わない。俺が今まで手にかけてきた連中は、己のしでかしたことは己で引き受けるべき人間だった。この俺もいずれどこかでそういう風に斃れるのが似合いだろうよ。だがな、ホリ、あの二人は、ナスリーンと小さなセシェンはそういう無残な運命には無縁に生きられるはずだった。セシェンは好きな男の花嫁になるっていう無邪気な夢があったし、ナスリーンはアイシスのことで心痛めていた。俺はかりそめにせよ、あの二人の想いを守ると約束した。見た通り、俺は最低の人間だが、せめて、その想いを踏みにじりたくはないんだ」
 ホリは彼の沈痛な述懐に黙って耳を傾けていた。
 波の穏やかな夜であった。
あたりはしんと静まり返り、船底に波頭が砕ける音と風で帆全体が軋む音のほかは何も聞こえてこない。乗組員たちも、見張りを除いては皆夢の中なのだろう。その中の一人がホリに、「あのお人の部屋でおんなの姿を見た」と怖ろしそうに耳打ちしたものだったが、それもまた、今となれば合点がいく。
見あげれば、畏怖を感じるほどの満天の星。
ケメトの古い伝説によれば、死者の魂は天に還り、瑠璃なす天空のヌゥト女神の胸に抱かれて不滅の星となるという。そのなかに、アヌイを愛した女の魂があり、苦しみ惑う男を哀れに思い、ある夜ひっそりとここへ降り立って、彼のうちのめされた心を抱きしめるべくやってきたのではなかったのかと。
「じゃあ、あなたはその二人のための復讐をお望みで?」
 その一言に、またアヌイは力なく笑った。
「そんな立派なもんじゃない。二人が命を落としたのは、結局のところ俺の功名心やら、見通しの甘さのせいなのだ。だからその償いのため、そして――私的な恨みを晴らすため。そんなものばかりさ。どうしても、俺はそれがやりたいのだ」
 ホリは呵呵と笑って
「それでかまわないじゃねえですか。気色の悪いお為ごかしを並べ立てられるより、そっちのほうがわしはずっと安心できる。だいたい、復讐なんざ意味がないという奴は、大事なものをもったことがないだけなんですよ。わしはそういう負け犬の遠吠えは大嫌いでね」
 そういいながら、ホリは立ち上がった。
「いずれにせよこれから忙しくなる。人間も物も尋常じゃない速さで動かさなきゃならねえし、それもまたいちから始めなきゃならねえと来た」
「そうやってお前らは物と情報を運ぶ、俺はそれを受取り、組み立て、王都とワァルトの足元を崩す。やることは今までと変わらん」
「一つだけ違いますね」
 ホリはアヌイを直視して、言葉を続けた。
「あの時は、イメンテト侯様、あなたを王都に対抗できるだけの勢力をもつメフゥ(下エジプト)の実力者に仕立てあげられれば、それでよかった。だが、今度はあなたはこの国のファラオになるんだからね」
 ホリを見上げたアヌイは、一言。
「願わくば、わたしの運命の河が、わたしをそこへ導かんことを」 


翌日、ホリの前に立った男は別人のように吹っ切れた顔になっていた。心なしか少し目が赤い。ホリも追及しなかった。
 鬚をすっきりと剃り、汚れを真水で落として真新しい衣服に着替えた男は、船長に最新の地図を要求すると、ホリを交えて甲板室の隅で議論を始めた。 彼のきっぱりした面長の顔にはもう迷いがなかった。彼は、ホリを呼びつけ、あれこれ聞き出した挙句、戦略立案は自分に任せろと何度も念を押すことは忘れない。
 ホリも己自身が、その駆け引きを愉しんでいる自分に気づくのだった。
 彼が運命に向って踏み出したことだけは判る。それゆえに、彼を包む雰囲気から剥き出しの殺気が消え、幾重にも穏やかに隠されたものに変わっていることを感じ取らずにはいられない。いつもの人を魅了するふざけた風情に、眼差しには人を射抜くような剛さが加わったように思う。このふた月のあいだに降りかかった出来事のせいか、彼の面差しははっとするほど鋭く研ぎ澄まされ油断のないものに変貌していた。ふざけた風情のあった口許は屹と引き結ばれ、容易なことでは後退しないという意思を露にしていた。ホリもそれに応えて、軽妙な口上も滅多に披露することもない。
 一人は己の名誉と誇りを取り戻さんとし、一人はそれを傍から眺めるだけなのだ。
ホリは直感的に感じていた。いよいよ、自分が今まで丹精してきたケメトという巨大な「庭」が一斉に種を芽吹き始めたと。叶うならその最終形態を見届けてから死にたいもんだ――と老人は不敵に呟く。
 こうでなきゃ面白くねえ。この世で賽が振られて遊戯が始まるのを見られるのほど、わしを駆り立てるものはねえんだからな。ホリの口許に会心の笑みが浮かぶ。それは、メリトゥトゥとしての達成感とは次元を異にしている。
(要するにわしの守り神は、骨の髄までサイコロがお好きってこった。相手の手を読み、観察し、そして、ほいっと賽を振るときのあの快感に憑かれてしまったってんだわな)


 船尾に一際高くなった見張り台のあたりから、ひときわ通りのよい美声が響き渡った。
「長ぁ、見えましたぜ、前方右にサウウの砦が見えます!」
 ばらばらと一斉に甲板に飛び出した男達は、久々に見える街の遠景に歓声を上げた。
 ホリもそれに混じってみるみる近づいてくる光景を愉しみながら、ふと右手の人物に気がついた。
 アヌイもまたじっと前方の景色をみつめていた。
 他の乗組員たちのように、身を乗り出すわけではないが、じっと腕組みして、しかしその目は爛々と灼熱の焔を宿して燃え上がり始めていた。
 彼はついに還ってきたのだ。
 豊饒なる黒い土と、死が支配する赤い砂漠からなる彼の故郷(ふるさと)。懐かしい友と、最愛の敵が待つ場所へ。

 ジェドカラー王の治年第5の年の終わり、東部砂漠からいくつかの流れがうまれた。その一つは、密かに上陸してそのままケメトを横断して西のドゥルンガオアシスへ、一つは南下してコプトスから王都へはいった。そしてひとつはとってかえして北上し下エジプト側の隠し港に戻り、最後の一つは同じくドゥルンガオアシスを拠点に南周りにワワトへ向う流れと北上してリビア沙漠へ向うもの。

 時にイブネセル・アヌイは31才。この翌年が実質的に新王の治年第1の年となるが、その時は誰もまだ予想もしていないことであった。


16章へ続く