13.ファラオの剣



 さながらそれは、地平線に揺らめき立つ蜃気楼。
 あるいは、一瞬で空を黒く染め替えるハムシーンの如くであったという。
 いつものように、アヌイは少人数の供周りを連れただけで、ヒクプタハへ密かに入ろうとしていた。しかし、何処からともなく現れ、彼ら一行を取り囲むなり、無言で威嚇してきた覆面の集団には不意を突かれる格好になった。
 このところの物騒な世情を考慮して、イムゥから真直ぐに南下してヒクプタハ市に入ることを避け、わざわざ川を渡ってから迂回し紅海側の隊商ルートを採った。にもかかわらず、もうすぐ例の白い城壁が見えようかというあたりで、その不審な一団と遭遇してしまったのだ。

「やあ…すまぬがお主ら、どこかの誰かとお間違いでは?我らはシナイの銅山遠征隊の一員だ。北宰相様のご命令でヒクプタハへ帰還途中の身。そこを通してもらえぬか?」

 のんびりとした口調でアヌイが告げたにもかかわらず、先頭にいた首領らしき強面の男はにこりともしなかった。

「目くらましの口上はこの際結構。あなた様はイメンテト州侯閣下でござるな。わが主の命により、我らとともにお出で願う」

 アヌイの濃い眉がくいと上がった。

「これは意外な名を聞くものだ。この身を誰と仰ったかな?」

「問答無用。お連れせよ!」

 男の命令一下、ゆうに50人は超える兵士がアヌイの一行に襲い掛かった。
 舌打したアヌイは、白刃を抜き放つなり瞬く間に数人を馬から斬り捨てたが、如何せん、多勢に無勢であった。すぐに乱戦になり、渦中のアヌイは最も身の軽い供の兵士を傍へ呼び

「お前は我らに構わず、今すぐ取って返してケネプのところへ帰れ。わたしが戻るまで、軍を持ちこたえよと伝えるのだ!」

 と伝言するやいなや、馬の尻を剣でぴしりと打ち、一目散に包囲の薄いところへ向わせた。
 そして援護すべく振り返った、その時。
 肩にかっと激痛が走った。
 見れば深々と鏃が食い込んでいる。飛んできた方角に首をねじり、射手の手にあるものを見たとたん彼の顔に烈しい動揺が走った。

「馬鹿なっ!!その弓をどこから……そちたち、まさか!!」

 しかし、瞬時に痺れが全身に回って目が眩み、馬から振り落とされ地に叩きつけられたかと思うと、あとは深い闇の中に意識が落ちていったのだった。



 そして目覚めてみれば、自分はどことも知れぬ地下牢に繋がれていたというわけである。
 一度だけ抵抗してみたのはいいが、したたかに殴られ蹴られの目にあって以来それは諦めた。とりあえず、襲撃者側としては命までとる気はないようで、獄吏は彼を痛めつけたものの食事と水は運んできた。しかし、瑕の応急処置をこまめに取り替えるでもなく、排泄もその場で済ませるしかないとなれば、自分が今どのような姿なのかは想像するだに難くない。肩の矢傷も未だ熱を持っており、その痛みが一層彼を苛立たせるのだ。劣悪な環境なら戦場で慣れているが、何も情報を与えぬ(しかもどうやら口がきけぬらしい)獄吏とのやりとりは、さすがのアヌイも疲労させていった。

 そんなある日、囚われてから優に20日は経ったように思ったころ、目の前に懐かしい姿が見えたというわけである。
 いや、懐かしいとはいえない。彼があの日、ヒクプタハに入ることを知っている者は僅かしかおらず、今の事態を考えればまさしくおびき寄せられたと考えるのが自然なのだから。
 しかし、アヌイは何故か怒りを見せない。
 それが判るのか、イピは不審そうな顔で口火を切った。

「お怒りにならないんですね。わたしが手引きしてあなたをここへ連れてきたというのに」

「腹が立つのは、己のうかつさ加減であって、お前の裏切り程度ではないのでな。それより、外の話を聞かせてくれ。今は何日だ?」

 アヌイの声はひび割れてひゅうひゅうとかすれていたが、無精ひげが伸び、未だ傷が治らぬ血の固まった口元にすら、相変わらずふざけた風情が漂っている。それを目に留めると、イピは呆れたように肩を竦めくるりと背を向けると、隅にあった水甕から柄杓で一掬いして運んできた。

「さあどうぞ。あなたにはまだ喋って頂かなくてはなりませんから」

 フンとせせら笑うと、アヌイは空いている左手を差し出して柄杓を寄越すようにひらひらさせた。しかし、イピは用心深く首を振り

「駄目ですよ。そちらの水鉢をこちらへ下さい。入れて差上げますから」

 と拒絶したので、アヌイは仕方なしといった顔で素焼きの鉢をイピの手許に蹴り転がした。イピは身を屈めてそれを拾い上げると、慎重に柄杓から水を注ぎ、そろそろと格子から手を伸ばして差し入れた。とはいっても、それはアヌイが鎖を目一杯伸ばしてようやく届く距離である。アヌイはくつくつと笑いながらそれへ這いずり寄ると、手にとって一気に飲み干した。勢いあまったのかむせて暫く咳き込んでいたが、喉を鳴らして実に美味そうに飲み干し、空になった水鉢をコトリと床に置くなり

「随分と用心深いな。私がそれほど危険に見えるか?」

 と問いかけたときにはもう、いつもの低い声に戻っていた。
 イピも格子から少し離れて、アヌイの真正面に胡座をかいたが、そうすると体格の違いから自分よりだいぶん高い位置にアヌイの顔があることになってしまった。その不具合に内心舌打ちしたものの、気にしない体を装い、改めてアヌイの醜く腫れあがった無残な顔を見つめた。

「それにしても、随分抵抗されましたねぇ…。あなたは妙に剛情なところがおありだから。察するに獄吏を挑発なさったんでしょう?」

「お陰で水も呑めぬ身体にしてもらったわ。…で、今日は何日かという質問に答えて欲しいのだがな、わが友イピよ」

「今日はペレトの2の月の15日です」

「ということは、わたしが囚われてから22日めだな」

「そういうことになりますね」

 普段愛想の良いイピがにこりともしないのに対し、アヌイのほうは酷い風体にもかかわらず声色も、態度もいつもどおりであった。

「単刀直入に聞こう。お前は、ワァルトの手の者か」

「いいえ」

「では、王都の?」

「いいえ、まさか!」

「ならば答えは一つだな。《星の者》であろう」

 その言葉に、無表情だったイピの瞼がぴくりと動いた。

「《星の者》?それは何のことでしょう」

 アヌイは大儀そうに足を組替えると、がりがりと頭を掻きながら

「とぼけるな。まあ、正式にはそう呼ばぬかも知れぬが、わたしが生まれ育ったあたりではそう呼ぶのだ。“大いなるウシル”即ち、冥界の主、いにしえの王たちの御祖(みおや)にして、永遠の星の神オシリスを奉ずる者のことをな。つまり、大王家がこの国を統べる以前からこの地にあって、なにかと無視できぬ者たちのことだ。お前もいずれその一人だろう?」

「その呼び方は初耳ですが、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。それにしても、あなたがなぜそんな影の者の存在をご存知なのです」

「きっかけはお前と似たようなものだろうよ。忘れたつもりでも、地縁・血縁というやつは尾いてまわるからな。有り難くもないが…」

 淡々とそんなことをいう彼に、平静を取り繕おうとするイピの表情が好奇心で動いた。

  「…確かあなたは、オシリス信仰の盛んなジェドウ(ブシリス)のお生まれですよね。父祖の領地をオシリス神殿に寄進して、あなたはサイス州軍への足がかりを得られたとか」

 アヌイはおやと腫れあがった瞼を上げると

「調べたのか?そうだ、私は一族の祭祀その他諸々を神殿に一切合財任せ、あの地から自由になったというわけだ。その後のこともその様子では知っているな」

「イブネセル・アヌイ――ウセルハト王の治年第18の年生まれ。ジェドウの小領主であるあなたの一族アヌイ家は、ジェドウのオシリス神殿と強いつながりを持った一族だった。しかも、300年ほど前にメフゥ一帯を支配した異国の民、ヒカウの血筋も引くそうではありませんか。《アヌイ》というのは明らかにそちら系の名ですよね。あなたはその家の三男だ。お父上と兄上は神殿所属の兵団を率いる将校で、17年前にサイス侯領一帯を巻き込んだ紛争でお命を落とされたと聞いています。あなたはその後サイス州軍を経て王都警備隊に転入、次いで王軍南面師団の要職を歴任し、センウセレト内乱に功ありとして遂には現イメンテト州の長官となられた。…そして、いまは我らの囚われ人」

 イピはアヌイから目を外すことなく、記憶したものただ吐き出すように事実を列挙していった。一方のアヌイは益々愉快そうな表情になり

「ほほう。流石に良く調べてある。親父のホリがそう言ったのか?それとも、おまえの属する組織はわたしにそれほど関心があるのか」

「当然ですよ。あなただって、ご自分がそれくらいの注意を払われる人物だという自覚はおありでしょう?今は一介の貧乏貴族の子弟でもなく、王軍の下端兵士でもなく、イメンテト(西)州侯。しかも、サイス、ジェドゥ、バスト、ブトの西メフゥ一帯の諸侯を味方につけ、シーワ・バハリーヤオアシスまで含むリビア西部の有力部族を取り込んで、一大勢力圏を作られたお方。あなたが動かせる兵は今や一万余に達するのだから。そして、今度は大胆にも北宰相パーセルに食指を伸ばされた」

「それも今度ばかりは失敗した――といいたいのだろう」

「さあどうでしょう?これからのあなたのお心次第で、事態はすぐにも変えられるかもしれませんよ」

 イピの薄い唇がにっと吊り上り、ひたとアヌイの視線をとらえた。そして彼は、まるで馴染みの顧客と取引に臨んだ時のように、愛嬌たっぷりにこう言い放った。

「さてっと…取引は如何ですか、ハァティ(州侯閣下)?これからこちらが提案するのは、あなたにとっても悪い話ではない筈ですよ」

 そうして饐えた匂いの充満する薄暗い地下牢で、二人の密談が始まった。



 そしてこの時イピは、アヌイに驚くべき事実を告げたのだった。
 この日から10日前、ジェドカラー王の治年、第5の年のペレト(播種季)第2の月の5日に下エジプトの勢力図は一気に塗り替えられていること。
 下エジプトの20ノモスの筆頭にあたるイネブ・ヘジュの州侯、北宰相も兼ねる大王家重代の臣下レレト・パーセルがアアム・ワァルトに内通したという。ヒクプタハの支配権を実質上に手中に収めたワァルト軍は、これから一気に東部デルタから中エジプト中央部へ進出するだろうと。

   以後、黒土の国は最後の大内乱に突入していくことになる。





 北宰相の裏切りが発覚して数日後、上エジプトの王都テーベでは、燦燦と日が差す王宮のバルコニーから眼下を埋め尽くす兵士を眺め渡して、宰相ヌートが満足そうに背後を振り返った。

「なんと壮観な眺めでございましょう。皆が陛下の御下知を待っておりまする!」

 確かに宰相が自慢するだけのことはあった。

 謁見用の臨御の窓の下の広場にずらりと並んだ兵士は、皆一様に黒い肌の男たちで、背には弓を背負いアメン・ラー神の意匠を白く染め抜いた緋色のマントを靡かせているのである。つまり、それらは大王葬祭神殿に帰属する神殿兵《アシャ》の軍団であった。宰相が神殿に蓄えた黄金をばら撒いてまで、クシュの王子(ヌビア総督)から精鋭の傭兵団を雇い入れたと評判の部隊である。王都周辺においても、上エジプトの各州諸侯は長引く戦乱にさじを投げつつあり、王命を持ってしても自軍を合流させることに消極的だ、という内情は徐々に明らかになりつつある。

 結局のところ、何かと口実を設けては派兵命令を辞退してくるそんな州侯を罰するだけの力も、王都にはもはやありはしない。
 アビュドスに駐屯する南面師団の長、王軍の4将軍の一人で近衛長官でもあるケルエフ将軍などは、いまだ王家の命令の届く南部諸州の説得に忙殺され、本領発揮するはずの戦線からは半年も遠ざかっている。そのように指揮線がバラバラになりつつあるところへ、この美々しい軍団は派遣されてゆくのだ。

「これだけの馬揃えは前代未聞でございまするな」

「なんと勇ましいことよのう」

 眼前に広がる事態の意味を捉えることのできない大臣たちは、表面上の勇壮さに心奪われ、このような見事な軍団を揃えた宰相に対し追従交じりに驚嘆の声をあげる。
 そして彼らの最高指揮官であるジェドカラー王はといえば、無言で手すりの方へ踏み出すとゆっくりと両腕を広げ兵士たちに祝福の印を与えた。
 ざっと武器の触れ合う音がして4000の兵士が一斉に跪き、一斉に頭を垂れた。その先頭にいたこれまた黒い膚、口許に大きな切り傷がある逞しい大男が

「アメン・ラーの愛し子にして、偉大なるスメンクマアト大王の末裔(すえ)なる御方、ジェド・カ・ラー陛下に生命と、健康と、永遠の名誉を!我らはこれより、反逆者アアム・ワァルト及び、レレト・パーセルの討伐に向いまする。大王家と陛下の軍に勝利のあらんことを!!」

 腹の底に響くような大音声でそう宣言すると、後の兵士の掛け声が続いて広場を揺るがせた。
 バルコニーに立つ王は、それに朗々と応える。

「そなたらにアメンラー神から栄誉と武運が賜るように。余もいずれ後からそなたらに合流する、それまで余の領土を守れ!」

 王の表情は何時になく高揚感が漲っており、赤と白の二重冠を抱き、黄金の王衣を纏った姿は神々しいまでに綺羅びやかで、堂々とした立ち居振る舞いと力の籠もった声は、王者らしい覇気に満ちている。
 思いがけない激励の言葉に兵士はどよめきをあげたが、王の傍らに立った宰相のほうが慌てたのをネフェルキヤ王女は見逃さなかった。
 14歳になった王女は、先月ようやく成人式を挙げ王家の公式行事への列席を許されたばかりである。本来、大王家の王女の成人式ともなれば大々的に国中に布告して祝われる慶事であるが、現在の内戦で混乱している状況を考えた王女の姉、ネフェルウルティティス王妃は王都と領地内に限りその日を公休日とする旨の布告を発しただけで、祝いの儀式は《ナルカ王家》の内々で済ませてしまったのだった。
 堅苦しい神官に取り囲まれて、息が出来ないほど飾り立てられ長い時間を過ごすことを殊更嫌う王女に異論があろうはずが無く、それどころか姉王妃のそうした裁可を喜んでいるほどであった。
 しかし、当の王女もこうして公式行事の末席に連なるようになると、いやでも目につかざるをえないのが、宰相ヌート一派の勢力の盛んなこと、義兄のジェドカラー王の奇矯な振る舞いの数々、そしてそれを黙って静観している姉の姿の不思議さなのである。
 今も、そのうち王自身が出馬するかのように取れる発言をしたことで、宰相の自信満々の顔はみるみる険悪になり、うろたえる大臣達の視線が飛び交い、そして王自身はそれを無視するように傲然と踵を返して屋内へ引っ込んでしまった。その夫の姿を、姉王妃が傍らでじっと見詰めているのも、王女は確かに見たのである。そして、王妃はというと、いつもどおり気品の溢れる典雅な微笑を浮かべた彼女は、眼下の兵士に手を差し伸べて祝福を与えると、ゆっくりと王の後を追って室内に入っていくのだった。
 唇を噛んで姉の後に続いた王女は、またしても混乱した王宮の内情を見ることになった。

  「陛下がご出馬なさるなぞ、とんでもないことですぞ!」

 ヌートの良く響く太い声が、謁見の間に響く。宰相は手にした金製の宰相杖で床を叩かんばかりにして、王に詰め寄っていた。だが、玉座に腰を降ろしたジェドカラー王はといえば、二重冠を司祭に外させながら、宰相の方を見ようともしない。

「陛下!」

「そう大声を出さずとも聞こえておるわ、宰相」

「では伺いますが、先ほどのお言葉はご本心でしょうか?」

 それを聞くなり、王は切れ長の眼をすっと細め、右手に持った王笏でピシリと膝を撃った。

「余はケメトの王だ。その余が一旦口にした言葉を撤回せよとそちは言うのか?」

 王の声は平静であったが、みるみる宰相の顔を強張らせ、背後に控える廷臣たちに困惑のざわめきを広げていった。今まで宰相の提案には殆ど反対したことのなかった王の意外な抵抗である。
 宰相は威儀を正して、手を替え品を替えて王の翻意を促そうとしたが、玉座に深く腰掛けたまま宰相を睨み返す王には全く通じていないようであった。
 それを遠くから見守るネフェルキヤ王女の視線は、さらに用心深く臥せられていったのだった。王女は自分にしかわからぬほど、微妙に姉の表情が変わったのがわかったのである。

(あれは―――わたしと『セネト』をなさるときの眼だわ。わたしが上手く姉上の誘いかけた罠に入り込んだときの…あの眼)

 だがそれが何を意味するのか推測できたのは、妹である自分だけのように思われた。



 そして同夜。

 ネフェルウルティティス王妃の寝室を妹姫が訪なった。
 機嫌よく飲み物を勧める姉の手を跳ね除けるようにして、気短な王女は前置きもなくいきなり切り出したのだった。

「今日はどうして陛下の御親征に反対なされたのです!今こそ、あの方がファラオであることを示すことができる絶好の機会でしたのに?姉上はこのまま陛下が、王都に篭もりきりで、敵の前にも出てゆけぬ腰抜けと笑われ、ファラオとしての名誉を失っても構わないとお思いなのですか!」

 一応周囲に気をつかったのか、王女の声は高くは無かったが、逆にそれが彼女の内に押し殺した激情を際立たせていたのだった。
 だが、くつろいだ白い部屋着のままでも威厳のある王妃は、にっこりと笑って

「無駄な戦は止め、名誉が失われぬようにすることも王には必要でしょう?」

「かといって、陛下は避けてばかりでいらしたではありませんか。今こそ軍を率いて反逆者を伐ち、王家の威信を示すべきですわ!でないとファラオの権威はこのまま沈んでゆき、王国は本当にバラバラになってしまいます!」

 王女は烈しい気性のままに頭を振るや、姉の前にすっくと立ち、畳み掛けるように言った。

「だいたい、姉上はヌートがお嫌いのくせに、どうして今日ばかりはあの者を後押しするような事を仰るのです?おかげで、またあの男が我を通し意気揚揚と帰っていったではありませんか!」

 しかし、王妃はそれには応えず、手許にあった『蛇(メヘン)遊び』の丸い遊戯盤をくるくると回しながら、妹の顔を見上げて口を開いた。

「ヌート宰相が神殿の軍を割いてまで、叛乱軍を討伐したいというなら、わたくしが反対せねばならぬ理由があるかしら?」

「それでも反対なさるべきでした!」

「無駄よ。宰相は陛下を王都から出したくないのです。陛下を引き止めるためなら、どんな手段も厭わぬでしょうよ」

 王妃はそういいながら視線を落とすと、遊戯盤の上に彫られたとぐろを巻く蛇の鱗に駒を並べはじめた。
 彼女の的確な指使いで、白い蛇の背の鱗は瞬く間に黒色に変わる。そして己の尾を呑む蛇は、永遠の時を繰り返す渦となるのだ…。
 蛇の目が灯火の下で赤く煌くのを目にしたとき、王女のなかで何かが爆発した。
 つかつかと小卓子(テーブル)の前に歩み寄ると、姉の手許から遊戯盤をもぎ取り、窓から外へ放り投げてしまったのだった。白大理石に蛇の模様を象った細工のゲーム盤は、黒瑪瑙の駒とともに放物線を描いて夜の闇に消えていった。それらはごく軽いものであり、窓の下にはパピルスの繁みがあるため何の音もしなかったが。

「…キヤ…無作法が過ぎるのではない?」

 さすがの王妃も優美な眉を顰め、咎める視線を送る。だが、王女は窓辺でくるりと振り返ると

「姉上がどんな企みごとをなさろうと、わたしは姉上に幻滅したりしません。それほど子供ではないつもりですから!だから、お願いです。わたしの言葉を聞いて下さいませんか」

 王妃は妹を見つめたまま殊更にゆっくりと瞬きをすると、いつも通りの柔かな調子で

「いつでもお前の言う言葉には耳を傾けていますよ。誰が裏切ろうと、お前だけは信じているわ」

「わたしもこの世で姉上だけは信じています。姉上は今日、罠の成果をご覧になったのですね?だから宰相に反対なさらなかった…」

「……どうしてそう思うの?」

「わたしは姉上のように、自在に人を動かすことはできませんけど、姉上のお気持ちの動きくらいはわかるつもりですから。姉上は陛下の名誉を損なってでも、どうしても宰相に軍を出させたかったのでしょう?」

「……そう思いたいならそう思いなさい。答えることはしないし、聞かぬほうがお前の為です」

 その途端、王女の勝気な眉がきりりとあがり

「わたしの為?知らぬほうがわたしの幸せと仰るの?その論法で、陛下の願いも封じ込んでしまわれるのですね!いえ、わたしのことは構いません。わたしは姉上の庇護の元にある身。ですが、陛下は?この黒土の国の王ともあろう方――大王家の長ともあろうお方が、一軍を指揮したいという当たり前の願いも叶わないなんて。陛下は戦場に行かれるべきです。兵士とともにこの国の行き着く先をご覧になるべきなんだわ!いままで、それが恐くて神殿に篭もりっきりだった陛下が、やっと外へ出て王らしきことを始めようと仰るのに、妃である姉上がそれを妨害してどうなさるの?姉上も先の内乱で戦場に出られたのだから、陛下のお気持ちも、それが今の状況に必要なことくらい十分ご承知でしょう?せめて姉上くらいはお味方して差上げねば、ファラオがおかわいそうよ」

 今や姉と殆ど背が変わらぬほどまで身長が伸びた王女は、真直ぐに目の前の姉王妃の顔を見詰めてそう抗議するのだ。王女の目は爛々と光り、だが顔色は真っ青である。
 そして、彼女に対峙せざるを得なくなった王妃のほうも、妹に負けず劣らず唇まで青ざめていた。

「仮にもファラオである方に対して、その物言いはなに?陛下のお心の裡を忖度(そんたく)するなど不敬の極みですよ。第一、お前から妻の心得をお説教される覚えはありません!それ以上言うなら、いくらお前でも赦しませんよ!」

「そんなつもりでは…でも、姉上だってそんなにお怒りになるのなら、御自分のなさってることが陛下を苦しめる結果になると判っていらっしゃるのでしょう?どうしてそんな酷いことがお出来になるんです?」

 絶句した姉の顔に心がちくりと痛んだ王女であったが、ここまで来たからには一気に言わずには居られない性分の彼女は、ままよとばかりに続けた。

「陛下は昔からいろいろと口喧しく、格式ばったことがお好きでいらしたけれど、決して話のわからぬお方ではありませんでした。なのに、今日の陛下にはわたしも混乱させられてしまいました。一体何をなさりたいのか、親征なさる気がおありなのか、そうでないのか全くわかりませんでしたもの。あの後あまりにあっさり御翻意なさるので、自分の耳が信じられなかったほどです」

「お黙り!!」

「いいえ、黙りません!陛下はすっかり変わってしまわれました。王妃である姉上を平気で蔑ろになさるばかりか、側室たちをあの場に列席させるとは、呆れ果てた御振る舞いです。でも、陛下があのように卑しい女たちを傍に置かれるのも、姉上がお話し相手にならないからよ。姉上は平気でいらっしゃるの?陛下が他の卑しい女をご寵愛になっていることを我慢できるなんて、わたしには判りません」

「キヤ、いい加減におしというのが判らないの?」

「聞いて下さい、姉上。今のなさりようは姉上らしくありません!!どうぞお考え直しを。陛下の真のお味方は姉上だけ…」

 王女は突然頬が熱くなり、驚いて口を閉ざした。何が起こったのか、一瞬理解できなかったのだ。
 足元には、弾け飛んだ碧石の髪飾りの欠片。
 そして頬と唇にはひりつく痛み。口の中には塩辛い味が。
 王妃が手を振り下ろしたままの姿勢で、凍りついたように妹を見つめていた。
 どんな酷い我侭を言った時も、叱りはしても怒鳴ったりせず、まして一度も手を上げたことなどなかった王妃が、初めて自分を叩いたことに気付いて、キヤ王女は信じられぬといった表情で姉を見返した。その王妃はといえば、自分のしたことに驚いたのか呆然と立ち尽くしている。そして王妃は肩で息をするようにして、ようやく言葉を搾り出した。

「で…出ておゆき!!当分、お前の顔は見たくありません。公式の行事にも、後宮の勤めにも出なくて宜しい。わたくしが赦すまで、お前の宮殿で謹慎していなさい!」

 口許を手で覆いながら、顔を背けた王妃は扉を指差した。

「あ…姉上…わたしはただ…」

「退れと申したに、聞こえませぬか!!」

 差し伸べた手をばっさりと切り捨てるような、一際強い口調だった。キヤ王女は頬を押さえたまま唇を噛むと、だっと身を翻して外へ飛び出していったのだった。一方の王妃はがっくりと膝をつき、壁に身をもたせかけてうなだれてしまった。威厳に満ちていたその背は小さく縮こまり、乱れた黒髪が灯火に乱反射している――影は小さく震えていた。



 そうして月が随分と西に傾いた頃のこと。

「あなた様でも、図星を指されて逆上なさることがおありでしたか」

 灯火を消してしまった王妃の書斎の闇のなか、乾いた声がした。

「お前を呼んだ覚えはありませんよ」

 椅子に顔を埋めるようにして床に座り込んでいた王妃は、顔を上げることなく不機嫌そうに返事をした。だがその声は涙で湿っているようにアンクエレには聞こえたのだった。しかし今は、それには頓着する時間がない。アンクエレは相変わらず闇に沈んだまま、壁際の秘密の仕切り戸越しに報告を続けた。

「お許しを…火急の事態が出来(しゅったい)いたしましたので、ご報告にあがりました 」

 だが、それを聞いても王妃は尚も顔を上げようとはしなかった。

「何です?」

「ヒクプタハの北宰相パ―セルが、どうやらワァルト配下の将軍に殺害されたようでございます」

「…いつ?」

「一昨日のことらしゅうこざいます」

「ではこれでヒクプタハ一帯は完璧にワァルトの勢力下に入ったということね…まずは予定通り。…では、セケルの祭司長に依頼しておいた件はどうなりました?」

「未だ交渉中とのことでございます」

 それを聞くなり、王妃は顔を上げた。やっと王妃の声がいつもの調子に戻り

「拘束されてから、かれこれもう30日にはなるでしょうに、やはり剛情な男だこと……だがパーセルが殺されたとなれば、出来るだけ早くあの者を城外に出さねばならぬ」

「先方ではそれも任せて欲しいと申しておりましたが」

 アンクエレの声には揺るぎなく、だがどこまでも慎重。ケメト特有の暑い夜の空気も、この場だけはひやりとした空気に変わるかと思われた。

「……よろしい。それならば、後はセケルの祭司長に任せましょう。それより西メフゥの彼の軍は持ちこたえていて?」

「は、さすがはあの将軍仕込みと申しましょうか、副官の州軍長と旗下の隊長連が諸侯の軍をまとめ、なんとかサイスとブト周辺は維持しております。ですがそれも時間の問題かと。あの方の不在は殊のほか響いておりますようで…特にチェヘヌ(リビア)人には」

「イメンテト侯はチェヘヌ人にそれほど人望があったのですか?」

「人望…というより、シーワオアシスあたりの諸部族の揉め事に介入して貸しをつくるのがお上手であったようですな。ケメトの王は嫌いだが、侯の頼みならひと肌脱がねばという輩が多いそうで」

「では、その効き目があるうちに最後の仕上げを急ぐとしましょうか」

「御意」

 そういって退出しようと腰を浮かしかけたアンクエレに、思いがけない問いが飛んだ。

「お前も…わたくしがしていることは陛下を追い詰めるだけだと思う?」

 王妃の声は夜風に消えるかと思われるほと微かで、微妙に震えていたように聞こえた。
 アンクエレはまた跪くと、神妙な声で女主人に答えるのだった。

「王妃様…キヤ様の仰ったことはお気になさいますな。姫様は…いつも一生懸命でいらっしゃるだけで、決して悪気がおありでは…ただ…先ほどのあれに関しては、少々率直すぎましたかな」

「率直なあの娘はいつだって一番残酷なのよ。だって…それは本当のことなのだもの」

「…だからこそ、皆があの方を愛するのでございましょうね。素直にご自分が正しいと信じたことを信じていらっしゃる。真っ直ぐで勁(つよ)いお方ゆえ、見ていて安心できます。人の上に立つものとしては、まずは佳きご気性と申すべきでございましょう。わたしがお育て申し上げたにもかかわらず、幸いにもひねたところがおありでない」

 アンクエレの声色には、そこはとない自嘲の響きが感じられた。

「それに、わたくしにも似ず…ね」

 疲れたような調子で王妃が呟いた途端、ざっと仕切り戸が引き上げられ、王妃の前に今宵初めて露になったアンクエレの顔は厳しく引き締まり、彼もまたなぜか不機嫌そうであった。

「この期に及んで後悔なさいますか、あなた様らしゅうないですな!もう《セネト》の駒は振られてしまいましたぞ。責めは…」

「ええそうよ!責めは全てわたくしが負うと言ったわ。たった一人の妹に、人でなしと罵られようと、愛する方とわたくし自身の名誉を地に堕とそうと!」

 王妃はアンクエレを振り仰ぐなり叩きつけるように言った。彼女の切れ長の目が、闇の底で一瞬光ったように見えた。

「わかっています。わたくしの他に出来る者がおらぬのだもの。ならば、わたくしがやるしかないでしょう?それを嫌だと思ったことなどないわよ」

 それでもなお、もの問いたげなアンクエレの視線をきっと睨み返した王妃は

「心配おしでない。誰の信頼を失っても、人でなしと罵られても、わたくしは今度のことをやり遂げます。さもなければ、すべてが無になってしまうではないか」

 それは若干20歳のうら若い女性に似つかわしい言葉ではない――と、アンクエレは思ったが、この王妃だけはそれを吐く覚悟も、資格らしきものあるのかもしれないという気もする。

 父親を5歳で、次いで母親を僅か9歳で失い、幼くして勢力を失いつつある大王家の重鎮に据えられてしまったこの女性は、きわめて自制心が強く、感情に溺れることを非常に嫌う性格である。であるから一見水のように穏やかな気性と思われがちなのだが、底に秘めた激情はまさしく烈火そのものであった。王妃の二面性は、大王家の血筋に共通する激烈な性格の親族のなかにあって、際立った個性を放つものだったが、すべては幼時に自分から両親を取り上げた両王家の内紛を見て育ったせいでもある。
 王妃の父、メリイルディス王子は、同母弟のメリサトラー王子と王位を争い、大王家内の大半の勢力を味方につけ、弟を暗殺ともいえる方法で葬った途端、奇病を得て夭折してしまった。威風堂々として未来を嘱望されていた父が、みるみるうちに病み衰えて死んでいく様を幼い彼女は間近に見たのである。悪霊となったメリサトラー王子の仕業と怯える女たちの哭き声に取り巻かれながら、幼い王女は育った。優しい母親はまもなく同じ《ナルカ王家》の傍流の王子と再婚し、王女には異父妹にあたるネフェルキヤ王女を産んだ。しかし、一家の希望であった長子のシェマイトラー王子が何者かに暗殺されるという悲劇が重なったことで、幽鬼のように王宮内を彷徨いはじめ、娘たちの顔の見分けもつかぬほど憔悴した挙句亡くなってしまったのである。

「そうよ…ここで挫けてはならない。わたくしが真実《イシスの娘》であるのなら、陛下のケメトを安んずる義務があります。そのためなら…そのために誰に憎まれようと本望ではないか…」

 王妃の述懐を黙って聴いていたアンクエレだったが、血の気の引いた女主人の痛々しい顔を見て思うところがあったのか、表面上は無表情に問いかけていた。

「姫様は何かを焦っておられますね」

 思いもしなかったことを言われた王妃は一瞬言葉を失った。
 アンクエレは構わず続ける。

「誤解なさいませぬよう。今になって姫様の企みに異議を唱えようとは思っておりませぬ。ただ…もうすこしじっくり腰を据えて時をかけた上で、同じ結果を出すこともできましょうと申し上げたいのです。最近の姫様は特に性急であられるようにお見受けします。わたしは、ただそのお心の裡を伺いたいのです」

「前にも言ったわ。わたくしはよりましな毒を選んだだけ。それが即効性のものゆえに、急ぐ必要があるのですよ」

「かといって、あまりに激烈な効き目は、病んだ本体の息の根を止めることになりまねませんぞ。姫様も陛下もまだお若く、時間はおありなのですから、今すぐ全ての病の根を絶たんとなされずとも…」

「いいえ、今だからこそやらねばならないのよ。王家に未来がない今だからこそ」

 ぽろりと零れた己の一言に、王妃ははっという顔になり、それにもましてアンクエレの顔に動揺が走る。

「未来がないですと?それは…もしや先ごろカイト女官長が後宮から去ったことと何か関係がございますのか?」

 そう追求されて、王妃は悲しげにうっすらと笑い、アンクエレのほうに視線を上げた。

  「そうね、お前には隠していても全てお見通しね。だから今ここでお前に告白しましょうか」

 王妃は深々と溜息をつくと、またもやアンクエレから顔を背けて、ぽつりぽつりと語り始めた。彼の位置からは、王妃の上半身は影となり、膝の上できつく組み合わされた両の手しか目にすることはできない。
 金の台座を象った華奢な指輪が僅かに震え、それに共鳴するような震える声がアンクエレの耳を打つ。

「キヤの言ったことは正しいわ。いくらもっともらしい事を言ってみても、わたくしは陛下のお悩みも、お怒りの一部もわけていただけない妻なのよ。それなのに、そのわたくしが陛下の御為を唱えるなんて馬鹿げてるわ」

「姫様…」

「お願いだから、今だけは黙って聞いて」

 きっと顔を上げた王妃は、口を挟みかけたアンクエレをその一言と目線で黙らせ、また続けた。

「わたくしも努力はしたわ。あらゆるものを試してみたの。でも、祈祷師の呪文も、呪い婆の媚薬も、陛下のお心をわたくしに向けるには役に立たなかったわ…占師は、わたくしはこの先もおそらくは陛下の和子を産めぬだろうと告げました…わたくしは本来、陛下には用なき者なのよ。御世継ぎを生んで差し上げられない王妃ですから。ひょっとして、陛下を欺いて、マアト女神の御業を歪めているのはわたくしなのかもしれない。だからこの国は乱れているのかもしれない。どうしたらいいのか、わたくしにはわからなくなってきたわ…それどころか、ふと、わたくしさえ陛下のお側から身を退けばよいのではないかと思う時もあるの」

 ついに彼女は口元を震わせてそう叫び、すとんと床に腰を落としてはらはらと泣きはじめた。
 アンクエレは黙って王妃の傍へ膝行し、俯いた王妃の前にひっそりと座った。

「いいえ、それは違います」

 声を立てぬまま落涙する王妃にそう声をかけて、しばし押し黙る。
 尚も泣き止まない王妃を見守りながら、彼は優しいとも思える声音で囁いた。

「人を欺くことはマアトを減少させはしますが、本来マアトというものは少なすぎもせず溢れさせもせず、ほどよく満たされることにその本質があるのです。だとすれば姫様は、ケメトを守りたいという御自分の心は欺いておられぬ。ならば、それはマアト女神を欺く所業とは申せますまい。そうではありませぬか?それに、姫様はわたしの御主、《ナルカ王家》を率いる《王》なのですよ。大王家の子孫を産まねばならぬ、今までの王妃とはお立場が違います。身を退いて済む話ではございませぬ」

 アンクエレは敢えて月並みな慰めは言わなかった。生来そういう男なのである。

 だが、王妃の告白は、彼の底の醒めた部分を確実に揺り動かし始めていた。
 彼は今やっと、王の乱倫にも、宰相の専横増長にも涼しい表情を崩さなかった朗らかな王妃が、この血腥く陰惨な陰謀に乗り出した真の理由を理解したのだ。
 王妃は世継ぎの子が産めぬことを内心深く悩んでいたのに違いなかった。腹心のアンクエレには自分が王の世継ぎを産めぬなら、側室腹の庶子か別の王家の係累を立ててもよいとは言いはしたものの、内心ではそれほどまで愛する王の子を産みたいと願っていらっしゃったのかと、今更ながらアンクエレは王妃の女らしい苦悩を思い知るのだ。しかし、王妃の必死の祈りはむなしく、夫である王は彼女の許を訪れもしないと聞く。
 随分と歳が離れているとはいえ、乳兄弟でもあるアンクエレの前であるせいか、とうとう王妃は苦しい胸のうちを吐露せずにはいられなくなったらしい。

「違うわ、わたくしが何者か以前の問題よ。どんなに疎まれてもそれでもお側にいたい…と思ってしまうわたくしの醜い執着の話をしているの。ずっと陛下を慕って育ってきたわたくしですもの、あの方のいらっしゃらない生なんて考えられないわ。でも陛下の御傍に行こうとすると、したり顔の女達を見なければならぬのが嫌!あのような下卑た女たちに陛下が触れるのだと思うと、その辺り中みんなめちゃめちゃにしてやりたいわ!もし誰かが陛下の和子を産むことがあっても、その子に二重冠は与えません。だってわたくしが、どうしても我慢できないのだもの…。王位も、王国も、何の負債も引き受けてこなかったすまし顔の王族などには渡しません!」

「姫様…」

 珍しく感情的な王妃の言に気おされたのか、口篭るアンクエレに対し、王妃は引きつった泣き笑いのような顔で言う。

「だからわたくしにいくらかでも力が残されているうちに、道をつけておきたいの。陛下はわたくしの考えがお分かりだから、遠ざかっておしまいになったのかもと考えると気が狂いそうよ。ああ、わたくしは何て浅ましいのでしょう、卑しい嫉妬だけはするまいと思っていたのに、負けてしまいそうになるわ。そしてこの醜い嫉妬が、いつかあの方を傷つけてしまうに違いない…」

 震える声でそういうと、王妃はまた両手で顔を覆って激しく泣き出してしまった。見たことのない王妃の姿にと胸を突かれたアンクエレは、いま一歩近寄ると、王妃に向って

「ティティス様、誰かを愛すればそうやって浅ましく、また醜くもなるものです。そうならぬものは最早人ではなく、また、そうでなければ愛したとは言わぬもの。わたしでも覚えがありますよ…。それに、あまり思い詰められらると、物事の本質を見失います」

 いつになく男の悲しげな呟きに、王妃ははっと泣き濡れた顔を上げた。

「そうだった……赦して…わたくしがお前にそんなことを言う資格はないわね…」

 だがアンクエレはいつものように、淡々とした表情で視線を返す。

「お気になさるに及びませぬ。とうの昔の事、済んでしまった事ですから。それに、あなた様に見出していただいたあの時から、この身は生涯ティティス様とキヤ様の一守役と決めております」

「お…アンクエレ…お前…」

「何も申されますな。わたしはこれまでどおり、姫様のご指示通りに事を進めます。先に申し上げた事はお忘れください。では、これより例の通信文を出しますが、宜しゅうございますね?」

 アンクエレはごく事務的な口調でそう言い、王妃の顔を覗き込んだ。それがかえって王妃の動揺を鎮めたのか

「ええ。頼みます」

 そう言って彼を見上げた王妃も、もう先ほどの怜悧な彼女である。

「畏まりました」

 そういって頭を垂れた拍子に、アンクエレは王妃の顔に隠し戸の隙間から月光が差し込んだのを見た。白い輝きを放つ一本の筋は、王妃の首元を横断するかのように反射して、咽に下げた金の飾りを冷たく輝かせる。

(傍目にどのように頼りなく見えようと、この方こそがファラオの剣なのだ。若干20歳のこの王妃の、この国と夫であるファラオを守り抜いてみせるという気概こそが。だから、王妃様はどこまでも非情になりきれるのかもしれない。時に無慈悲にして自己中心的とも思えるこの方の言動の全ては、己の目指す道の正しさを確信しておられるからこそ)

(だが、それならこれから先はあまりにも辛い道行となるだろう――戦はすぐそこに迫っている)

(それに、王妃様がわが子を産むことを諦めねばならぬとしても、まだ次代の王の誕生に望みがないとはいえない。宮中で根強く囁かれるネフェルキヤ第2王妃待望論は、その証左……)

(だが、これだけは王妃様はお譲りにならないだろう。大王家の歴史では姉妹同士で同じ夫を持った王族など珍しくもないが、この方はそのような結びつきを心底厭うていらっしゃるのだから。このまま王族出の妃腹の和子誕生の可能性が消え、更には、庶子さえもおらぬとなると…まさに王家には未来が無いということになる)


(そしてわたしはその先に何を見たいのだろうか?)

 かつて同じ事を自分に言った者がいたことを、アンクエレは不意に思い出した。

―――大王家は滅びる。それはナァ・イルゥの流れの如き自然の理だ。貴殿にはそれが見えると思ったが、わたしの買い被りだったのか?

 一瞬、あの倣岸無礼な男の声が頭を掠めた。アンクエレはそれを強引に意識の底に沈め

「では、わたしはここで失礼いたします。姫様、今宵はもうお寝みなされませ。あまり月の光に当たられては、トトの神が悪戯な夢を見せると申しますぞ」

「そうしましょう。わたくし、月は嫌いよ。あれは冴え冴えと美しいけれど…隠しておきたい心を覗き込む無礼者だから」

 そう言って、王妃はゆらりと立ち上がると、力ない足取りで扉の向うに消えていった。



 その夜の不吉な月光は、密かに抜け道を通って河へ出て行くアンクエレの心もまた、ざわざわと波立たせてやまないのだ。

 ふいに彼の視界がひらけ、高台にある王宮から川向こうの様子が見下ろせた。対岸に、皓々と照らされた至高神アメン・ラーの御座所、カルナク大神殿の城壁が横たわっている。壮麗な塔門の両脇には、天を貫かんばかりの二基のオベリスクが月に輝いて聳え立ち、その威容はあたかも二振りの剣――瑠璃なす天穹のヌゥトの胸に突きつけられた白刃さながら。

 王妃様があくまで妥協を拒まれるもやむをえぬが、やはりどこかで無理をしておられる。しかし、心のままに生きることなど、この乱世においては許されないのだ。破滅を望むならともかく。
 ならば、あの方の畢生の賭けを無駄に終わらせぬためには、あれ、あのように、もう一振りの剣が必要だ。   
 それはどこにあるのだろう…わたしの力では見出せないのか…?

 いや、是非にも見つけ出さねばならない。命に代えても。

   アンクエレの美鬚に縁取られた口許が、僅かに歪む。
 トトもまたラーに先立つ古き神にして、夜の守護者。あまたの人びとの秘めた嘆きを聞くという…――。  





14章へ続く