16章  緑の石を探して


まことにエレファンティネもティニスもシェマウ(上エジプト)に所属している。だが内戦のゆえに租税を納めない。そのため穀物、炭、イルティウの実、マアウ材、ヌート材、芝が欠乏している。工人の仕事と職人の手業は王宮の収入である。だが、収入のない宝庫がいったい何の役に立つ?なるほど、ファラオの心に真実さえやってくるなら幸福であろう。だが本当は、全ての蛮族がやってきていうのだ「あれは我らのもの。我らのために定められたもの」と。これに対して我々に何ができよう?全ては破滅だ…
《イプエルの教訓》より


ネフェルキヤ王女はそこで言葉を区切った。
ふうと軽く溜息をついて視線をあげたが、相変わらずあたりはしんと静まり返っていた。王女自身が、読書の最中はだれも近寄らぬように厳命しておいたからである。川岸から聞こえてくるはずの人声も、今日は随分と遠く感じられた。
自ら宮殿に篭もり、書物を紐解いたり、神妙に教師の話に耳を傾けたりする日を送り始めてほぼ一月が経過しようとしていた。姉王妃の逆鱗に触れ、謹慎を命じられたためでもあるが、何より王女自身が周囲の喧騒から切り離された時間を必要としていたからでもある。
実際、王女にはわからないことが多すぎたのだ。
勃発より2年経過しても鎮圧されないアアム・ワァルト侯率いる反乱軍。それらはこともあろうに、中エジプトあたりまで制圧してしまったという。これに対して、王都は無能としか思われない身分だけは高い将官に軍を預けて鎮圧に向かわせはするものの、長期的な戦略というものが欠けているため、所詮は場当たり的なものにすぎないのである。ギザに駐屯していた北面師団の大半が戦乱で失われた。それも、敵軍に逃亡したものが大半であるという。辛うじて上エジプトに留めておいた南面師団2万弱の王軍があるとはいえ、実勢としてそれほどの実力があるかは疑問だといわれて久しい。何しろ、これを率いる将官の質が著しく低下しているそうであるから。
そしてその混乱にさらに輪をかけるのが、軍の最高指揮官であるファラオ、現王ジェドカラーと宰相ヌートの微妙な駆引きである。
王は何度も自らが軍を率いて討伐に向うと表明したものの、必死にこれを阻止せんとする宰相の企みで悉く邪魔される結果に終わっていた。宰相は、自らの支配する大王葬祭神殿に付属する神殿兵士を裂いてでも王を都から出そうとしなかったのだ。そして、宰相の意を汲む神殿兵と王軍兵士との間の軋轢は、討伐軍を混乱させ、士気を著しく低下させる結果となったのである。
「姉上がそれに思い至らぬはずがない」
王女は何度も繰り返した自問自答を口に上らせた。だが、答えはひとつしか見つからない。
「この混乱をこそお望みなのだ。喩え王家の権威が地に落ちようと、夫であるファラオの名誉が失われようと…ご自身が無能な王妃と謗られようと…それでも姉上はこの状況が必要と思われるのだわ。だからこそ、いままでじっと沈黙していらっしゃる」
王女の勝気そうな眉が曇った。
姉とは違い感情を隠すことは滅多にしない彼女にとって、自らの名誉と誇りを傷つけられてまでせねばならぬことがあるというのが今ひとつ納得できないのである。姉王妃が何を目論んでいるのかは、彼女にとって想像外のことであったし、到底理解できないことであったのだ。ここまで大王家の名誉を傷つけてまでそれは意味があることなのかと思う。
それは、これまで一身同体のように姉に寄り添ってきた王女が、初めて自ら立ち止まって考えはじめた事柄でもあった。
《姫さまも乳離れの時季が来たってことですかね》
 馬番のヘブは、王女の鬱々とした様子を見てそう言った。4日に一度くらいの割合で、ヘブはセトの散歩コースをこっそり変更して王女の宮殿の中庭へ入り込んでくる。勿論それは、家令のアンクエレの差し金なのだが、書斎に篭もりっぱなしの王女のただ一つの慰めとなっていた。
《セトもそうなの?》
 見事な若駒に成長したセトの滑らかな毛並みを撫でつつそう聞き返した王女に、ヘブはニヤリと笑って、セトはもう彼女の兄といってもいいくらいの年だなのだと告げた。
岩のように厳ついご面相のヘブは馬のことしか語らない。王宮の噂話も、ケメトの国中で何が起こっているかも、馬の持ち主であるファラオのことすら興味がないらしい。いつも黙々と厩舎で馬たちの世話をしているこの口数の少ない男は、王女が打ち明け話をする数少ない人間の一人でもある。
その彼は、お気にいりのセトの背に跨っても黙り込んだままの王女に、
《馬の性根ですら少々のことでは矯められねぇものなんですよ。どんなに大人しくなるように躾ても、気性の激しい馬は底のところでは変わることがねえ。まして人間ならね、どんなに変わってしまったように見えても、皮を剥いでいけばそのままの気性が眠っているもんだ…と俺は思いまさあ》
《じゃあ…姉上も…ううん…ひょっとしたら、ファラオもそうなのかしら?》
《そうでも何の不思議もねえと思いますがね》
 ヘブのその一言は王女の胸に深く刻まれた。
 人は見かけ通りではないと思うものの、進んでそう装うものは一体どんな心境なのだろうか。姉のあの激怒した蒼白な顔は、普段の彼女からは想像もつかない烈しいものだった。同様に、いつも陰気でそれでいて激烈なところのある義理の兄も、元々は朗らかで溌剌とした青年であった。あれらが彼らの本性だとして、そこから変わらざるを得ないのなら、彼らを駆り立てるものは何なのだろう…?
 突然、奥の扉が烈しく打ち叩かれる音がして、王女ははっと物思いから醒めた。
「誰?邪魔をするなといっておいたはずよ」
 不機嫌そうな主の声にもその音は止まず、王女は眉をひそめると席を立って扉を空けに行った。
「何の騒ぎなの?」
 扉を開けるなりそう言った王女は、そのままぽかんと目の前の人物に見惚れる。
 金・藍青・碧緑に玉髄の赤。
 絢爛豪華な光の洪水に圧倒されそうだった。彼女の胸には5連の首飾りが煌めき、薄青いぴったりとしたドレス。腰には金のサッシュを締め、肩からは長々と鬱金と藍で染めたマントを引く。そして、いつもは腰まで解き放った黒髪を筒型の冠のなかに全て納め、類い稀な美貌をくっきりと際立たせていた。孔雀石で縁取った切れ長の目がキラリと光って王女を見返した。
「あ…テティス姉上?これは何事です?」
 ようやく驚きから醒めた王女の一言に、ネフェルウルテティス王妃の優美な細い眉がくいと上がった。
「いまから重要な会議が開かれます。そなたにも《ナルカ》王家の一員として出席してもらわねばならぬ。今直ぐ支度して、わたくしとともに来なさい」
 見れば姉王妃の背後には、衣装箱や化粧箱を捧げもつ侍女達が控えている。それに目をやりながら王女は困惑したように
「ですが…わたくしは謹慎の身…」
「今ここでそれを解きます。さあ、押し問答している時間はなのよ。直ぐ支度をしなさい!」
 そう王妃は一喝し、妹を押しのけるようにして室内に踏み込んできた。呆気にとられたままの王女を侍女が取り囲み、あっという間に控え室のほうへ先導していく。王女はあれよあれよというまに、広間に立たされ部屋着を剥ぎ取られ、美々しい衣装で飾り立ててられていくのだった。
「さあ、それでいいわ。ちょっとこちらを向いてご覧」
 満足そうな王妃がそう声をかけたときにも、王女の顔からは困惑の色が消えていなかった。姉王妃と同じく緋と黄金の衣装を纏い、4匹のガゼルの頭部が載った金冠を締めて立っているというのに、王女はどことなく心細げな子どものようだった。
「そんな情けない顔をおしでない!しゃんと顎を上げなさい。あら…もう少し、紅を差したほうが良いわね…きりっと見えるように角を濃く描いておやり」
 王妃の指図に従って、背後に控えていた侍女が素早く立ち上がって王女に化粧を施した。それにもされるままで、王女は姉のいつにない勝気な表情をじっと見つめている。
 化粧直しが終わると、王妃はすっくと立ち上がって妹の頭の先からつま先迄じっくりと点検し、手を打ち合わせるとおもむろに満足げな微笑を浮かべた。
「さあ、それでよい。これなら何処に出しても恥かしくはないし、立派に王族として通るわね。では、行きましょうか」
「お…御待ちください…あ……会議といっても何の?」
 背を向けかけた王妃は、ゆっくりと振り返り、困惑しきった妹の綺麗に化粧をされた顔をしげしげと眺めた。その視線はどこか出来の悪い弟子を見る教師のようで、王女は内心どきりとした。久しぶりに顔を見せてくれた姉にまた突き放される――その不安は王女の足を竦ませる。
 だが、一瞬のちに王妃の怜悧な眼差しはふっと和らいだ。
「それはわたくしと一緒に来ればわかるわ。お前はわたくしがすることが判らぬといったわね?それは見せなかったから判らぬのです。今からそれをお前に見せましょう。お前にそれを隠しておくことは良くない事だし、事の是非はお前の頭で判断なさいな」
 そういって、王妃はすっと手を差し伸べてきた。
「過日のわたくしのご無礼をお許しいただけますのでしょうか…」
 かすれ気味の声で王女は恐る恐るいいさし、王妃はにっこと笑うと妹の手をとるなりきゅっと握った。そうやって目の前にたつ妹姫の顔は、自分の視線から僅かに下にあるだけで、随分と背が伸びていることに改めて気付いた王妃は、ちらりと苦笑しながら言う。
「いいのよ。お前と喧嘩できるようになって嬉しかったわ。それにしても、わたくしがあやして育てた子が知らぬ間に随分大きくなったものねぇ」
 その言葉は、いつものように深く優しい響きをもっていた。そして今までに無かった親愛の色も。王女は思わず顔を伏せた。睫毛が湿るのを見られたくなかったので。
 それを知ってか知らずか、王妃は妹を抱き寄せるとこつんと額をつけて
「さあ、胸を張って堂々としていらっしゃい。ネフェルキヤ、これからお前はわたくしとともに戦場にいくのだから」
「戦場!?」
 不穏な言葉に思わず顔を上げてしまった王女は、そこに毅然とした別人のような姉の顔を見た。
「そうよ。刃を打ち合わせて血を流すのが男の戦なら、わたくしには別の戦場がある。今日はその日よ。お前もよく観ておきなさい。いつか、来る日べきお前の戦の日のためにね」
 王妃はいといも優雅な仕草で長いスカートの裾をさばくと、王女を促して扉のほうへ歩み出す。そして ネフェルキヤ王女も、深呼吸すると決然と顔をあげて姉のあとに続いたのだった。

 同じ頃、中部エジプトにの第3ノモスのレイヨウ州にある小さな農村で、戦乱の火の手が上がった。
 それを遠めに見遣りながら、桟橋に立つ老人はくるりと背後の孫を振り返った。
「いいかミヌーエ、ここからはお前がこの船の主だぞ。お前ももう9つだからこれくらいの差配はできなきゃならん。とにかく急いで川を渡って、イフナシヤまで下るんだ」
「はい、じじ様!」
 そう勢いよく応えたものの、少年の顔はさすがに緊張で引き攣っていた。無理もない、物心ついてからこの村から出たことはなく、初めての大旅行が命がけの逃避行となったのだから。それでも、父譲りで近年めきめきと背が伸びつつあるミヌーエ少年は、きっと口を引き結ぶと利口そうな眼で
「かならずチェヘヌ(リビア)にいる父上の軍に合流してみせます。だから、じじ様も早く来てね」
 孫には甘いイフナクテン老人は、僅かに目許を和ませると
「ああ、きっとお前達を迎えにいってやるからな、父上にトロトロしとるんじゃないと伝えておけよ」
 ミヌーエ少年は、がっちりとした祖父に抱きつくと
「絶対だよ!約束したからね、じじ様、ね?」
 孫の柔らかい巻き毛を撫でながら、イフナクテン老人は力強く頷き
「よしよし、約束する。心配するな、じい様はなこれでも昔は優秀な指揮官だったんじゃ、反乱軍の有象無象などに負けるもんかい」
「でも本当に気をつけてくださいね、お父様」
 息子と父親の別れを傍らでじっと見つめていたナフテラが、さすがに心配そうに声をかけた。普段は温和な彼女の顔も、悲痛に歪んでいる。ナフテラもまた旅装束に身を包み、きっちりと頭を覆ったフード姿だった。そんな娘の頬に右手を差し出すと、今にも湿りそうなそれを優しく叩き
「こりゃ、そんな湿っぽい顔をしていたらミヌーエが心配するじゃろうが。お前は旅は初めてじゃないんだから、万事まかせたぞ」
「ええ、そりゃ大丈夫ですけど…」
 そう言って、ナフテラは桟橋に繋がれた中型船に視線を走らせる。既に帆を張り、出発の準備は整いつつある。甲板にはとりあえず持ち出せるだけの家財道具と、腕の立つ護衛兼召使の男が数名いそいそと荷物の搬入に追われていた。葦で編んだ船室からは、奴隷女が水や食糧などこまごまとしたものの最終点検に余念がない。ナフテラがそれを監督しなければならないのであるが、父親が見送りに出てきたので一先ず船を下りたのだった。
「バハリーヤ・オアシスを目指すのなら、なにもイフナシヤまで下らなくたって、手前のサコで上陸してもいいんじゃないかしら?」
「いやそれはいかんぞ。あのあたりはかえって州軍の眼が届いていないから、安全は保障されとらんのだ。面倒でもイフナシヤまで下るんじゃ。この船は一応、メヘト侯の印章管理官の縁者の船ということになっとるから、いざとなったらそれを使え。だが、矢鱈と使うなよ。特に王軍崩れは気が立ってるからな。上陸後は、商人のイリホルを頼ってオアシスへ向う隊商に入れてもらえ」
「はいお父様。じゃあ、そうしますわ。メヘト侯のほうの首尾ははいかがですの?」
「なかなか難しいわい。メヘト侯も迷っておられる。大昔に、大宰相まで出した家柄の侯としては今更、成り上がりの州侯に頭を下げるなんざためらうものがおありなんじゃろう…だが、今度の反乱軍との戦、そして王軍崩れの盗賊の跋扈にはもう成すすべがない。結局、背に腹は替えられぬってことになるだろうな」
「お父様のお若い頃の経歴が思わぬところで役に立ちましたわね」
 苦笑いする娘に、老父は皺だらけの顔でニヤリと笑った。
「今度こそ父親を見直したか?」
 そして、二人の会話を真剣な顔で聞いている孫の顔に視線を戻すと、娘に良く似た涼しい目許を下げて
「お前たちの為に、ここを安全な地にしておいてやろう。だからな、母上を頼んだぞ」
「はいっ」
 もう一度ミヌーエは勢いよく頷くと、腰のベルトに挿した短剣をぎゅっと握った。それは一昨日祖父から譲られた大事な彼の剣。その姿に目を細めながらも、忽ち厳しい顔に戻ったイフナクテンは、綱をとる船頭に大声で合図を送った。
「もう時間がない。出ろ!中州でウエニ殿の船団を待って一緒に河を下るんだ」
 ナフテラは一瞬口許を歪ませたが、直ぐに、きりりと唇を噛んで息子を促した。
「さ、ミヌーエ、行きましょう」
「はい。母さま」
 ミヌーエ少年は、もう一度名残惜しそうに祖父を振り返り、じっと老人の顔を見つめたまま船員に助けられて甲板へ上った。ナフテラが最終点検を素早く終えると、船頭が後方の漕ぎ手に合図を送って一気にもやい綱を切り落とす。
 全長   キューピット(12mほど)の中型船は、忽ち背に風を受けて桟橋を遠ざかってゆく。
 少年は川岸側の船縁に走り寄ると、桟橋に佇んで見送る祖父に大声で呼びかけた。
「じじ様!帰ったら、また釣りへ連れて行ってね!」
 それに応えて、老人の太い腕が上がった。だが声は最早聞こえない距離である。
「聞こえたよね?」
 背後に立つ母親を振りかえって、小さく尋ねてみる。
「ええ聞こえたわ。ほら、また手を振ってる」
 母親の声が僅かに揺らいだように思えた。何となく母の手をとってぎゅっと握り、力いっぱい揺さぶってみる。
「大丈夫、僕がきっと父様のところへ連れてってあげる!それに、父様のところに行けば、アヌイの殿にも会えるんでしょ?僕を覚えていて下さるかなぁ」
「そうね…覚えていて下さるといいわね」
 ナフテラの声は今度こそ涙声になっていた。
 それでも、息子を抱き寄せると川岸に立つ小柄な父親の姿が見えなくなるまで、いつまでも手を振りつづけるのだった。
 8年近く馴染んだ故郷の村が遠ざかってゆく。
 これだけ離れると、あたりの荒廃の様がはっきりと判って、彼女は改めて身震いした。
 数ヶ月前、王軍の大部隊が河を下ったかと思うと、間もなく、下流のサッカラで大きな戦があったという噂が伝わってきた。王都が最後の兵力を投入した2万の兵と、今やアヴァリスとヒクプタハを拠点に下エジプトを制圧したアアム・ワァルト侯率いる反乱軍が2日にわたる決戦を繰り広げたのだ。戦況はワァルト軍の辛勝に終わり、総崩れとなった王軍はてんでに壊走した。その結果、ファイユームあたりは王軍崩れの盗賊が跋扈する状況となり、上そのあたり一体を支配する上エジプト21ノモス及び22ノモスの州軍および州侯が虐殺されるに至り、境を接する中部エジプト諸侯も事態を安閑と眺めるわけにはいかなくなったのである。
 頼りの王軍からの援軍は最早絶望的で、自軍で治安維持を図らねばならなくなったこれらの諸侯は、急遽自警団を組織しはじめた。
 そして、その流れはイフナクテン一家が暮らす上エジプト第16ノモス・羚羊(メヘト)州にも及び、先日メヘト侯は州軍を増強すべく志願兵を募集し始めたのである。
 いままで比較的長閑であったこの地も、時折、非道な盗賊団の襲撃を受けて一村が壊滅するという事態がおこっていた。つい先だっても、近隣の荘園がそのような仕打をうけて大量の被害者が出たばかりである。領民達は震え上がった。
 イフナクテン老人は、近隣の村長を集めて協議を開くと若者を組織して独自の自警団を作ることを提案し、州侯にも許可を得てその長となった。それと平行して、村の女子どもは余力のあるうちに、比較的静かな西へ避難させるべく少人数にわけて移動をさせることを決定したのである。
 というのも、今まで劣勢にたち、ワァルト軍に大緑海沿岸に追い詰められていると聞いていた西メフウの諸侯が、西から勢力を盛り返しつつあるとの報告を手にしたためであった。
 イフナクテン老人の娘婿にして、孫のミヌーエの父、ケネプはその軍の主将の一人である。そして、彼が仕えるイメンテト(西州)侯は一時失踪したと噂されたが、今は間違いなくリビア沙漠のオアシスに点在する族長を纏め上げ、そのオアシスの一つに陣を張って勢力奪還の機会を伺っているのであった。
 そのことが確かだと判ったのは、数ヶ月ぶりに、ケネプから義父のもとへ書簡が届いたからでもある。ケネプは現在の戦況を細かく記した後、妻と子のことを切々と舅に頼んでいた。
それを読むなり長々と考え込んだイフナクテン老人は、娘のナフテラに夫の許へ行くように命じたのである。ミヌーエの為にもそれがよいと言う父に、ナフテラは無精無精頷くしかなかった。どのみち、兵士として人手を徴集されては農園は維持できず、ここまで治安が悪化している現在、この村もいつまで安全かわからない。
 ナフテラは決断した。
 小作人たちに十分な手当てを分け与えた後、とりあえず、あとは父に託して息子と一緒に夫の許へいく旨を伝え送り、数日前に、ケネプからバハリーヤ・オアシスにいるとの手紙が来たのである。
 彼女は迷わず行くことにした。
《これから、ヒクプタハを奪回するための戦が始まる。多分、凄まじい戦いになるだろう。その前に、お前とミヌーエに会っておきたい》
 滅多に妻を不安がらせるようなことは言わない夫にしては、珍しく切羽詰まった文面だった。それを読んだことが、彼女の背を押したのである。
 シェムンの村を離れること、彼女の心血を注いだ農園を手放すことは身を斬られるように辛かった。父親とここで別れればももしかして、二度と逢えぬかもしれないという不安が彼女を震わせた。
 それでも…やはりケネプに逢いたい!ほぼ三年近く顔を見てない、息子の大きくなった姿を見せてやりたいのだ。そうして、彼の角張った顔が嬉しそうに輝くのが見たい。
「今いくわ…待っていてね…旦那さま」
 母親をじっと見上げているミヌーエに気がつき、ナフテラはくすんと鼻を啜って、にっこりと笑いかけた。
「さあ、もうすぐ中州へつくわ。今まで見たことがないくらい沢山の船がいるわよ。そのなかに混じったら、お父様の許へ行けるの」
 力強く言い聞かせるように彼女は語り、胸に下げたベス神の護符を無意識にぎゅっと握った。それは、昔、夫から送られたささやかな、だが思い出の品である。薄い緑のファイアンス製の首飾りは、幸福を運ぶものとしてケメトの国の女には人気があった。
 東の沙漠で採れる貴重な緑柱石(エメラルド)には手が届かない庶民は、こうしたものでせめてもの幸運を逃すまいとする。それもまた、人の想いを映す真実なのだ。


 そして、それから20日ほど過ぎたジェドカラー王の治年第5の年、シェムン(収穫季)の2の月9日。バハリーヤ・オアシスを出発した部隊は、一気に北上して西からヒクプタハの城壁に迫った。