14.アムドゥアトの門番

 居心地の悪い思いをするのはいつものことだ!そうだ――だから落ち着けってんだろ!

 イピは目の前で自分をじっと凝視している眼、ギラギラとした光を放つ、それでいて乾いた眼から視線を逸らさぬよう精一杯胸を張ってみる。
 だが、そんな彼の心中はお見通しといったようすの、冷ややか極まりない声が飛んだ。
「たいそうな自信で請け負ったわりには、とんだ不首尾よの」
「…申し訳ございません、メリトゥトゥ様。ですが、今しばらくご猶予を…あと少しで彼も条件を呑みましょう」
 イピが冷静さを装って返答する顔を薄目に見ながら、彼の直属の上司、セケルの祭司長メリトゥトゥは膝の上に組んでいた手をゆっくりと組替えた。わざとイピの不安を煽るような、極めてゆっくりとした動作で、しかも女のように長く美しい指に眼を奪われ、思わずイピの視線がそちらへ流れる。
 だが、すぐさまあたりの静寂を破る鋭い叱声に首を竦めたのだった。
 祭司長は、一向に進展の見えないイピの交渉能力を辛辣な口調で糾弾し、苛立ちを隠そうともしない。祭司長の辛辣な物言いはいつものことだが、いつもは一見茫洋とした雰囲気を漂わせている彼が苛立っているのは珍しいことだった。
「ワァルト侯はもう待てぬと言い出して2日も延ばしておるのだ。拷問にかけてうんと言わせるのは容易いが、それでは後に禍根を残すと説得し続け、ようよう期限を延ばすことに成功したというに…やはりこの手の交渉事はお前にはまだ無理か」
「いいえ!!」
「ではあの男に、愛人が死んだことを隠し立てするのは止めたがよい」
「ご、ご冗談を!それでは一層頑なに拒否させることになるだけでございませんか!」
「そうかな?下手に隠すから、あの男も警戒して我らの申し出に乗って来ぬのよ。時には手の内を見せてみるのも駆け引きのやり方ぞ。ともかく、我らに残された時間は少ない。あの男にはそれ以上に。これ以上拒否するのであれば、あの男はもう無用だ。ここまで引き伸ばせただけでも目的は達したというものだが」
 非情な宣告を聞いて、さすがにイピの顔色が蒼白に変わる。
「では、今夜の交渉で最後といたします。そして彼が諾(うん)といえば、例の件はそのまま実行に移してようございますね」
「諾といえばな」
「必ず承知させてご覧にいれます!」
 強い口調でそう断言して、イピはメリトゥトゥの視線をぎりりと睨み返した。
「お前はこの仕事に私情を持ち込みすぎる。父親に似ておらぬのはそこだな。それが吉に転べば善し、凶ならば…」
「ならば…何だとおっしゃいますか?」
「なに、直ぐにも命を失うだろうよ」
 祭司長はそういうと、くるりとイピに背を向け、退出を促すように手を振った。


 そうして、イピはここ数日通いなれた暗い地下道を黙々と歩いている。
 いや、生来口数の多い性分であるため、自分では黙っているつもりでも口からはぶつぶつと絶え間ない文句があふれ出ているのだった。染み出した地下水でじめじめと湿った暗い道には、気の弱い者ならば悲鳴を上げるような代物がごろごろと転がり、名も知れぬ醜い虫が蠢いてまことに気味が悪いところであった。しかし、考え事に集中しているイピには、そんなものに頓着する余裕もない。
「まぁったくっ…あれだけヌートやアメン神殿に煮え湯を呑まされたってのに、それから手助けしてやろうという申し出を撥ね付けるなんて、一体あの馬鹿は何を考えてるんだか!!ああそうとも、大馬鹿野郎だよ、てめぇは!!この国にはアメン神殿なんか比較にならねえくらい、力があるモノがそこかしこにいるんだ。大王家ですらままならぬような、すげぇ勢力なんだぞ。そいつがあんたを見込んで力を貸してやろうといってんのに、それを何だぁ?『神官なんて人種は大嫌いだ。手先になるなんて真似は死んでも断る』だと。だったら早いとこ死にやがれってんだ、そのほうがこっちも清々するぜ…」
 などと所詮は愚痴めいた憎まれ口でしかないのだが、当人に気づいていない。そしてそのまま口を閉じることなく道が突き当たるまで歩いていくと、左手に頑丈な木の扉が姿を見せた。
 その前で立ち止まったイピが特殊な叩き方で合図すると、重々しい音を立てて扉が開いた。
 目の前にはもう御馴染みの牢獄の光景が広がり、イピがそこに足を踏み入れるなり見張りの獄吏が代わって室外へ出て行った。
 物音を耳にしたのか、奥の壁際でむっくりと起き上がった人影がある。その影は、嘲笑の色を隠そうともせず、真直ぐにイピのほうへ向って小気味良さそうに話しかけた。
「また来たのか!よくもまぁ毎日凝りもせず馬鹿面下げて、この汚い獄舎へやって来られるものだ。何度来てもわたしの答えは同じということぐらい、お前の水の入った頭でも判るだろうに」
 馴れているとはいえ、さすがのイピもむかっとして言い返すのを止められなかった。
「仕方ないじゃないですか!それが今回のわたしの仕事なんでね。でも、言っておきますけどそうやって強がりを仰られるのも、今夜で最後ですよ。朝が来ればあなたは用済みですから」
「ほぅ…それは一大事…」
 僅かの動揺も見せず、アヌイは同じような皮肉っぽい口調を崩さなかった。だが、それもイピには癪にさわるのである。
「ねぇ、アヌイ様。わたしだってあなたのお命を惜しむものの一人ですよ。みょうな剛情を張らずに、いまだけでも諾(うん)と言っておくお気持ちにはなりませんかね?じゃないと、あなたを信じてサイスで頑張ってるケネプ隊長がお気の毒…」
「黙れ、裏切り者!!殊勝面して、ケネプの名など口にするな、反吐がでるわ!!」
 強く叩きつけるようにして遮り、その罵りがイピの顔を屈辱で青ざめさせた。
「俺を裏切り者と罵る資格があんたにあるんですか!?あんたが任地で遊び呆けたふりをしておいでだった頃、裏でどのようなことをなさってたか、俺が知らぬとでもお思いですかね。あんたが私兵をあれだけ集められた元手は何です?親父があんたに融通したやつくらいじゃ、到底間に合わないはずですからね。それに、故郷の昔のよからぬ仲間を上手く使われて、あちこちの神殿倉庫を襲わせてたのもわかってるんですよ。名領主が聞いて呆れらぁ。人の好いあのサイス侯に近づけたのも、彼らからの情報のお陰だったくせに!」
「ははん、その程度の難詰でわたしが怯むと思ったか、小僧」
 ついに歳若いイピのほうが挑発に負け、堪忍袋の緒を切って怒鳴った。
「判ってないのはあんたの方だろうが!今、地上でどんなことが起こってるのか知ってるか!?とうとうワァルトの軍がこの街を制圧してしまったんだぞ!言うことをきかないやつは悉く捕らえられ、あいつら独特の惨たらしい方法で処刑されてる!!あんたが生かされてるのは、あんたがワァルトと同じヒカウの血筋を引くからだ!あのワァルトは同族の血統を重視するからな、でなきゃ、罠に落ちた敵の州侯なんざ奴が指一本振るだけで首が飛んでらあ!!」
 するとその時、じゃらりと手鎖を鳴らして、アヌイが格子のほうへ一歩踏み出した。
「わたしの心配より、己の首の行く先を心配するがいい。ワァルトにとってこの街に歴史があろうが、王軍の駐屯地に近かろうがそんなことはどうでもよいのだ。奴の最終的な狙いはプタハ神殿領の奪取だからな。替わってあの一族が崇拝するセト神の大神殿を建てたいと思っている。お前達も、早晩、わたしなぞにかかずらわっている場合ではなくなるぞ!」
イピは思わず格子を握り締め
「なぜそんなことがあんたにわかる!?」
 そう言って格子越しに覗き込んだ――とその時、目の前に火花が散った。
 あっと声を立てる間もなく、格子から伸びたアヌイの手がイピの頭を掴み、両手で太い青銅の格子に額を叩きつけ抵抗力を奪ったかと思うと、イピの首を力任せに締め上げ始めたではないか。
「な…ま、待って……うぁ…」
 だが、その嘆願は一層強まる力で絞めあげられて、苦し気な喘ぎに消えてゆく。
 イピの割れた額の傷口からは鮮血が迸り、顔を朱色に染めるばかりか、白目もみるみるうちに血走っていく。それを覗き込んでいるアヌイの顔は、見るも無残なほど黒く汚れきっていたが、今や残酷な満足感に輝いていた。彼は痩せて細くなった手首から巧妙に手鎖を外し、隙を見てイピを襲ったのだった。監禁生活でだいぶん筋力が落ちたとはいえ、もともと武人であるアヌイには彼より一回り小柄なイピを捕らえるくらいの余力はあったらしい。いや、機会を伺ってそのための体力を残してあったといったほうが正解であろうか。
 いつもは用心して格子の前には近づこうとしなかったイピの警戒心も、ここ数日の面会での馴れに加え、交渉の不調に伴う焦りで薄れてきていることを、彼はとっくに計算済みだった。
 両腕ごと後ろから羽交い絞めにされ、首を力任せに絞め上げられては、流石のイピの達者な口舌も役に立たない。それを見下ろして、アヌイは一層顔を寄せてきて、イピの腹に響くような冷え冷えとした声で嘲った。
「だからお前は所詮商人の倅だというんだ、イピ。追い詰められた兵士には近づくなというだろうが。わたしをここから出せ!イヤだというなら、このままお前の首ごとへし折ってやる。そのほうが良いか?どうせ二人とも朝までの命だそうだからな」
 イピの視界は真っ赤に霞んでゆき、研ぎ澄まされた臭覚は、汗と血と垢じみたアヌイの体臭を捉えていた。膚に触れる彼の不精鬚の感触はイピの神経を恐怖でささくれだたせ、かき乱す。
 華やかな都の水にも決して染まり切ることのなかった男、飼いならせない獣の如き気性のこの男に相応しいというべき匂いだ。俺は素手で獅子に挑む馬鹿者だったのだろうか……?
 鼻から生暖かい血が静かに溢れ出てゆくのが判った。生命が流れ出している紛れもない証にイピは背筋が寒くなり、とうとう最後の力を振り絞って
「わ…わか……わかりまし――」
 弱々しくそう言いながら、震える指先でアヌイの腕を降参の合図に叩こうとした途端
 目の前に星が飛ぶほど後頭部を打ちつけられたと思うと、するりと呼吸が楽になった。
 がくりと膝をつき、胸を撫で下ろしながら呼吸を整える。ぽたぽたと鼻から滴った鮮血が腰布に紅い染みを描き、眼からは滂沱と涙が流れて止まらない。関節が鳴るほどに手が震えるのを堪えながら手の甲で涙と鼻血を拭い、そろそろと振り返って背後を確かめ―――
 そして、彼は呆然と口をあけた。

 そこには何も無い。
 先ほどまで自分を死に追いやろうとしていた男の姿も。
 ただ、格子の向こう側の床が両手の幅くらい陥落しているのだった。思い切って覗きこんでみるものの、墨を流したように真っ暗で底がどのへんなのかも見極められない。そこから、風が吹き上げ、イピの顔に流れる汗をまたたくまに冷やしていく。

(プタハの神殿の地下はなぁ、底なしの迷路だというぞ。何せ古い古い神の家だから…お前もうっかり迷い込まないようにしろよ。そこにはな…人の魂を喰うという魔物がいるそうだからな。あそこはアムドゥアトへの入り口だから無理も無いわな。21の塔門、7つの邸宅、15の領土を通り抜けて遂にはオシリスの御座所へ――なんと『へンヌの神廟』へ至るとさ)

 以前に冗談らしくそういった父親ホリの話が瞬時に蘇り、粟膚立ったイピは尻餅をついたままじりじりとあとずさらずにはいられなかった。床にはつうと掠れた赤い線が一筋。
「セケルの神は――ああ…そうだ、あの神は『アムドゥアト(冥界)の門番』じゃねぇかよ…」
 イピの恐怖に掠れた声が、薄暗い牢獄に不吉に反響していた。






 落下ほど不快な経験があろうか。
 それが夢ならば特に。
 大地の神ゲフから引き剥がされたかと思うと、浮遊感を味わう間もなく筋肉が引き攣るあの感覚。一気に血が逆流し、指先が強張り、後頭部だけがかっと熱で爆発するような―――あの恐怖。
 それも目覚めれば全て消える。

 だが今は?
 イピの抵抗が段々と失せてゆき、しめたと思った瞬間足元が抜け、彼は今、凄まじい勢いで落下していた。あっと思う間もなく、反射的に何かを掴むことすらできぬまま、ひたすら下へと落ちていく。
 その瞬間、彼の脳裡を駆け巡ったものに驚いたのは本人であった。
 懐かしい?いや、忘れたいのに忘れられないあの面影こそは……
 それは、苦い毒のように彼の脳を一気に覚醒させた。

――馬鹿な! こんな所で死ぬわけには!!

   頭の上に遠ざかってゆく果てしない暗闇に向ってそう絶叫した刹那、背に強い衝撃を感じ、ふわりと体が浮いた。

 一気に鼻から口から、あらゆる穴から不快なものが流れ込む!

(水だ!!)

 無意識にアヌイは手を大きく動かし、衝撃で沈んでいこうとする自分の身体を引っ張り上げようと奮闘する。手も足も疲労で強張り、おかげて水を幾度も飲みかけたが、もう無我夢中である。元はといえば、アヌイは下エジプトの湖沼地帯の出身で、物心つくと同時に泳ぎを取得していたほど水に馴染んだ体質が幸いしたのか、永遠とも思える時間を潜り抜け、水面に頭を出すことができた。
 途端に、眼が潰れるかとおもうほど眩い光が当てられた。
「誰ぞ!」
 鋭い誰何の声がアヌイの耳を打つ。
 彼は咄嗟に防御の仕草で手を振りあげ、壁らしきものにぶち当たったのをこれ幸いに、そこから息も絶え絶えに我が身を引っ張り上げた。
 何にも変えがたいほど有り難い、固い大地――正確には、紛れもなく人の手になる石畳があった。それを抱くようにして、アヌイは激しく肩で呼吸を整えながら声の主をとらえようとよろよろと身を起こした。水面に叩きつけられた衝撃に加え、水中ですっかり体力を消耗したのか、指は石の上を滑り、突起で傷つけた指先からまた新たな鮮血が迸る。
 そして、必死で力を振り絞り、ようやく彼が顔を上げたとたん、また同じ声がした。
「おや、これはこれは何としたこと。久しぶりの訪問者は誰かと思うたら…。さすがはあの王妃の見込んだ男だ、ヌンの水からも這い上がって地上に舞い戻ったと見える」
 闇に慣れすぎたアヌイの眼には光は毒となって突き刺さり、何度も瞬きをせねばならなかった。おまけに頭髪から流れ落ちる雫が更に視界を霞ませ、一層目の前の人物の輪郭をぼんやりとしたものにしてゆく。だか、彼は朦朧とする頭を振り、何とか声を絞り出した。
「ヌ…ヌン(原初の海)だと…?それに…誰が見込んだと言っ…!?」
 言い終わらぬうちに、鳩尾から込み上げるものがあり、思わずアヌイは膝をついてその場へ嘔吐してしまっていた。
「やれやれ……ただ人の身でアムドゥアトの入り口を覗いたにしては、大層な剣幕じゃのう」
 そう言いながらその声が近づいてきて、俄かにアヌイの鼻腔を強烈な芳香が擽る。思わず顔を背けようとしたが、万力のような力で顎をつかまれ、更にその刺激的な匂いを胸腔の奥深くまで吸い込まされる。
 毒かと思い身を強張らせたのも一瞬で、直ちに頭の中の霧がからりと晴れ、視界がぱっと開けた。
「どうじゃ、わたしが見えるか?」
 だが、さすがのアヌイもとっさにその問いかけに答えることができなかった。
 眼の前に、小山のような黒い大男に抱きかかえられるようにして、僧形の小柄な男が彼を見下ろしているではないか。
 ふっくらとして眠たげな青白い顔立ちは若くも見えるし、限りなく歳を経ているようにも見える奇妙な造作をしている。なんと言っても、すっぽりと総身を包む白い斎服越しでもはっきりと判別できる、その異形。
 立ち上がれば、アヌイの腹のあたりまでしかないであろう、矮人(こびと)であった。但し、短いのは足だけなのか、異様に手が長いだけなのか、常人離れした不均衡な造形が強烈な印象を与える矮人。
 だが、アヌイを射抜かんばかりに見るその目からは、恐ろしいほどの磁力を感じる。
「お前は…誰だ?」
 そう問い掛けてみたものの、アヌイは目の前の人物に魔術で絡めとられたごとく、どうしても視線を外すことが出来ないのだ。どんなに尊い王侯にも怯まなかったこの男が。それほど、目の前にいるのは威厳に満ちた人間だったのである。
 その人物が、表情一つ変えぬ雲尽くような大男に抱き上げられたまま、くつくつと咽声で笑った。それは陰々とあたりに木霊する、闇夜の鳥の啼き声にも似て、寒さのせいではなくアヌイの膚を粟立たせる。
「わたしが誰か知りたいと?わたしの名はメリトゥトゥ。だが、器の名に意味はない。わたしは、洞窟の主人、方位の神、死と暗闇を司る冥府(アムドゥアト)の門番たるセケルを祀る神殿の長である。イメンテト侯にはお初にお目にかかる」
 彼は舞踊手のように優雅に両手を空に翻して組み直し、アヌイを見下ろしたまま恭しげに頭を下げた。その拍子に、闇にしゃらんとこだまするは、なにやら深遠な鈴の音。
「セケル…ロ・セタゥ辺りの墓地の神セケル……の祭司長だと?」
「左様。そなたをこのところ悩ませていたホリの息子は、我が配下の者だ」
 その名乗りに、アヌイの青ざめていた顔が怒気で紅潮した。
「ではお前か!わたしをおびき寄せ、ワァルト側へ寝返れとしつこく言わせていたのはっ!?」
 だがその質問には、またしても奇妙な笑い声が返ってきただけである。
「おお、アアム・ワァルト如きが何であろう。あれはこの黒土に根付けぬ、哀れな異郷の糸柳よな。いっときメフゥ(下エジプト)に生い茂ったとて、ひとたびクヌム神が轆轤(ろくろ)を回せば、瞬く間に押し流されてしまう宿り木にすぎぬ輩…」
「屁理屈はやめろ!セケルの祭司長とやら、いかに詭弁を吐こうと、お前たちはワァルトの走狗ではないか。あの欲深いが小心者の北宰相を唆かして反乱軍に内通させたはよいが、結局、反乱軍に牙城たるヒクプタハを明け渡さねばならぬことになりながら、今更何の強がりか!笑わせるな!!」
 見上げるような位置にあるメルトゥトゥの顔に向けて指を突きつけ、アヌイは唇のかさぶたが裂けて血が滲むのも気にせず一気に言い放った。立ち上がることは出来なかったが、片膝を立て、油断無く後に飛び退れるだけの余力は残してある。
 それを見下ろすメリトゥトゥの眼が、すっと細くなった。と同時に、彼が纏っていた殺気が俄かに消えた。そして、どこか愉快そうな声色さえ覗かせて彼は言う。
「察するところ、そなたは余程『走狗』が嫌いと見ゆる。そなたの父御がジェドウのオシリス神殿にいいように使われたせいか?だが、そう思う心の底で、そなたは知っておるはずぞ。そなたの父は騙されたのではない。自ら望んであの年の謀議に加わり、同輩を陥れんとして敗れた。それゆえに命を絶たねばならなかったということを。違うかな?」
 一瞬でアヌイの表情が強張った。誰にも其処まで話したことはないはずであるから。あの政争の真相と、彼の父と兄が残した財産を、相続人である彼がオシリス神殿に全て寄進してしまった真の理由まではイピも知らぬようであったから。
「父上は罪人ではない!」
「おおもちろん、罪があるわけがないよ。ただ、権力を望んだだけ。そして僅かに手に入れたその使い方を誤っただけよ。権力はその性、貪婪にして保持者を磨耗させる魔の生き物だ。魅入られれば己も魔性と化す。だからこそ、そなたは父と同じ道を辿りかねぬ誘惑には、敏感に反応するのかな?」
 アヌイの動揺を薄目で見透かすようにしながら、祭司長は長い腕を振り
「だがな、お若いの、永い永い時から見ればそんな反発こそ下らぬものだ。これをご覧!」
 その途端、どういった仕掛けか、壁面に一定間隔で一斉に灯火が瞬きあたりを真昼の如くに照らし出される。
 そして、アヌイは今度こそ度肝を抜かれた。
 極彩色の神が彼を見下ろしている。
 メリトゥトゥの声の反響具合から、ここがかなり大きい部屋らしいと見当をつけていたものの、そこは予想を遥かに凌駕する大広間だった。それも室内の半分以上の面積をとるほどの方形の池が背後にあり、さっきはそこから這い上がってきたらしかった。どうやら、室内にある秘密の禊の間のようである。
 しかも、そこは見たこともないほど華麗な装飾で覆われていた。王都で見たカルナク大神殿の豪奢ですら遠く及ばぬほどの黄金貼りの室。
   煌く天井は高くて果てが見えぬものの、円錐形の天井と思しき傾斜。壁面には古風な装飾の玉座に腰掛けた、完全人身の巨大な男神の像が描かれている。見知らぬその神は手に牧杖と竿杖を持ち、その頭には雄牛の角の上に載った太陽と羽を象った紅白のアテフ冠。神の顔は豊饒を表す黒色に塗られ、彼の神が纏う白い屍衣には青い星の模様がずらりと描かれている。そして、その傍らには半分ほどの大きさで、羚羊の角を舳先に載せた半月型の優美な船。
 船の上に描かれた「それ」にアヌイは眼が釘付けになった。

  ――― 隼の船!

 盛り上がった丘を表す弧の上に、踏ん張るようにして小さな隼が留まっているのだ。
 そして、驚くのはその精妙な壁画だけではなかった。彼の両脇の壁画のない壁の部分には、等間隔で正方形の穴が上に向って空けられており、その中の全てに金色の厨子が覗いているではないか。遠目にも素晴らしい細工とうかがえ、その数はざっと数えても100はゆうに超えている。
 一昨年、下エジプトを襲った大地震はこの不可解な空間に何の爪痕も残さなかったのか、それとも忽ちのうちに復興したのか?どこにも亀裂も破損も見当たらない、壮麗な大建築がこんなところに。
 アヌイは頭がくらくらしてきた。
「こ、ここは…いったい?」
「こは『イプウト』じゃ。『トトの聖所の奥の院』の一角。そなたも子供の時、昔話に聞いた事がないか?『トト神の魔法の書』の物語、『トトの聖なる数』を知りたがったファラオの話を」
クフ王の聖代に、王子ヘルターターフが父王の許へ、魔法使テタを連れてきたという…あの話の…か…?」
 驚きのあまりかすれ声で問い返したアヌイに、その不思議な祭司長はにこりと笑った。どこか、少年じみて見える晴れやかな、一瞬の錯覚とも思える笑顔で。そして彼は、突如として朗々と


“ テト=セネフェルに住まいするテタは、王子の懇願により、黄金の船にてファラオの許に伺候せり。
 神たるクフ王陛下、かの魔法使にご下問なさりしは
「テタよ、朕の問いに心して答えよ。汝はトゥトの聖所の奥の院、イプウトの数が如何ほどか存じておるか」
 魔法使、大王に奏上して曰く
「畏みて申し上げます、我が陛下よ。この身は、トゥトの聖数は存じませぬが、それを示したものがある場所ならばお教えできまする」”


 黒土(ケメト)に古くから伝わる有名なその物語の一節を語り起こすや、またもとの表情となる。そして彼は言うのだ。
「だが生憎、かの君主が手にした櫃の中のパピルスは不完全なものだった。だから、あのメル(ピラミッド)を擁する大神殿内にそれを復元させたつもりでも、王の魂は未だあの地に繋がれたまま天には昇れず、太陽の船もただの置物だ――哀れむべきかな。ここは彼が知りえなかったロ・セタウの地下にある、古の神王たちの墓所だよ。もうその名も伝わらぬ遥かな昔の半神人たちの…な。中には【ウシル】とよばれた神王の骸もあるそうだ。我が役目は、これらの君主の瞑りを見守ること。いわば、いつか、彼の貴人らが彼方の御国より戻られ、完(まつた)き御姿を取り戻されるまでの、器の見張り役だな。だから、セケル神は『アムドゥアト(冥界)の門番』と言われるのだよ」
 灯りに照らし出されたメリトゥトゥの青白い顔は、それまでより幾分人がましいとはいえ、神話時代の人物のことをさも親しげに語る彼はかなり人間離れして見えた。彼は手にした小さな杖を振ると、真直ぐ、船の上の隼を指差した。
「あれが何かわかるか? 美しき隼と真理の羽の徴を戴く者」
 その言葉にアヌイはぎくりとした。それは彼ひとりしか知らぬ筈の、あの日のナスリーンの言葉の一節だったから。

” 美しき隼と真理の羽の徴を戴く者よ 隼の船の向うところへ進みなさい“

(そうだ…確かにあの時、ナスリーンはそう言った。“ 黄金と血に染まったアセトが待っている”――と言わなかったか…?)

「わからん。何だ…船――なのか?」
 動揺を押し隠して彼は問い返す。
「あれはセケルの船へヌ――つまり隼神へルゥがこの地に舞い降りた御座舟よ。古い陽の神へルゥの徴である隼もまた、セケルの眷属だからの。わが神はプタハにも擬せられるが、もともとはこの地の水神なのだよ。生命を養い育て、天と地を繋ぐ水が本性。よって植生の神にして冥王たるウシル(オシリス)とも重なり、全ての命を育む夜の陽の神、隼のへルゥは我が神の似姿とされるのだ。同じく隼の神でも、ウシルの息子たる灼熱の昼の陽の神ホルスはそうではない。まあそれは別の話なわけだが」
「セケル…セケルとはいったい何者だ?そもそも、プタハ神殿はオシリス神殿と対立してきたはず。お前たちは何を企んでいる?」
 さすがに混乱を隠しきれぬアヌイの表情が面白いのか、メリトゥトゥは再び奇妙な笑い声を立てた。
「さぁて…それは僅かな時間では語りきれぬし、所詮わたしの知っていることなぞ瑣末事に過ぎぬ。だがな、肝心なことは一つだけだ、ヒカウのアヌイ家の生き残りよ」
 祭司長は朗々と詠唱を吟ずるように語り掛け、ついと奇妙に長い手を上に差上げた。
「我らが望みは、この『北の都』を全(まつた)き姿に戻すことだ。上つ国と下つ国からなる二つの地ケメトには、ふたつの都がなければならぬ。そして都とは即ち神々が立ち顕われた『原初の丘』を持つ場所のことをいう。下つ国メフゥには《夜》の神都ヒクプタハ、上つ国シェマウには《昼》の都ネケン。それを、200年前にあの狡猾なスメンクマアトは、廃れて久しいオンの神殿を担ぎ出し、王都ウアセトに全ての神の王であるアメン・ラーの神殿を置くと宣言して、神々の系譜を勝手に書き換えおった。ネケンから神都の権威を奪ったばかりか、アメン・ラー神の神殿をこの都にまで建て、『原初の丘タテネン』の全き力を削いだのだ」
「タテネン――?丘の上の大神殿タテネンは健在だぞ」
 不審そうに問い返したアヌイに、祭司長は
「残念ながら本来の姿に非ず。我が神のカァが戻って来られぬのでは最早『タテネン』とは呼べぬわ」
「悪いが、神学好きな坊主の謎かけくらい頭が痛くなるものはないんだ。わたしに聞かせたいことがあるなら、手短に言え」
 いかにも胡散臭いものを聞くといった顔のアヌイに対し、祭司長は厳粛な面持ちになり
「ここは『ヒクプタハ』だ。『プタハの王城』であり、プタハを筆頭に『夜』を支配する古き神々の力の源でもある。天地万有の創造の時より、この地は霊域なのだ。それをあの大王家は貶めおった。こともあろうに『ファラオの父』たるアメンの神を、おのが一族の祖霊に擬し、『隠れたるもの・尊きアメン』をだだ人に堕しめたあの一族は、この神都ヒクプタハに偽の神域を設けた。アメン・ラー・スメンクマアト神の御座所だと!?神を一王家の血統に組み込むとは、神をも畏れぬ暴挙、到底許されぬ冒とく。そしてその歪みが、今やケメトの秩序を崩し始めておる!」
「はん、結局、負けが悔しくて、偽せ神呼ばわりしかできんのか。大王はお前らのような無能の懐古主義者より一枚上手だっただけだろうが」
 皮肉っぽいアヌイの憎まれ口にも、祭司長は晃乎(きらり)と目を光らせて
「そうだな。オンの陽の神ラーが、『顔隠したる貴人』と結びつき、時の王権によってその威光が高められるのは、仕方のない時の趨勢ではあろうよ。だが、それでも大王家が、我らの古き星の神を貶めたままにすることは許しがたい増長というべきだよ。ケメトの神々の秩序は、『最初の時』に既に完璧な宇宙として定められている。それを人ごときが変えられるものではない」
「…するとお前らは、自らの代わりに、あの丘の上の大王を神として祀ったアメン・ラー神殿を叩き壊す者が欲しい…それをわたしに手を貸せ、とこう言いたいのか?」 
「早い話がそういうことになろうかの」
 アヌイの表情が珍しく嫌悪で歪んだ。彼は右手を上げて壁面の厨子の数々を指差し
「は!古の神王の守護者だとかなんだとかもったいぶっておきながら、神殿ひとつ、おのれらは壊せぬのか?それでヒクプタハの支配者だと?『星の者』だと?とんだ虚仮おどしだ!」
「わかっておらぬようだな。『神殿』はただの石の家ではない。偉大なる神々の御力を顕現させるための『装置』だ。そのために必要な意匠は完璧に再現されておる。ゆえに、それがどんな経緯で作られたものであれ、それを壊すことなどマアトに反する。我らとて力ずくであの神殿を破壊することは容易いが、さすれば永遠に我が神はケメトには御降臨にならぬであろう。むしろ怒りを買い、討ち滅ぼされるに違いない。大王を神と崇めた王家が血みどろの同族争いを繰り返すうちに、この国が傾いてきたのもその所為よ。地上の神であるべきファラオの玉座を忌まわしき近親の血で汚し、挙句それらの怨嗟でケメト自体を弱らせた。ゆえに、その穢れが致命的にならぬうちに、アメン・ラー・スメンクマアトには速やかにこの地から退散願い、プタハの都を元の地位に戻したいのだ。これで飲み込めていただけたかな?」
 アヌイはそれでも合点がいかないといった風で
「矛盾しているではないか。お前は今、わたしの手を借りたいようにいったが、お前の手下はわたしがワァルトに組せねば用済みのように言っていたぞ。あれはどういうことだ?」
 くっくっとまたメリトゥトゥが不気味に笑った。
「己のなすことの真の意味を知るものは少ない。イネブヘジュ州侯パーセルを引き渡すのと引き換えに、そなたの助命をワァルトから取り付けたのはわたしだよ。少なくともわたしはそなたを買っておるぞ、イメンテト州侯殿。そなたは大王家が崇めるアメン・ラー神を崇めぬ男だが、ヒカウが崇めるセト神もまた重きを置かぬであろう?ワァルトとそちが決定的に違うのはそこよ。もともとあのヒカウの当主はそなたを警戒しておった。そなたが西メフゥを手中にしてからは特にのう。いっそ暗殺してはと持ちかけられたが、我らが時期尚早と言い張ったのでそなたは監禁されるだけで済んだのだ。しかしそれも今朝で期限が切れる」
「何故?」
「パーセルが処刑されたからだよ。ワァルトの代理人たるケラ将軍に、一昨夜、刎(くびき)られた。主人同様、あの男も気が短くて困るわ。そして、ワァルト軍の勢いはこのヒクプタハから更に南西へ拡大し、そなたの勢力圏をも飲み込んだぞ。今や、アヴァリスはワァルトの王国の都の如しだ」
 その情報を耳にするや、凄まじい勢いでアヌイの頭が回転を始めた。そして暫く考え込んだのちに
「何故王都はそれでも動かない?王軍の北面師団…は疾うに散り散りか…では南面師団はどうしたのだ。それももう無いのか、まさか!?」
「いやいや、兵はくるぞ。まもなく最後の大軍がアメン・ラーの幟(のぼり)を押し立てて、意気揚々と川を下ってここへやってくる。南面師団はおろか、王都の神殿兵を四千も投入した一万三千の大部隊だそうな。まもなく南のファイユームあたりは決戦場になるだろう。その様が目に見えるようじゃな」
 メリトゥトゥは、まるで神を称える讃歌を朗詠するように、来るべき災厄を告げるのだった。その表情は再び限りなく歳をとった老人のようにアヌイには見える。彼の目をまともに捕らえた途端、アヌイは弾けるように叫んだ。
「読めたぞ!お前が真に手を組んだのは、《ナルカ王家》の当主だな。ヌートを裸にするため…そのためだけに、わたしの勢力を根こそぎ奪い、これだけの混乱を引き起こしたのか?見返りは…ヌートの首だけでなく、大王葬祭神殿一派の壊滅なのか?アメン神殿も乗ったのか、その話はっ!」
 その叫びを耳にするなり、小さな祭司長は黒い大男に抱かれたまま身を震わせるようにして哄笑したのだった。手にした杖を膝に打ち付け、莞爾として笑う様はそれでも不気味な威厳に溢れている。
「そうこなくては!だがのう、イメンテト侯、あの王妃の言い草はさらに巧妙だ。大王葬祭神殿の壊滅に力を貸すとは言ったが、アメン神殿との交渉は己らでせよと言って寄越しおったわ、まったく、あの狡猾さ、たかが王妃にしておくは惜しい!」
「ちっ…それで、お前たちはわたしを使うことにしたのか。プタハ――といえば、職工の元締め。そういえば《ナルカ王家》はシナイのマガラ銅山に権益を持っていたな。ワァルトがあそこを抑えたにしても、維持することは難しい…あれをやると王妃にいわれたか」
 アヌイの声が一層低くなった。
「ご明察。『大王家』の威光を高めることにさして執着せぬあの王妃は、王家の貴重な資産をこちらへ譲ってもよいと言う。それほど王妃はヌートを王の傍から遠ざけたいし、アメン神殿の頂点に立つイペト・スウトの長老連中は大王葬祭神殿を潰したいのだ。そしておそらく、王妃の望みは更に上をゆくだろうよ」
「………だろうな、蛇より狡猾な王族のことだ。こうなれば見当はつくが…それにしても独りですべてをぶち壊す気か、あの王妃は?気が狂ってるとしか思えんぞ…」
 すっと表情を消した祭司長は、大男に膝まづかせ、アヌイの目の高さまで降りて来た。青白く眠そうに垂れた瞼の下からアヌイを見つめる目は、夜の河面めいて昏冥の深みを増した。彼がアヌイに長い手を差し伸べ、空になにやら印を切った途端、しゃらん、とまたもや玄妙な音が響く。
「まさに今、糸が絡み合い、一つの模様が織り上げられつつある。意図したのは誰か?一人ではないぞ、みな導かれているのだ。王妃にもイペトスウトにもそれぞれ思惑があり、我らは、我が神の都に古の地位を取り戻したく、ワァルトはメフゥ全体が欲しいのだからの。しかし、神々は、そのすべてを己が道具として用いられる偉大な御方。そなたの望みはなんじゃな?」
「お前が、今すぐ私の眼の前から消えてくれること」
 アヌイの鋭い一声に動じることなく、祭司長は薄笑いをうかべてまた続けた。
「つまりわれらは王妃の企みに乗り、ワァルトに一度わが街を引き渡すと見せて、ヌートの私兵を誘い出したというわけよな。そのために、そなたに今、下手に動かれてはまずいゆえここへ幽閉しておったのだ。そなたの軍は、見過ごすには手強すぎるのでな、一旦は勢力を削がせてもらった。だが、ここから先はまこと武人の領域。そなたにも失地挽回の機会到来というわけだ。王都からの討伐軍は必ず内部で瓦解するであろう。元々が寄せ集めだからな――そして、我らは我らの都から侵入者を追い払う。勿論、そなたの軍と我らで」
 謎めいた祭司長の声は、奇妙な姿と、朗誦めいた語り口でアヌイを引き込んでいく。それらはどこか魔術めいていた。
 本能的に危険を感じ取った男は、とっさに身を引きながら怒鳴った。
「誰がお前らに加勢すると言った?勝手に話を決めるな!」
「さてもつれないのう。元はといえばそちもオシリス神殿に縁あるもの。そちにとって、この黒土の国に御坐(いま)すどの神も大して意味は持たぬにせよ、まさか『死の王』の御手から逃れられるとは思っておるまい?冥府の君主は、無知は赦されるが、不敬は見逃さぬお方よ。プタハは偉大なる独り神であらせらるが、日の出の神でもあり、それは夜の陽の神、我が主人セケルとも復活の神オシリスともまた切っても切れぬ関連を持つ。どうじゃ、われらとそちは案外近しきものかもしれんぞ」
「なんと言われても断る!」
「ふむ。拒否してここで死を選ぶのは、あまり賢い選択とはいえぬがな。そなた、たかだか下つ国を手に入れるくらいで満足か?王位に――上つ国と下つ国を束ねる地位に挑んでみたくはないのか?われらはあの大王を神と崇める神殿を解体したい。それには正統なファラオの勅令によらねばならない。今の王家にそれが無理なら、われらが意を通すファラオを立てるまでよ。そしてそなたはファラオの権力に惹かれるであろう?何とならば、一度はその一端に触れ、その威力を思い知ったはずだからの。あれは芥子の汁の如き甘美な毒よ、無しでは生きられぬようになる。そして美女の艶視の如く逃れがたいものじゃ」
「おのれ、うぬら、またしてもわたしを利用するつもりか!?」
 激昂したアヌイを祭司長は、心底不思議そうに一瞥し
「これほど言うてもわからぬのか。存外、頑迷な男じゃのう…悪い取引ではなかろうに。兵を持たぬわれらの神殿は、加勢をしてくれれば、今は劣勢にあるそなたの軍にそれ相応の見返りはあたえようと申しているのだ。ここをそなたの拠点にするがよい。いったい何を躊躇うのだ?あの悩めるファラオを葬り去るのに、まさかそなたが心痛めるとは思えぬ。まして、それこそがそなたの真の望みではないのか?そうでもせねば、そなたの想い人は手に入らぬであろうし…いや、想い人ではないかな、あの女人こそは此度そなたを陥れた真の敵。自分を虚仮にした彼女が憎くはないのか?」
「黙れっ!お前のようなバケモノが、わたしの心を量るな!」
 誰にも突かれたくない秘密を暴露され、アヌイは顔を紅潮させた。だがますます合点がいかぬといった表情の祭司長は、ぱさりと袖をひるがえすと
「情けなやのう、アヌイ殿。“隼の翼の船の向う道を進みなさい”とそなたの予知者はいわなんだか?わたしにはそなたの胸に宿った野心がありありと見える。故郷で政争に敗れた父と兄からそれを受け継いだであろうが?同じ黒土の民ならば、鞭を振るうものとなれと教わらなんだのか。“己が真の望みを蔑ろにするは自ら破滅を選ぶも同然”」
「父上の…それにナスリーンの言葉を何故お前が…?」
 ずぶ濡れの所為ばかりではなく、アヌイは全身が総毛だつ思いだった。呆然とつぶやいたアヌイに向って、メリトゥトゥがついとその指を天に向けた。
「我は死者の神の祭司。死者の声を聴くことはいと容易いこと哉。それに、そなたに知らせることがある。そなたの愛人ナスリーンは死んだ」
 瞬時にアヌイの顔が蒼白に変わる。
「嘘だッ!」
「残念だが事実なのだ。そなたが囚われる3日前のことだよ」
 その冷静な宣告に、アヌイは我を忘れて飛びかかった。しかし、メリトゥトゥを守る大男に軽く腕で振り払われて壁に跳ね飛ばされてしまう。
 それでも彼は無我夢中で身を建て直し、渾身の力で叫んだ。
「嘘をつくなっ!そんな…ナスリーンが死んだだとっ!?お前らが殺したのかっ!」
「信じる信じないはそなたの自由だが、われらが手を下したたわけではない。あれは本当に不慮の事故だったのだ。何事につけ敏感なそなたの女楽師は、そなたに迫った危機を予知し、それをそなたに知らせるべく焦ったあまり、もみあう警備兵から逃れようとして城壁から足を滑らせたのだよ」
「証拠は!?まことナスリーンが死んだというなら、骸をここで見せてみろ!!」
 激昂したアヌイの声が、室内をびりびりと振るわせるほど反響した。
 メリトゥトゥの視線が反対側の壁を指し示す。
 目をやると、今まで薄暗くて見えなかった壁際の祭壇に、白く盛り上がったものが載せられているのが判った。アヌイはそれに気がつくなりよろよろと立ち上がり、這いずるようにしてそこへ近づいた。
 そして、一気に布を取り払って凍りつき――やおら絶叫する。

 白く透けるような、まるで石の像のように変わり果てたナスリーンがそこに横たわっていた。白い胸高のドレスをきっちりと着せ掛けられ、腕を胸の前で交差して組んでいる。床にまで届く黒髪は生前のままの黒い滝のよう。だが、硬く閉じられた瞼は蒼白く凍りつき、何より類稀な美声を産み出した唇は青黒く乾いていた。顔の造作に目立った損傷はなかったが、腰から下が奇妙に曲がってしまっている――だが、間違いない。彼が愛し、彼の娘を産んだ女楽師ナスリーンの変わり果てた姿だった。メリトゥトゥの告げたことが事実ならば、ナスリーンが死んで一月以上経つ筈であるが、ふしぎなことにミイラにされた痕跡もないのに、彼女の骸は美しさを保っていた。
「どうして…なぜだ…なぜお前がこんなことに?」
 搾り出すような声でアヌイは囁き、造作だけは見慣れた以前のままのナスリーンの額に顔を寄せた。触れたとたん、心臓まで凍らせような冷たさを感じて思わず身を離す。そしていつの間にか彼の目尻から、熱い涙が流れ落ちていた。
「ナスリーン、わたしだ。目を醒ませ…おい、聴こえているのだろう?芝居はよせ…機嫌を直せよ」
 いつもしていたように、ナスリーンの顔を両手で挟み込み、その色の失せた花のような唇を捕らえて深く深く口付ける。だが、氷のようなそれは生命の温もりはおろか、僅かも彼に応えることはなかった。
 彼の耳の底に、ナスリーンのあの声が――楽神ハトホルの愛娘とまで評された透明な歌声が蘇る。
 だがそれこそが幻。

(彼らは果たして安らぎに至りしや 知るひとぞなし 彼らの行きし国に、われらもまた行き着くまでは…)

 あの稀有な歌声が今にも零れそうに見えるのに、白く乾いた唇は固く閉ざされ、ニ度とその歌を聞かせることは無い。
 彼の我侭も見抜いた上で、それでも傍にいつづけてくれた女。彼が心を開いて見せないことを悲しみながらも、それを淡々と受け入れ、さらに彼に唯一の血族を与えてくれた心優しいナスリーン…

(わたしが守ってやると…お前を怯えさせるあの恐怖から解き放ってやると約束したのに……わたしの所為でお前を死なせてしまったのか!!またわたしは同じ過ちを繰り返してしまったのか!あんなことはセシェンだけで沢山だと思っていたのに!わたしがお前をこの街へ遣らなければ…イピの二心には感づいていたのに…)

「許せぇ!」

 アヌイは我知らず慟哭していた。
 今まで押さえていたもの、胸の底に閉じ込めていた感情が一気に爆発して、彼は天を仰いで絶叫した。それは壁面に鎮座する骸の主たちをも覚醒させようかという程、悲痛な哭き声だった。

 メリトゥトゥは、壁の壁画に溶け込んだように無表情を保ちつつ彼を見守っている。その間も、祭司長の鋭い目はアヌイから一時も離れようとはしない。

 だが、もうアヌイはその視線を意識することを放棄してしまっていた。両腕にかき抱いた冷たく固い感触と、全き沈黙の重さに惑溺してしまっていたのだ。ナスリーンの仄かに薫香の残る黒髪を握り締め、彼女の冷たい骸を揺さぶり、号泣しながらー――そして、さすがの彼の強靱な意思の力も、緊張の持続力もそこでぷっつりと切れた。

 疲労と絶望のせいで、彼の精神力も限界に達していた。囚われてよりすでに闇の中でひと月以上。いかに彼の強靱な意思の力をもってしても、そろそろ限界が近づいていることは判っていた。だからこそ、地上への唯一の連絡係であるイピを盾に、脱出を図ってみようとしたのだ。しかしそれも失敗に終わり、今、彼の目の前にあるのは予想だにしなかった残酷な結末であった。

 愛した女の無残な死と、同じく彼の心を魔的な力で縛りつづける者の裏切り。後者については心の底で薄々察していていたにせよ、突きつけられた新たな事実の重みが彼を打ちのめした。そしてその衝撃は疲れ果てた肉体にはあまりに大きすぎた。
 アヌイは意識を失って昏倒し、冥府の闇にも劣らぬ己の心の闇の中に投げ出されたのである。  





15章へ続く