16章  緑の石を探して


まことにエレファンティネもティニスもシェマウ(上エジプト)に所属している。だが内戦のゆえに租税を納めない。そのため穀物、炭、イルティウの実、マアウ材、ヌート材、芝が欠乏している。工人の仕事と職人の手業は王宮の収入である。だが、収入のない宝庫がいったい何の役に立つ?なるほど、ファラオの心に真実さえやってくるなら幸福であろう。だが本当は、全ての蛮族がやってきていうのだ「あれは我らのもの。我らのために定められたもの」と。これに対して我々に何ができよう?全ては破滅だ…
《イプエルの教訓》より


ネフェルキヤ王女はそこで言葉を区切った。
ふうと軽く溜息をついて視線をあげたが、相変わらずあたりはしんと静まり返っていた。王女自身が、読書の最中はだれも近寄らぬように厳命しておいたからである。川岸から聞こえてくるはずの人声も、今日は随分と遠く感じられた。
自ら宮殿に篭もり、書物を紐解いたり、神妙に教師の話に耳を傾けたりする日を送り始めてほぼ一月が経過しようとしていた。姉王妃の逆鱗に触れ、謹慎を命じられたためでもあるが、何より王女自身が周囲の喧騒から切り離された時間を必要としていたからでもある。
実際、王女にはわからないことが多すぎたのだ。
勃発より2年経過しても鎮圧されないアアム・ワァルト侯率いる反乱軍。それらはこともあろうに、中エジプトあたりまで制圧してしまったという。これに対して、王都は無能としか思われない身分だけは高い将官に軍を預けて鎮圧に向かわせはするものの、長期的な戦略というものが欠けているため、所詮は場当たり的なものにすぎないのである。ギザに駐屯していた北面師団の大半が戦乱で失われた。それも、敵軍に逃亡したものが大半であるという。辛うじて上エジプトに留めておいた南面師団2万弱の王軍があるとはいえ、実勢としてそれほどの実力があるかは疑問だといわれて久しい。何しろ、これを率いる将官の質が著しく低下しているそうであるから。
そしてその混乱にさらに輪をかけるのが、軍の最高指揮官であるファラオ、現王ジェドカラーと宰相ヌートの微妙な駆引きである。
王は何度も自らが軍を率いて討伐に向うと表明したものの、必死にこれを阻止せんとする宰相の企みで悉く邪魔される結果に終わっていた。宰相は、自らの支配する大王葬祭神殿に付属する神殿兵士を裂いてでも王を都から出そうとしなかったのだ。そして、宰相の意を汲む神殿兵と王軍兵士との間の軋轢は、討伐軍を混乱させ、士気を著しく低下させる結果となったのである。
「姉上がそれに思い至らぬはずがない」
王女は何度も繰り返した自問自答を口に上らせた。だが、答えはひとつしか見つからない。
「この混乱をこそお望みなのだ。喩え王家の権威が地に落ちようと、夫であるファラオの名誉が失われようと…ご自身が無能な王妃と謗られようと…それでも姉上はこの状況が必要と思われるのだわ。だからこそ、いままでじっと沈黙していらっしゃる」
王女の勝気そうな眉が曇った。
姉とは違い感情を隠すことは滅多にしない彼女にとって、自らの名誉と誇りを傷つけられてまでせねばならぬことがあるというのが今ひとつ納得できないのである。姉王妃が何を目論んでいるのかは、彼女にとって想像外のことであったし、到底理解できないことであったのだ。ここまで大王家の名誉を傷つけてまでそれは意味があることなのかと思う。
それは、これまで一身同体のように姉に寄り添ってきた王女が、初めて自ら立ち止まって考えはじめた事柄でもあった。
《姫さまも乳離れの時季が来たってことですかね》
 馬番のヘブは、王女の鬱々とした様子を見てそう言った。4日に一度くらいの割合で、ヘブはセトの散歩コースをこっそり変更して王女の宮殿の中庭へ入り込んでくる。勿論それは、家令のアンクエレの差し金なのだが、書斎に篭もりっぱなしの王女のただ一つの慰めとなっていた。
《セトもそうなの?》
 見事な若駒に成長したセトの滑らかな毛並みを撫でつつそう聞き返した王女に、ヘブはニヤリと笑って、セトはもう彼女の兄といってもいいくらいの年だなのだと告げた。
岩のように厳ついご面相のヘブは馬のことしか語らない。王宮の噂話も、ケメトの国中で何が起こっているかも、馬の持ち主であるファラオのことすら興味がないらしい。いつも黙々と厩舎で馬たちの世話をしているこの口数の少ない男は、王女が打ち明け話をする数少ない人間の一人でもある。
その彼は、お気にいりのセトの背に跨っても黙り込んだままの王女に、
《馬の性根ですら少々のことでは矯められねぇものなんですよ。どんなに大人しくなるように躾ても、気性の激しい馬は底のところでは変わることがねえ。まして人間ならね、どんなに変わってしまったように見えても、皮を剥いでいけばそのままの気性が眠っているもんだ…と俺は思いまさあ》
《じゃあ…姉上も…ううん…ひょっとしたら、ファラオもそうなのかしら?》
《そうでも何の不思議もねえと思いますがね》
 ヘブのその一言は王女の胸に深く刻まれた。
 人は見かけ通りではないと思うものの、進んでそう装うものは一体どんな心境なのだろうか。姉のあの激怒した蒼白な顔は、普段の彼女からは想像もつかない烈しいものだった。同様に、いつも陰気でそれでいて激烈なところのある義理の兄も、元々は朗らかで溌剌とした青年であった。あれらが彼らの本性だとして、そこから変わらざるを得ないのなら、彼らを駆り立てるものは何なのだろう…?
 突然、奥の扉が烈しく打ち叩かれる音がして、王女ははっと物思いから醒めた。
「誰?邪魔をするなといっておいたはずよ」
 不機嫌そうな主の声にもその音は止まず、王女は眉をひそめると席を立って扉を空けに行った。
「何の騒ぎなの?」
 扉を開けるなりそう言った王女は、そのままぽかんと目の前の人物に見惚れる。
 金・藍青・碧緑に玉髄の赤。
 絢爛豪華な光の洪水に圧倒されそうだった。彼女の胸には5連の首飾りが煌めき、薄青いぴったりとしたドレス。腰には金のサッシュを締め、肩からは長々と鬱金と藍で染めたマントを引く。そして、いつもは腰まで解き放った黒髪を筒型の冠のなかに全て納め、類い稀な美貌をくっきりと際立たせていた。孔雀石で縁取った切れ長の目がキラリと光って王女を見返した。
「あ…テティス姉上?これは何事です?」
 ようやく驚きから醒めた王女の一言に、ネフェルウルテティス王妃の優美な細い眉がくいと上がった。
「いまから重要な会議が開かれます。そなたにも《ナルカ》王家の一員として出席してもらわねばならぬ。今直ぐ支度して、わたくしとともに来なさい」
 見れば姉王妃の背後には、衣装箱や化粧箱を捧げもつ侍女達が控えている。それに目をやりながら王女は困惑したように
「ですが…わたくしは謹慎の身…」
「今ここでそれを解きます。さあ、押し問答している時間はなのよ。直ぐ支度をしなさい!」
 そう王妃は一喝し、妹を押しのけるようにして室内に踏み込んできた。呆気にとられたままの王女を侍女が取り囲み、あっという間に控え室のほうへ先導していく。王女はあれよあれよというまに、広間に立たされ部屋着を剥ぎ取られ、美々しい衣装で飾り立ててられていくのだった。
「さあ、それでいいわ。ちょっとこちらを向いてご覧」
 満足そうな王妃がそう声をかけたときにも、王女の顔からは困惑の色が消えていなかった。姉王妃と同じく緋と黄金の衣装を纏い、4匹のガゼルの頭部が載った金冠を締めて立っているというのに、王女はどことなく心細げな子どものようだった。
「そんな情けない顔をおしでない!しゃんと顎を上げなさい。あら…もう少し、紅を差したほうが良いわね…きりっと見えるように角を濃く描いておやり」
 王妃の指図に従って、背後に控えていた侍女が素早く立ち上がって王女に化粧を施した。それにもされるままで、王女は姉のいつにない勝気な表情をじっと見つめている。
 化粧直しが終わると、王妃はすっくと立ち上がって妹の頭の先からつま先迄じっくりと点検し、手を打ち合わせるとおもむろに満足げな微笑を浮かべた。
「さあ、それでよい。これなら何処に出しても恥かしくはないし、立派に王族として通るわね。では、行きましょうか」
「お…御待ちください…あ……会議といっても何の?」
 背を向けかけた王妃は、ゆっくりと振り返り、困惑しきった妹の綺麗に化粧をされた顔をしげしげと眺めた。その視線はどこか出来の悪い弟子を見る教師のようで、王女は内心どきりとした。久しぶりに顔を見せてくれた姉にまた突き放される――その不安は王女の足を竦ませる。
 だが、一瞬のちに王妃の怜悧な眼差しはふっと和らいだ。
「それはわたくしと一緒に来ればわかるわ。お前はわたくしがすることが判らぬといったわね?それは見せなかったから判らぬのです。今からそれをお前に見せましょう。お前にそれを隠しておくことは良くない事だし、事の是非はお前の頭で判断なさいな」
 そういって、王妃はすっと手を差し伸べてきた。
「過日のわたくしのご無礼をお許しいただけますのでしょうか…」
 かすれ気味の声で王女は恐る恐るいいさし、王妃はにっこと笑うと妹の手をとるなりきゅっと握った。そうやって目の前にたつ妹姫の顔は、自分の視線から僅かに下にあるだけで、随分と背が伸びていることに改めて気付いた王妃は、ちらりと苦笑しながら言う。
「いいのよ。お前と喧嘩できるようになって嬉しかったわ。それにしても、わたくしがあやして育てた子が知らぬ間に随分大きくなったものねぇ」
 その言葉は、いつものように深く優しい響きをもっていた。そして今までに無かった親愛の色も。王女は思わず顔を伏せた。睫毛が湿るのを見られたくなかったので。
 それを知ってか知らずか、王妃は妹を抱き寄せるとこつんと額をつけて
「さあ、胸を張って堂々としていらっしゃい。ネフェルキヤ、これからお前はわたくしとともに戦場にいくのだから」
「戦場!?」
 不穏な言葉に思わず顔を上げてしまった王女は、そこに毅然とした別人のような姉の顔を見た。
「そうよ。刃を打ち合わせて血を流すのが男の戦なら、わたくしには別の戦場がある。今日はその日よ。お前もよく観ておきなさい。いつか、来る日べきお前の戦の日のためにね」
 王妃はいといも優雅な仕草で長いスカートの裾をさばくと、王女を促して扉のほうへ歩み出す。そして ネフェルキヤ王女も、深呼吸すると決然と顔をあげて姉のあとに続いたのだった。

 同じ頃、中部エジプトにの第3ノモスのレイヨウ州にある小さな農村で、戦乱の火の手が上がった。
 それを遠めに見遣りながら、桟橋に立つ老人はくるりと背後の孫を振り返った。
「いいかミヌーエ、ここからはお前がこの船の主だぞ。お前ももう9つだからこれくらいの差配はできなきゃならん。とにかく急いで川を渡って、イフナシヤまで下るんだ」
「はい、じじ様!」
 そう勢いよく応えたものの、少年の顔はさすがに緊張で引き攣っていた。無理もない、物心ついてからこの村から出たことはなく、初めての大旅行が命がけの逃避行となったのだから。それでも、父譲りで近年めきめきと背が伸びつつあるミヌーエ少年は、きっと口を引き結ぶと利口そうな眼で
「かならずチェヘヌ(リビア)にいる父上の軍に合流してみせます。だから、じじ様も早く来てね」
 孫には甘いイフナクテン老人は、僅かに目許を和ませると
「ああ、きっとお前達を迎えにいってやるからな、父上にトロトロしとるんじゃないと伝えておけよ」
 ミヌーエ少年は、がっちりとした祖父に抱きつくと
「絶対だよ!約束したからね、じじ様、ね?」
 孫の柔らかい巻き毛を撫でながら、イフナクテン老人は力強く頷き
「よしよし、約束する。心配するな、じい様はなこれでも昔は優秀な指揮官だったんじゃ、反乱軍の有象無象などに負けるもんかい」
「でも本当に気をつけてくださいね、お父様」
 息子と父親の別れを傍らでじっと見つめていたナフテラが、さすがに心配そうに声をかけた。普段は温和な彼女の顔も、悲痛に歪んでいる。ナフテラもまた旅装束に身を包み、きっちりと頭を覆ったフード姿だった。そんな娘の頬に右手を差し出すと、今にも湿りそうなそれを優しく叩き
「こりゃ、そんな湿っぽい顔をしていたらミヌーエが心配するじゃろうが。お前は旅は初めてじゃないんだから、万事まかせたぞ」
「ええ、そりゃ大丈夫ですけど…」
 そう言って、ナフテラは桟橋に繋がれた中型船に視線を走らせる。既に帆を張り、出発の準備は整いつつある。甲板にはとりあえず持ち出せるだけの家財道具と、腕の立つ護衛兼召使の男が数名いそいそと荷物の搬入に追われていた。葦で編んだ船室からは、奴隷女が水や食糧などこまごまとしたものの最終点検に余念がない。ナフテラがそれを監督しなければならないのであるが、父親が見送りに出てきたので一先ず船を下りたのだった。
「バハリーヤ・オアシスを目指すのなら、なにもイフナシヤまで下らなくたって、手前のサコで上陸してもいいんじゃないかしら?」
「いやそれはいかんぞ。あのあたりはかえって州軍の眼が届いていないから、安全は保障されとらんのだ。面倒でもイフナシヤまで下るんじゃ。この船は一応、メヘト侯の印章管理官の縁者の船ということになっとるから、いざとなったらそれを使え。だが、矢鱈と使うなよ。特に王軍崩れは気が立ってるからな。上陸後は、商人のイリホルを頼ってオアシスへ向う隊商に入れてもらえ」
「はいお父様。じゃあ、そうしますわ。メヘト侯のほうの首尾ははいかがですの?」
「なかなか難しいわい。メヘト侯も迷っておられる。大昔に、大宰相まで出した家柄の侯としては今更、成り上がりの州侯に頭を下げるなんざためらうものがおありなんじゃろう…だが、今度の反乱軍との戦、そして王軍崩れの盗賊の跋扈にはもう成すすべがない。結局、背に腹は替えられぬってことになるだろうな」
「お父様のお若い頃の経歴が思わぬところで役に立ちましたわね」
 苦笑いする娘に、老父は皺だらけの顔でニヤリと笑った。
「今度こそ父親を見直したか?」
 そして、二人の会話を真剣な顔で聞いている孫の顔に視線を戻すと、娘に良く似た涼しい目許を下げて
「お前たちの為に、ここを安全な地にしておいてやろう。だからな、母上を頼んだぞ」
「はいっ」
 もう一度ミヌーエは勢いよく頷くと、腰のベルトに挿した短剣をぎゅっと握った。それは一昨日祖父から譲られた大事な彼の剣。その姿に目を細めながらも、忽ち厳しい顔に戻ったイフナクテンは、綱をとる船頭に大声で合図を送った。
「もう時間がない。出ろ!中州でウエニ殿の船団を待って一緒に河を下るんだ」
 ナフテラは一瞬口許を歪ませたが、直ぐに、きりりと唇を噛んで息子を促した。
「さ、ミヌーエ、行きましょう」
「はい。母さま」
 ミヌーエ少年は、もう一度名残惜しそうに祖父を振り返り、じっと老人の顔を見つめたまま船員に助けられて甲板へ上った。ナフテラが最終点検を素早く終えると、船頭が後方の漕ぎ手に合図を送って一気にもやい綱を切り落とす。
 全長   キューピット(12mほど)の中型船は、忽ち背に風を受けて桟橋を遠ざかってゆく。
 少年は川岸側の船縁に走り寄ると、桟橋に佇んで見送る祖父に大声で呼びかけた。
「じじ様!帰ったら、また釣りへ連れて行ってね!」
 それに応えて、老人の太い腕が上がった。だが声は最早聞こえない距離である。
「聞こえたよね?」
 背後に立つ母親を振りかえって、小さく尋ねてみる。
「ええ聞こえたわ。ほら、また手を振ってる」
 母親の声が僅かに揺らいだように思えた。何となく母の手をとってぎゅっと握り、力いっぱい揺さぶってみる。
「大丈夫、僕がきっと父様のところへ連れてってあげる!それに、父様のところに行けば、アヌイの殿にも会えるんでしょ?僕を覚えていて下さるかなぁ」
「そうね…覚えていて下さるといいわね」
 ナフテラの声は今度こそ涙声になっていた。
 それでも、息子を抱き寄せると川岸に立つ小柄な父親の姿が見えなくなるまで、いつまでも手を振りつづけるのだった。
 8年近く馴染んだ故郷の村が遠ざかってゆく。
 これだけ離れると、あたりの荒廃の様がはっきりと判って、彼女は改めて身震いした。
 数ヶ月前、王軍の大部隊が河を下ったかと思うと、間もなく、下流のサッカラで大きな戦があったという噂が伝わってきた。王都が最後の兵力を投入した2万の兵と、今やアヴァリスとヒクプタハを拠点に下エジプトを制圧したアアム・ワァルト侯率いる反乱軍が2日にわたる決戦を繰り広げたのだ。戦況はワァルト軍の辛勝に終わり、総崩れとなった王軍はてんでに壊走した。その結果、ファイユームあたりは王軍崩れの盗賊が跋扈する状況となり、上そのあたり一体を支配する上エジプト21ノモス及び22ノモスの州軍および州侯が虐殺されるに至り、境を接する中部エジプト諸侯も事態を安閑と眺めるわけにはいかなくなったのである。
 頼りの王軍からの援軍は最早絶望的で、自軍で治安維持を図らねばならなくなったこれらの諸侯は、急遽自警団を組織しはじめた。
 そして、その流れはイフナクテン一家が暮らす上エジプト第16ノモス・羚羊(メヘト)州にも及び、先日メヘト侯は州軍を増強すべく志願兵を募集し始めたのである。
 いままで比較的長閑であったこの地も、時折、非道な盗賊団の襲撃を受けて一村が壊滅するという事態がおこっていた。つい先だっても、近隣の荘園がそのような仕打をうけて大量の被害者が出たばかりである。領民達は震え上がった。
 イフナクテン老人は、近隣の村長を集めて協議を開くと若者を組織して独自の自警団を作ることを提案し、州侯にも許可を得てその長となった。それと平行して、村の女子どもは余力のあるうちに、比較的静かな西へ避難させるべく少人数にわけて移動をさせることを決定したのである。
 というのも、今まで劣勢にたち、ワァルト軍に大緑海沿岸に追い詰められていると聞いていた西メフウの諸侯が、西から勢力を盛り返しつつあるとの報告を手にしたためであった。
 イフナクテン老人の娘婿にして、孫のミヌーエの父、ケネプはその軍の主将の一人である。そして、彼が仕えるイメンテト(西州)侯は一時失踪したと噂されたが、今は間違いなくリビア沙漠のオアシスに点在する族長を纏め上げ、そのオアシスの一つに陣を張って勢力奪還の機会を伺っているのであった。
 そのことが確かだと判ったのは、数ヶ月ぶりに、ケネプから義父のもとへ書簡が届いたからでもある。ケネプは現在の戦況を細かく記した後、妻と子のことを切々と舅に頼んでいた。
それを読むなり長々と考え込んだイフナクテン老人は、娘のナフテラに夫の許へ行くように命じたのである。ミヌーエの為にもそれがよいと言う父に、ナフテラは無精無精頷くしかなかった。どのみち、兵士として人手を徴集されては農園は維持できず、ここまで治安が悪化している現在、この村もいつまで安全かわからない。
 ナフテラは決断した。
 小作人たちに十分な手当てを分け与えた後、とりあえず、あとは父に託して息子と一緒に夫の許へいく旨を伝え送り、数日前に、ケネプからバハリーヤ・オアシスにいるとの手紙が来たのである。
 彼女は迷わず行くことにした。
《これから、ヒクプタハを奪回するための戦が始まる。多分、凄まじい戦いになるだろう。その前に、お前とミヌーエに会っておきたい》
 滅多に妻を不安がらせるようなことは言わない夫にしては、珍しく切羽詰まった文面だった。それを読んだことが、彼女の背を押したのである。
 シェムンの村を離れること、彼女の心血を注いだ農園を手放すことは身を斬られるように辛かった。父親とここで別れればももしかして、二度と逢えぬかもしれないという不安が彼女を震わせた。
 それでも…やはりケネプに逢いたい!ほぼ三年近く顔を見てない、息子の大きくなった姿を見せてやりたいのだ。そうして、彼の角張った顔が嬉しそうに輝くのが見たい。
「今いくわ…待っていてね…旦那さま」
 母親をじっと見上げているミヌーエに気がつき、ナフテラはくすんと鼻を啜って、にっこりと笑いかけた。
「さあ、もうすぐ中州へつくわ。今まで見たことがないくらい沢山の船がいるわよ。そのなかに混じったら、お父様の許へ行けるの」
 力強く言い聞かせるように彼女は語り、胸に下げたベス神の護符を無意識にぎゅっと握った。それは、昔、夫から送られたささやかな、だが思い出の品である。薄い緑のファイアンス製の首飾りは、幸福を運ぶものとしてケメトの国の女には人気があった。
 東の沙漠で採れる貴重な緑柱石(エメラルド)には手が届かない庶民は、こうしたものでせめてもの幸運を逃すまいとする。それもまた、人の想いを映す真実なのだ。


 そして、それから20日ほど過ぎたジェドカラー王の治年第5の年、シェムン(収穫季)の2の月9日。バハリーヤ・オアシスを出発した部隊は、一気に北上して西からヒクプタハの城壁に迫った。

 

 竪琴の歌(石上玄一郎氏訳)


本日夕刊で、作家の石上玄一郎氏の訃報を知りました。
享年99歳。
氏の小説はほとんど読んでいませんが、私にとっては「エジプトの死者の書 宗教思想の根源を探る」(人文書院)の著者として忘れ難い方です。
この著作がアカデミズムの世界ではどのように評価されているのか知りませんが、私にとっては古代エジプト人の宗教観というものが現代日本人から特別隔絶したものではないのかもしれない、と身近に考えさせられた本でした。

特に、この本に収録されている詩で、古代エジプトで実際に歌われたという「竪琴の歌」の訳文が好きでした。
考古学者が訳すとどうも説教臭く、堅めで宜しくない。
しかし、この石上訳はリズムがあり、音楽があり、なにより時空を感じるせいか、いまでも時折口ずさむこともあり。

現身は消えゆけど ここに消えぬものもあり

    いと古き神々はメルに憩う

     高貴にして栄光に輝く人々はメルに留まれど

      かつて在りし日人々の姿、今はなし 
     
       彼らいかになりしや




   その昔の賢者は誰そ

   イムホテプはたハルデブブなるその言葉

    まねびて人々は語る

     昔日の館、今いかになりしやと 

      檣壁は砕け園は朽ちて跡形もなし

      あたかも彼ら未だ嘗て在らざりしが如く 彼ら、いかになりしや

       彼ら今、何を憂い何を望まんとするや

        彼らは果たして安らぎに至りしや 知るひとぞなし

         彼らの行きし国に、われらもまた行き着くまでは…


石上氏は太宰治とは旧制弘前高校時代の友人だったという追悼記事に驚きました。
もしかしたら今頃「彼らの行きし国」で久々に旧友と再会をしているのかもしれませんね。

何はともあれ、心からご冥福を祈ります。

15. 水満ちるとき


「ホリの旦那、あのお客人は大丈夫かねぇ…」
 潮風と太陽で赤銅色に焼けた顔を心配そうに顰めながら、船長はそうホリに声をかけた。
 だが、自分の目の前に広がる光景に目を細め、くんくんと鼻を鳴らして嬉しげなホリ老人は返事をしない。
 薄紫の水平線がゆるやかに弧を描いて両端で消えゆく、その景色の簡素雄大。いつもなら、両側に見え隠れするはずの淡褐色の岩肌も、沙漠の赤い稜線にも遮られることはない、紺碧の海原。
 何より、馴染んだ泥臭い水辺の匂いとは明らかに異なる、強い潮風を胸一杯に嗅いで、ホリは感に堪えないといった声で
「ああーーーいいねえ、やはり海に出ると安心するね。それにこの匂い!懐かしいぜ」
「だったらあんたも戻ってくりゃあいいのに。花屋の商売は息子に譲ったって聞いてるぜ?」
 鷲鼻の目立つ強面の船長は、合点がいかないといった顔でそう問い返した。
「花屋はやめた。だがこの稼業はワシが死ぬまで抜けられねえんでね」
「ははーーん、だからあのお客人をわざわざ見舞いにこんな海の上まで来たってわけかい?」
「そういうわけよ。あのお人はどんな容態だね?」
「ひと月前に担ぎ込まれてきたときは、体力が落ちきってて一時は危なかったんだが、なんとか持ち直したよ。あんたが付けた医者の手当てもよかったしな。だが、それからがいけねえ…」
 船長はふうと溜息をつくと、ホリのほうに向き直った。
 二人の頭上にはやや西に傾いた太陽がギラギラと照りつけていた。彼等は、帆柱の真下に座り込んで遠くの水平線をぼんやりと見つめながら話を続ける。
「いけねぇってなぁどういうことだ?元気になったって返事だったぞ」
「確かに体力のほうは持ち直したし、飯も食うようになったよ。ちゃちな河舟しか乗ったことねえケメトの男にしちゃあ、この海に出ても寝込むでもないしね。だけど、アタマ――というか心の中がまだ病のままじゃねえかなあ。目が据わってんだよ。水夫(かこ)の小僧っこどもなんざ怖がって絶対あの人の部屋にゃ近づかねえし、俺が話し掛けても滅多に返事をしねえ」
「へえぇ……あのお人は、そりゃあ人好きのする男のはずなんだがね」
「そうかい?じゃあ、あんたがその目で確かめてみろよ…そら、噂をすれば出てきなすった」
 そういって船長が顎をしゃくった先に視線を転じて、ホリは一瞬目を見開いた。
(これはこれは……思った以上にヤベェかもしれねえな)
 彼らが現在乗っている船は大型の外洋船で、後部甲板には船体中央に二階建てになった甲板室があり、二人の頭上には巨大な四角い帆が潮風をうけてはためいている。帆柱のてっぺんから甲板梁へくくりつけられた幾本もの麻綱は、澄みきった青空を縦横無尽に切り取り、柳葉形の甲板に複雑な幾何模様を描き出していた。竜骨がわりに甲板上に縦に渡した太い綱に触れぬよう、軽やかな足取りで、作業中の少年水夫たちがすり抜けていく。ただ今は、海風を受け、漕ぎ手たちも船底で一休み中とみえ、30名弱の乗組員もまばらにしか見えない。帆柱の上の見張りは無言で前方を注視し、ピクリともしない様はどこか彫像めいている。船尾にある葦を編んだ筵で囲われた甲板室、つまり船長とホリが坐っているあたりから眺めて後方部分は、海風に焼けた甲板の色とは対照的な彩りが眩しい。
だが、その甲板室の扉を開けて姿を見せた男はそれとは対照的な顔色だったのだ。
 痩せた――というほどでもなく、まだ生来の頑丈そうな体格を保っていたが、どこかげっそりと憔悴したといった雰囲気を漂わせている。それは、すっかり彼の顎全体を縁取ってしまった無精鬚のせいか、それとも褐色のうなじを覆い隠すまでに伸びてしまったやや癖のある黒髪のせいとも。かっと照り付ける陽の光さえも、彼の下ではひときわ濃い翳と化す。
そして何より、彼の放つ雰囲気はびりびりと張り詰め、尋常でない殺気を醸しだしている。
その男がこちらを振り向いた途端、ホリの姿を捕らえて立ち止まった。
 ホリも悠々と彼を見つめ返す。
 とっくりと品定めをする商人の目を跳ね返すのは、相変わらず強い光を放つ黒い眸子ではあったが、その中には以前には見られなかった紛れもない敵意が感じ取れた。雰囲気に相応しい凄みのある声で、男がホリに言葉を投げる。
「やっと来たか。お前たちがそろそろ何か言ってくると思っていたぞ」
「そりゃよかった。じゃあ、あなたもやっと決心がおつきになったってわけですね。アヌイ様」
 ホリが坐ったままアヌイを見上げてにっこりと笑った。
 そのいかにも愛想のよい百戦錬磨の商人の笑みこそ、悪神めいたアヌイの殺気とまともに刃を合わせるに相応しいものであろう。
 船長は心得て、そそくさと席を立って水夫たちに指示を出すべく船首のほうへ去っていった。
「お前は船乗りだったのか、ホリ?」
 つかつかと歩み寄ってきたアヌイは、ホリの真向かいにどっかと腰を下ろすなりそう尋ねた。
「おやおや、わしらの話を盗み聞きしてらしたんで?そうですなあ、ざっと50年くらい昔の話ですよ。北航路を行きかう船の乗組員でね、親方にしごかれて、そりゃあちこちいきましたよ」
「いつ黒土(ケメト)へ?」
「17になったばかりの時だったかねぇ。ふっと、あの街へ揚がった途端、帰れねえようなことになっちまってね」
 ホリは、ターバンを解いてだいぶ白くなった短い頭髪を露にした。そうしてアヌイを見返す皺深い顔は、見慣れたテーベの老獪な大商人ではなく、日に焼けていかにも海に馴染んだ老船員のようにも見える。
「生まれはどこだ?ずっとケメトのものだと思っていたが、そういえばお前の顔は何人にも見えるな」
「生まれは海の上さね。わしの父親はケメト生まれだったそうですよ。母親のことは…さぁ…だれもワシに教えてくれなかったが、おおかたプントのあたりの人間じゃねえですかね。どっちにせよ、記憶にないから詳しいことはわからねえやな」
「そのお前が、見事にウアセトで成功して大商人になった。――いや、それも全てはあの祭司長の差し金か?お前ほどのものがずっと操られていたとは意外だが」
 アヌイはホリの顔から目を離さない。だが、ホリはゆったりと腕組みを説いて背を帆柱から離すと、大きな鼻をこすりこすり
「あなた様はどう思っておいでか知らねえが、ワシは確かに『プタハの僕(しもべ)』として契約はしたが、それは生きる為というだけのことでしたわい。もっとも、あれらは道具にするにはあまりに危険で、わしが操られていたという面はあることはある。だが、それがどうかしたかね?」
「…なに?」
「身分も財産も後ろ盾も無い、20歳そこそこの若造が見ず知らずの異国で、徒手空拳で何かを始めようと思ったとき、偶々つかんだ手づるを使って這い上がろうとするのがどこが悪いんだね?そもそも、プタハ神殿はウアセト(テーベ)に幾つも拠点を作っていたのが、そこにあるとき下っ端として放り込まれたのがわしだったというだけのことですよ。そこから先は、運がついていたとしかいいようがねえ。」
「お前はプタハのお蔭で、とは言わぬらしい」
 おそらく嫌味と思われるひと言葉を耳にしたとたん、ホリは肩を揺すって哄笑した。
「如何にも千の神々の王国のお人に相応しい言い草だぁね。わしにとっちゃあ、未だに、神なんぞこの――と、老人は拳で船板を叩き――板の下に御座っしゃるという天候と運命を操る海の神くらいしか想像できねえ。プタハ・アメン・ラー・オシリス・イシス…何と呼ぼうと同じことじゃねえですかい?このへんの船乗りなら、それをフゥトホル女神と呼びますよ」
「ああ…そういえば、デンデラのフゥトホル神を『メフカト(トルコ石)の貴婦人』というな、確かに船乗りが崇めるに相応しい幸運と破邪の女神というわけだ」
「17のわしは、あの時、自分で自分の未来を切り開いてみたいと思った。そのために、多少誉められたもんじゃねえこともしたが、所詮、おのれは海の神の手の上を漂う塵芥のようなもん
だ。ひとりの人間のできることなんざたかが知れてる」
「では、ここで私に刺し殺されても後悔は無かろう」
 眉一つ動かさないアヌイは、声も全く調子を変えてはいない。
 だが、落ち窪んで周囲が黒ずんだ目には、一瞬白刃めいた物騒な光が浮かんだ。
「気短なお人だねえ。まあワシの話をお聞きなせえよ。あなたの軍がどうなったかくらいご興味ないんですかい?ここがどのあたりかも?それに…お嬢さまのことはどうです」
 最後の一言に、アヌイの視線が僅かに揺れた。そして、益々声が凄みを帯びて低くなる。
「お前らは…俺の娘を、アイシスをどうしたのだ!」
「ちゃんとした乳母をつけて、安全な場所でお預かりしておりますよ。あの赤ん坊があんたの娘だということは、乳母以外の誰も知りませんから、命を狙われる危険もとりあえずはねえでしょう。そうそう、そのことで、メリトゥトゥ様からご伝言を預かっておりましたわい」
 アヌイの瞼がピクリと引き攣ったのを見て取って、一旦言葉を切ったホリはまた穏やかに 
「御方はこう仰せになりました。『我、ナスリーンの最期の望みを叶えん。そなたの娘アイシスを当神殿で庇護し、神官の教育を施し、俗界のいかなる者にも危害も加えさせぬことを誓う。我が神セケルの名に賭けて。これだけは、そなたの返事如何に拘わらず誓約すると伝えよ』と。ナスリーンさまのことは本当にお気の毒なことでしたな。あの方の御遺骸もまた、安全な場所に移されておりますから、ご安心を」
 それを聞いた途端、アヌイの口が思いっきり皮肉っぽく歪んだ
「あの男の口から出た誓約なぞ、誰が信じられるか!!」
「お言葉を返すようで恐縮ですがね、あの御方が『セケルの名に賭けて』と仰ったのなら、わしらのような口からでまかせで世を渡る商人の言葉とは重みが違う。アメン神官の訳知り顔の説教とも違うもんなんですよ。御方はヘリ・シェセタァ(秘密に通じた者)でわしらとは別の眼で世界を見ておいでですからね。お嬢さまの安全はどこよりも保障されたと考えていいでしょう」 
「ふざけるな!我が娘の命と引き換えだろうが何だろうが、私の矜持は売らぬ。アイシスのためにお前たちの手先になると思ったら大間違いだぞ!お前の息子もあの時、きっちり縊り殺しておくべきだったわ!!」
 途端、ホリが鼻で笑うようにして吐き捨てた 
「へぇぇ、くだらねぇな、全くがっかりしたわい!もう少し、器量のある男だと思っていたが、まるで青臭えガキのような寝言を抜かしやがるわ」
「何だと!?」
 アヌイの眼がすっと細くなり、僅かに腰が浮いた。しかし、いっこうに動じぬホリは、気色ばんだ相手を頭の先から床においた指先までしげしげと眺めわたすと
「おっとこりゃ失礼を。でもね、将軍、この船の上じゃあんたは唯の病み上がりだ。そこから海へ飛び込んでも、ケメトにたどり着く前に溺れ死ぬしかねえよ。まして、この船の者はだれもあんたの命令には従わねえからね」
「やってみねばわからんぞ」
 肩膝突いて今にも飛び掛りそうな男の怒りをついと手を上げて遮り、にやりと見返したホリは愉快そうに
「やっぱり、あんたはかなり諦めの悪いお人だね。結構結構。だがらこそわしはあんたを今まで援助してきたんだよ。だが、ただの無謀は感心しねえな。そんなことはおおよそ慎重家のあんたらしくないだろう?この海の上じゃあ、生きるも死ぬも海の神の御意志次第、いわば素のままだな。そしてわしもここじゃあ王都の商人でもなきゃ、プタハの僕でもねえ、唯のじじいの船員あがりだよ。わしとあんたがこうやって話すのはこれが最初で最後だ。だったら、妙な気取りは捨ててじっくり話をしてみる気はねえですかい?」
 ホリは膝に投げ出してあったターバンで悠々と汗を拭うと、アヌイに向って、西の海上の遥か先に顎をしゃくってみせた。
「ここがどのへんか、船長から聞きましたかい?」
 アヌイは剣呑な表情を崩さない。しかし、先ほどのホリの一言が、僅かに効果があったのか、いつしか彼は再び船床の上に膝を組んで坐りなおしていた。二人の頭上で、筵織りの巨大な帆がはたはたと軽快な音を立てた。
 それをふっと見あげて、しばし海を見遣ったアヌイは、黙って見つめるホリに視線を返して口を開く。
「知らん。海の色からして、ワジ・ウェル(大緑海)でないらしいが」
「まあねえ、あんたは多少星は読めるらしいが、眼が醒めたらいきなり海の上じゃね。ここは、シナイ半島のワディ・マガラの鉱山の近くを通り過ぎて、あと3日も南下すれば右手にサウウ港が見えるってあたりですよ」
「そうか…やはり赤の海だったか…下の海にしては航海の季節が違うと思っていたが…」
 アヌイの呟きにホリは黙って頷いた。
 ケメトの民は、現在のアラビア半島とケメトの間に広がる狭隘な海を、古来『赤の海』と呼び習わしてきた。これに対し、『下の海』とはペルシャ湾からアラビア海のあたりのやや広い地域を指す言葉である。エジプトにやってくるバビロン・エラムなど東国の商人たちは、一般的に二つのルートを取るとされていた。即ち、ティグリス・ユーフラテスの二大河沿いに北上し、ビュブロスなどの地中海東岸都市から出る船で下エジプトに入るか、あるいは、隊商を組んで砂漠を横断し、シナイ半島を経由して同じく下エジプトに入るルートである。
だが、ティグリス・ユーフラテスの河口から南回り航路で下の海を抜け、アラビア半島沿岸を迂回しつつクセイル港目指して北上してくる商船の存在も、昔から知られていた。王家がシナイ半島のティムナ渓谷に銅山開発を始めてからは、とくにこの赤の海を行きかう船の数が増えた。
ただ、専ら季節風に頼って航行せねばならないため、これらの船も航海の季節は限られており、実際のところは北上ルートほど利用されてはいない。現在の季節風は、北西風である。これによってシナイ半島側を発した船は南下することができるのだった。クセイル港は、守護神ミンを戴く都市コプトスを起点とするワディ・ハンママートの海上の出口であり、プントへ派遣される船団はここを母港とする。サウウ港はそのクセイルよりもやや北にある同様の港町で、ワディ・エルガススと呼ばれる隊商路を使ってエジプトに入れば、ハトホル神殿で名高いデンデラに出ることができる。
そういったことを想い描きながら、アヌイは足を組み替えながらホリに問いかけた。
「ではあれから直ぐヒクプタハは陥落して、お前たちは意識の無い私を運び出して海へ?」
「さようで。なんのかんのと言っても、船の上までワァルト軍が追っかけてくることは出来ねえからね。奴らは主にケフティウ(クレタ)の商人と結んで、北航路を押さえるには熱心だが、そのぶんこの赤の海には目がむかねえ――というより、奴らは手が出ねえ。何しろ、ここはずっとケメトが支配してきた海だから」
「そういえば、はるか昔、この国がまだ形作られぬ頃、隼を戴く一族が海の向うからやってきたという伝説があるな。デンデラにフウトホル女神が御座すのもそれに由来すると聞いたことがある」
「メフカトの貴婦人は、ホルス神の妃ですからね。それにケメトの土地は、いわるほど閉鎖的じゃねえ。南からも北からも、そして西の大砂漠からも今も昔もどんどん人が流れ込んできたわけだ」
「だが不思議と民の気質は変わらんな。流民の末裔が自らの国を誇り、他国を貶めてきた。それにしても、王家の船団は、内乱のなかで随分失われたはず…ここ数十年はプントへの使節も派遣されていないと聞いているぞ?」
 だんだん興味を向けてきたアヌイの様子に、話の流れを寸断させぬよう、ホリはあくまでさり気無く続けるのだった。
「プタハの神がなんで『職人の守護者』って言われるか、あんたは考えてみたことねぇですかい?船の持ち主は王家や大神殿でも、それを作るのはほとんどヒクプタハの船大工だ。船員も大工も大体はヒクプタハの親方のもとで見習いをはじめて段々と熟練の者になってゆく。とすると、 
船がだれの所有であれ、ケメトの水運を実質的に動かすのはヒクプタハ出身の者たちってことになるんですな。そして…」
「ああ…そして、そいつらは大体親子代々、子弟代々、プタハ神殿の息がかかったものだというんだろう。だったら戦のどさくさまぎれに、船の一隻や二隻は易々とちょろまかしてのけると」
 アヌイは目を閉じたまま、船縁の柵にもたれてそう言葉を継いだ。
彼の面からは先ほどの激情は綺麗に消え、再び押し殺した殺気とも呼べるものが漂い始めている。だが、ホリには僅かながら事態が動きつつあることを肌で感じ取っていた。それは、商人としての、いやそれ以上に、潮風を読む船乗りとしての勘のようなものであろう。
「そうそう、そういうことってす。今、ワァルト軍はアシュートの手前まで迫ってるということだが、肝心の首領がアヴァリスから動こうとしねえ。あんなに指揮線を延ばして大丈夫なのかねえ。ヒクプタハには甥の将軍を置いてあるが、こいつがあの港に火をかけるなんてことをする馬鹿でね。おおかたケフティウの商人どもが焚きつけたんだろうが、あそことアヴァリスの港じゃあ規模といいのちのちの便宜といい、お話にならねえことくらいわかるだろうに。戦利品欲しさにやることっていったら沙漠の盗賊も真っ青だよ」
「…ケネプたちは元気か」
 アヌイはぽつりと呟くように言った。
「何とかね。西メフウの連合軍は今じりじりとチェメフ(リビア)のほうへ追いやられつつあるが、サイス侯や頑固なブトの大公あたりとまだ頑張っておられますよ。あんたがいなくなってふた月は経とうっていうのに、あんたはまだどっかで生きていると信じて部下を纏めていなさるってこった。泣けますね」
「そうか……皆…まだなんとか戦っているか…」
 アヌイは遠く遥かな西の空へ視線を投げた。そうして顔を背けた横顔を改めて見直すと、病でげっそりやつれていた頬に、濃い陰翳が掃かれ、別人のように陰気な顔立ち見えることにホリは内心驚くのだった。
 さすがに口を噤んだホリだが、油断の無い眼差しはアヌイの顔から離そうとはしない。だが、さすがに次の一言には絶句した。
「なぁホリ。わたしでも海賊くらいにはなれるだろうか?」
「はぁ?今、何といいました?」
「海賊にでもなろうかと言ったのだ。こうして潮風に靡かれていると、このまま南なり西なり、どこへでもきままに流れていくのもいいのではないかと思えてな。プントというのはこのずっと南の国だそうではないか、お前の母の国なら見てみたいと思ったことはないか」
「アヌイ様…あんた…」
「おまえの例の雇い主が、わたしの娘を生涯保護してくれるというなら、わたしには気がかりなこともなくなった。あれの母は娘をイシスの御神の膝元で育てたいと願っていたから、その願いを叶えてやれるしな。ケネプもこれ以上わたしの消息が掴めなければ、さすがに諦めるに違いない。とすれば、わたしをケメトに縛り付けるものは何も無いというわけだ」
 アヌイはすっと立ち上がると甲板の手すりのところまで歩み寄り、背を持たせ掛けるなりまたくるりとホリのほうを振り向いた。彼のやや大き目の口許がくいと吊り上り、微笑の形をとった。
「そうだ!わたしはずっとこうしたいと思っていたのだ。どこまでも景色のかわらぬ、息の詰まるようなあの国、昔の王の栄華に憑かれた頭の固い連中がのさばる国を出て、どこか…どこか何にも繋ぎとめられないところへ行ってみたいとな!」
 頭上の碧空を振り仰いで、アヌイは叫ぶようにそう言った。ホリにはそれが解放を願って止まない囚人の嘆きにも似て聞こえた。彼の独白にはおそらく偽りなどないだろう。今や、アヌイの捕らえどころのないふざけた風情の外殻は綺麗に剥がれ落ちた。彼は心の底に仕舞い込んだ苦い思いを持て余し、行く先がわからなくなっているらしい。
 ホリの大きな目がきらりと光った。
「本気でそんなことを仰るんですかい?」
「ああ。本気だぞ」
「確かにあんたならその器量で直ぐに手下を集められるだろうし、海賊のほうが向いているかもしれねぇ。やることっていやあ、あんたが今までやってたことと大して変わりゃしないしね」
「だろう?ずっとこのまま南下して、クセイルもネケンの首も通り過ぎプントへ、そしてそのまた先の海の果てへ行ってみるのも悪くない…地の果てへ、ヌンの海をもみてやろうよ!」
 そういって彼はまた頭を仰け反らせてからからと笑った。だが、その愉しそうな声音にも老獪なホリは誤魔化されなかった。
「でも無理ですよ。あんたがいくらそうしたいと思っても、セシャトの女神があんたについて書き記したという文書にはそんな予定は入っていないでしょうよ。何より、あんたは心の底ではそんなことは望んじゃあいねえな」
「なぜそう言い切れる?お前も予知者か」
 からかうようなアヌイの態度に、ホリはすっと表情を引き締め、彼もまた立ち上がった。長身のアヌイに比べ哀れなほど背の低いホリだが、恰幅のよい身体に腕組みして睨みつける様は、堂々として一歩も引かないといった迫力を放射した。
 そして、アヌイを睨みつけたまま彼は続けた。
「こんな簡単なことがわかるのに何の才能が要るかね?あんたはみっともねえ真似はお嫌いな人だ。っていってもそれは、人の信頼を裏切ったり、人を手玉に取ったりするのがみっともないっていうんじゃねえ。そんなこともできねえヤワなやつこそわしは軽蔑してきたからね。あんたもわしと同じで、実は『高潔』なんざワニの餌にでも呉れてやるって人間だろ」
「はっ、利いた風な口を…」
「やかましい!」
 嘲笑しかけたアヌイを、ホリはその大喝で黙らせた。
「じゃあ聞きますがね、自分にゃ出来ねえと目を瞑って尻尾を巻いて逃げたりすることがあんたに出来ますかい?あんたが望むと望まぬとに拘わらず、あんたにここまでケメトの運命が関係してくるってことは、あんたの運命の星はケメトでしか輝かないっていう暗示じゃないかね。それが恐ろしくて、逃げても結局あんたは一生自分を蔑みつづけて苦しむでしょうよ。それに耐えられるのかね?」
 アヌイの濃い眉が怒りで閃いた。
「このわたしが恐れているだと?」
「そうじゃなきゃなんだい?わしにはあんたが運命の分かれ目を目の前にしてビビってるとしか思えねえよ?こういうことに腕力や知力は関係ねえんだ。歳も、身分も、男だろうが女だろうが、それさえも関係ねえ。やるかやらずに逃げ出すか決めるのは人の…そうだな、ケメトの言葉でいえば、それは持って生まれたカァの程度によるんだな。あんたに逃げるって言わせるってことは、あんたのカァはその程度だって思って良いんでしょうな!」
 最後の言葉に、アヌイの顔が醜く歪んだ。まるで激痛を堪えているような凄まじい目で彼は一歩踏み出し、ゆらりと彼の周りの空気さえもが歪んだよう。
斬られる――と、ホリは観念したが、さすがに顔を背けるようなことはしなかった。
「お前のようなやつに何がわかる…」
 腹に響くような声で、搾り出すようにしてアヌイはそう毒づいた。
「お前のような満ち足りた顔の男が一番腹が立つぞ!!」
「そりゃどうも。だがそれはあんたが解決すべき問題でしょう。わしにはどうにもしてやれねえな」
 ホリは仁王立ちになったまま、びしりとアヌイの胸元に指を突きつけて
「最後にこれだけは言っておきますよ。あんたは野心家だ、そしてその野心こそがあんたの原動力で、あんたはそれに抵抗する力がないんだよ!なんでそれが分からねえんですかい?なにが原因が知らねえが、そいつを恥じるなんざ馬鹿げてるさね。あんたが産まれたとき、その魂を吹き込んだっていう七人のフゥトホル女神様も、今のあんたを見たらがっかりなさるよ」
「黙れ、お前こそ今更善人面して忠告か!」
「いんや。別にあんたが生きようが野垂れ死のうが、わしは痛くも痒くもねえんだよ、はっきりいって。わしが提示した条件を呑むか、さもなきゃ、海に放り出されて溺れ死ぬか、どっちでもお好きなほうを選びなせえ。ここまで粘ったあんたの根性に敬意を払って、死に方くらいは選ばせてさしあげますよ」
 アヌイの眼がかっと血走った。彼はブルブルと拳を握って立ち尽くし、そして、おもむろにホリにくるりと背をむけると、足早に甲板室のほうに姿を消した。

 その姿を黙って見送るホリの目には、どこか痛ましげな光があった。
 
 それから二昼夜、アヌイは自室に籠もったきりで一切外に出てこようとはしなかった、ホリもまたそんな彼をそのままにしておいた。それでいて、自分は船長と昔談義に耽ったり、見習い船員をからかったり、船具の手入れの早さを競い合ってみたりと、はなはだのんびりと過ごしていたのである。
 だが、その夜、乗組員のなかでも最も年若い見習い少年がぽろりと漏らした一言が、ホリに思い腰を上げさせたのだった。

「アヌイ様、ホリです。入りますぜ」
 筵を撥ね上げる前に一応そう断っておきながら、ホリはうっそりとした動作でそこへ足を踏み入れた。途端に、隅の暗がりから不機嫌そうな声がする。
「おい、そこ踏むな。せっかくの苦心の作だぞ」
 言われて足元を見たホリは、思わず叫び声を漏らさずにはいられなかった。
「こいつぁ…すごいな。あんたが描いたんですかい、これ?」
「他にすることもなかろうが――いいから、それ寄越せよ」
 壁に凭れかかるように座り込んでいたアヌイは、ホリが胸に抱えていた酒壺をひったくる様にすると、縁に直接口をつけてあおりはじめる。まさに咽を鳴らさんばかりに。船長からせしめたとっておきの葡萄酒壺がすっかり空になるのを横目に、ホリは自分の足元に広がる図形をしげしげと覗き込むのだった。船室といっても二人が並んで腰を下ろせば、すでに窮屈に感じられるほどの狭いものである。だが、月明かりに顕わになったものにはそんな狭さは意味をなさない。
 そこには、描き殴ったようでありながら、渾身の作であることは明白である地図――もちろん、正確な地形を反映しているとは言い難いものの、現在地、近郊の諸都市、隊商路に間道、オアシスに港、そして軍隊の配置まで詳細に描き込んであった。タールをどこから調達してきたのか、船板に直接描きつけたのだろう、あたりには真っ黒になった葦の切れ端の残骸が散らばっている。
州都、有力神殿都市と思しき場所にもなにやら印がつけてある。それらの意味不明な印も複雑に線が引かれて結ばれてあるのだ。
 ホリは腕組みし、無意識にうなり声を発しながら目の前のアヌイの力作をじっくりを自分なりに解読してみようとするのだった。そしてしばらく沈思黙考したのち、しみじみと
「いやはや、あんたがここまで事態を把握してるとは、正直驚きましたわい」
「べつに大したことではあるまい。お前も、お前の馬鹿息子も、あの男も喋りすぎだ。あとは少々頭を巡らせてみればよいことよ」
 まるまるひと壺空けたというのに、僅かな酔いの気配も見せぬアヌイは面白くもなさそうな声で返事をする。
「この西と南の△印は何の意味です?」
「いちおう、援軍か協力が見込める地といっておくか」
「じゃあ、あんたの答えは出たと思っていいんですね」
 ホリは、アヌイのほうに向き直ると声を改めた。
「どうなんです?あんたの答えを聞きたいんですよ、わしは」
 それに対し、月光が差し込む方向に視線を流したアヌイは、外の暗い海を見遣りながら
「船長はあとどのくらいでサウウに着くといっている?」
「風次第だが、このぶんならあしたの夕方には着けそうだって話でした」
 ぱっと振り返ったアヌイは真っ黒に汚れた顔で無表情に
「では決まりだ。私に手を貸せ、ホリ」
 どこまでも傲岸不遜というべき一声であった。さすがにホリは苦笑し
「あくまであんたが頭じゃなきゃ、この話はご破算だってことかね」
「私の他にお前らがあてに出来そうなのがいるのか?」
 そっけない返事を聞いて、ホリはまた複雑な顔で笑うのだった。
「残念ながらいないみてえだね。だから、正直言ってあんたを海に放り込まずに済むならそれに越したことはねぇってわけだ。で、あんたの側の条件を聞きましょうか」
「アイシスをわたしの許へ連れてこい。気色の悪い話はそれからだ」
「…わかりました。で、それだけですかい?」
 不審顔で問い返すホリに対し、アヌイはきっぱりと
「お前らがわたしの娘を絶対的に保護するという約定は、そもそも我らの間で条件ではなりえぬと奴はいったな。ならばそれは何があっても守ってもらうぞ。それに、ここからはわたしの戦だ、お前らにあれこれ口出しはさせん。おこぼれが欲しくば、黙ってわたしに手を貸せばよいのだ。それにわたしがこれが欲しいといえば、お前らはそれを提示できるのか?」
「出来る限りのことはいたしますよ。何がお望みです?仰って下さいよ、わしで出来ることなら…」
 ホリの眼にも真剣なものが漲り始めていた。 
 アヌイは口の端を吊り上げるようにして一言
「では、わたしの奪われた名誉を」
 一際強い眼光で宣言され、ホリは自分の失言を悟った。
 そうだ、あれほど権謀術数を駆使してひとまず確保した勢力圏を、この男は一瞬で失ったのだ。突然姿を眩ました指揮官の行方について、下エジプトでは様々な憶測が飛び交い、中には酷い中傷もあるとはホリも聞いていた。そんな流言蜚語を信じた輩、あるいは、機を見るに敏な協力者たちは、たちまちのうちに、アヴァリスに一大勢力を誇るようになったワァルト軍に走り、彼の動かせる兵力は激減してしまった。何よりもアヌイの勢力の拠り所であったもの、歴戦の勇者、名誉ある将軍として、自らが育て上げた兵たちからの信頼をここふた月で彼は失ったのだ。
 押し黙ったホリから視線を外すことなく、アヌイは凄みさえ見せて笑い
「残念ながら一度は破れたが、これからはそうはいかぬ。今度こそ、やつらの息の根を止めてやるのだ。わたしの怒りがどれほどものものか、身をもって思い知らせてやる」
 何の――とは、ホリは問いたださなかった。一連の経過を知っているホリにも見当はついたし、何より、白い歯さえ見せて笑ったアヌイの常ならぬ殺気に圧倒されてしまったからかもしれない。
 この男は変わった。
 今までは、心の底にどんな非情な、あるいは穢い部分を隠しもっても、この男はその豪放磊落な雰囲気でそれらから目をそらさせてしまう得な性分であった。それは時に馬鹿馬鹿しいまでの率直さで理想を語り、あるいは己を信じる者がもつのみが放つ厭味の無い無邪気さといったものの中に顕われていたといえよう。時としてそれはホリを密かに苛立たせるものだったが。
だが、今のこの笑みは何だ。
むくりと身を起こした獅子の、牙を剥くに似た酷薄な笑みは。
 あるいはこれこそが彼の本性なのかもしれない。彼は心の底に怒れる獅子を隠しもっていたのか。相手を目の前から消し去るか、貪り食わねば抑え切れぬ、憤怒(いかり)の獣を?それに気がついたこの男は、今までの陽気で有能なだけの将軍ではいられなくなるのだ。己の真の望みを知った以上…。
 それならそれでいいやね。わしが待ってたのは、誰からも愛されるような部類の人間じゃない、誰からも恐れられ、慄いて視線を伏せられ、嘆きを持ってその名を呼ばれる者だ。この男が何を目指そうとかまわねえ、それをどうっやって獲るつもりかが知りたいんだ。

 ホリは溜息をひとつついて、またアヌイに向き直り
「ひとつだけ聞かせてくださいませんかね、なんで急に気が変わったんですかい?」
一瞬黙り込んだアヌイは、ホリの肩越しに遠い目になった。あるいは、不意に夜空に引き込まれたような虚ろな表情で、彼はぽつりと呟いた。
「声を聴いたからだ…」
「……それはなんかの夢の話をなさってるんで?」
「夢か現かはわからん。あるいは、熱に浮かされてみたわたしの妄想かもしれないが、やけに生々しくてな。わたしはその意味をずっと考えていたのだ。そして、先日お前に言われたことも」
「………」
「真実などどうでもいい。とにかくわたしは、あの夜、はっきりとナスリーンの語る声を聴いた。あいつは俺にこう言った、ホリ」
 無意識だろうか、黒く染まった指で乾いた唇を擦りながら、アヌイは目を閉じて語った。
《あなたの運命を河の水に喩えるなら、今、アケトのナァ・イテルゥのように一番高いところに満ちてきたと思いなさい。それに乗れば、ひとまずはあなたの運命を制御することができるでしょう。先のことはわからぬにせよ。でも今を逃せば浅瀬に捕らわれて身動きできなくなるのよ。それだけは嫌なんでしょう?それに運命の神が差し出してきた機会を、そんなに無碍に扱うものではありません。それは神々を蔑ろにすることで、人間が独力で神々の真意を測ろうとすると、二度と自らの運命の舵を切ることは許されなくなるわよ…》
「だから俺にその流れに乗れという、そしてこちらへ何度も手を差し伸べて来る。だが俺があいつを抱きしめようとすると、河があいつをさらっていってしまう。ナスリーンの…あいつの敬愛する女神は、あいつにあんな無残な運命しか与えなかったのに、それでもまだそんなものを信じてるんだ。そして俺にも敬神を説く―――女ってのは、つくづくお人好しの馬鹿だな…そうは思わないか?」
 掌で目元を覆ったアヌイは、小さくくつくつと笑った。だが、紛れもなくその語尾が震えていることをホリは気づかずにはいられなかった。
「ナスリーン様は『予知者』であったそうで」
 途端、アヌイの大き目の口許が屹と引き結ばれ、叩きつけるように
「そんなのは冗談にもならん!あいつは心底それを厭わしくおもっていたし、嘆き悲しんでいた!」
「…そうでしたか」
「……だが、結局あの能力(ちから)が、俺にまであれを見せるんだろう。そしてナスリーンの死が事故だったことを証し立てる…」
「いったいあなたは何をご覧になるんです?」
 思わず身を乗り出したホリだった。
「ナスリーンが命を落とす瞬間の場面だ。まるで俺が宙に浮いてそれを見ているかのように鮮明に見える。番兵ともみ合った拍子に、強風に煽られて足を滑らせ、城壁の外へ投げ出されるあいいつの姿をくりかえし、くりかえし…真っ赤なのはあいつの血かそれとも夕日なのか…」
「そいつはまた…なんてぇ…悪夢そのものじゃないですか…」
 声が詰まったホリに力なく笑い返して、アヌイは続けた。
「そうだな。どうやっても俺はナスリーンを助けてやれぬと思い知るだけだからな。それもこれで二人目だ」
 そこまでの事情を知らぬホリではあったが、追求はせず、それどころか慰めるように
「あんたはつくづく不思議な男だ。酷薄かとおもえばひどく優しいね。平気で人を手にかけるくせに、そういうのはてんで駄目なのかい。でもねえ、こういっちゃなんだが、アヌイ様、この世で想いを残さずに死ねる幸せな人間がどれくらいいますかい?そういうのはすっぱり割り切らなきゃならんでしょうが」
 だがアヌイは強く首を振った。 
「俺はそうは思わない。俺が今まで手にかけてきた連中は、己のしでかしたことは己で引き受けるべき人間だった。この俺もいずれどこかでそういう風に斃れるのが似合いだろうよ。だがな、ホリ、あの二人は、ナスリーンと小さなセシェンはそういう無残な運命には無縁に生きられるはずだった。セシェンは好きな男の花嫁になるっていう無邪気な夢があったし、ナスリーンはアイシスのことで心痛めていた。俺はかりそめにせよ、あの二人の想いを守ると約束した。見た通り、俺は最低の人間だが、せめて、その想いを踏みにじりたくはないんだ」
 ホリは彼の沈痛な述懐に黙って耳を傾けていた。
 波の穏やかな夜であった。
あたりはしんと静まり返り、船底に波頭が砕ける音と風で帆全体が軋む音のほかは何も聞こえてこない。乗組員たちも、見張りを除いては皆夢の中なのだろう。その中の一人がホリに、「あのお人の部屋でおんなの姿を見た」と怖ろしそうに耳打ちしたものだったが、それもまた、今となれば合点がいく。
見あげれば、畏怖を感じるほどの満天の星。
ケメトの古い伝説によれば、死者の魂は天に還り、瑠璃なす天空のヌゥト女神の胸に抱かれて不滅の星となるという。そのなかに、アヌイを愛した女の魂があり、苦しみ惑う男を哀れに思い、ある夜ひっそりとここへ降り立って、彼のうちのめされた心を抱きしめるべくやってきたのではなかったのかと。
「じゃあ、あなたはその二人のための復讐をお望みで?」
 その一言に、またアヌイは力なく笑った。
「そんな立派なもんじゃない。二人が命を落としたのは、結局のところ俺の功名心やら、見通しの甘さのせいなのだ。だからその償いのため、そして――私的な恨みを晴らすため。そんなものばかりさ。どうしても、俺はそれがやりたいのだ」
 ホリは呵呵と笑って
「それでかまわないじゃねえですか。気色の悪いお為ごかしを並べ立てられるより、そっちのほうがわしはずっと安心できる。だいたい、復讐なんざ意味がないという奴は、大事なものをもったことがないだけなんですよ。わしはそういう負け犬の遠吠えは大嫌いでね」
 そういいながら、ホリは立ち上がった。
「いずれにせよこれから忙しくなる。人間も物も尋常じゃない速さで動かさなきゃならねえし、それもまたいちから始めなきゃならねえと来た」
「そうやってお前らは物と情報を運ぶ、俺はそれを受取り、組み立て、王都とワァルトの足元を崩す。やることは今までと変わらん」
「一つだけ違いますね」
 ホリはアヌイを直視して、言葉を続けた。
「あの時は、イメンテト侯様、あなたを王都に対抗できるだけの勢力をもつメフゥ(下エジプト)の実力者に仕立てあげられれば、それでよかった。だが、今度はあなたはこの国のファラオになるんだからね」
 ホリを見上げたアヌイは、一言。
「願わくば、わたしの運命の河が、わたしをそこへ導かんことを」 


翌日、ホリの前に立った男は別人のように吹っ切れた顔になっていた。心なしか少し目が赤い。ホリも追及しなかった。
 鬚をすっきりと剃り、汚れを真水で落として真新しい衣服に着替えた男は、船長に最新の地図を要求すると、ホリを交えて甲板室の隅で議論を始めた。 彼のきっぱりした面長の顔にはもう迷いがなかった。彼は、ホリを呼びつけ、あれこれ聞き出した挙句、戦略立案は自分に任せろと何度も念を押すことは忘れない。
 ホリも己自身が、その駆け引きを愉しんでいる自分に気づくのだった。
 彼が運命に向って踏み出したことだけは判る。それゆえに、彼を包む雰囲気から剥き出しの殺気が消え、幾重にも穏やかに隠されたものに変わっていることを感じ取らずにはいられない。いつもの人を魅了するふざけた風情に、眼差しには人を射抜くような剛さが加わったように思う。このふた月のあいだに降りかかった出来事のせいか、彼の面差しははっとするほど鋭く研ぎ澄まされ油断のないものに変貌していた。ふざけた風情のあった口許は屹と引き結ばれ、容易なことでは後退しないという意思を露にしていた。ホリもそれに応えて、軽妙な口上も滅多に披露することもない。
 一人は己の名誉と誇りを取り戻さんとし、一人はそれを傍から眺めるだけなのだ。
ホリは直感的に感じていた。いよいよ、自分が今まで丹精してきたケメトという巨大な「庭」が一斉に種を芽吹き始めたと。叶うならその最終形態を見届けてから死にたいもんだ――と老人は不敵に呟く。
 こうでなきゃ面白くねえ。この世で賽が振られて遊戯が始まるのを見られるのほど、わしを駆り立てるものはねえんだからな。ホリの口許に会心の笑みが浮かぶ。それは、メリトゥトゥとしての達成感とは次元を異にしている。
(要するにわしの守り神は、骨の髄までサイコロがお好きってこった。相手の手を読み、観察し、そして、ほいっと賽を振るときのあの快感に憑かれてしまったってんだわな)


 船尾に一際高くなった見張り台のあたりから、ひときわ通りのよい美声が響き渡った。
「長ぁ、見えましたぜ、前方右にサウウの砦が見えます!」
 ばらばらと一斉に甲板に飛び出した男達は、久々に見える街の遠景に歓声を上げた。
 ホリもそれに混じってみるみる近づいてくる光景を愉しみながら、ふと右手の人物に気がついた。
 アヌイもまたじっと前方の景色をみつめていた。
 他の乗組員たちのように、身を乗り出すわけではないが、じっと腕組みして、しかしその目は爛々と灼熱の焔を宿して燃え上がり始めていた。
 彼はついに還ってきたのだ。
 豊饒なる黒い土と、死が支配する赤い砂漠からなる彼の故郷(ふるさと)。懐かしい友と、最愛の敵が待つ場所へ。

 ジェドカラー王の治年第5の年の終わり、東部砂漠からいくつかの流れがうまれた。その一つは、密かに上陸してそのままケメトを横断して西のドゥルンガオアシスへ、一つは南下してコプトスから王都へはいった。そしてひとつはとってかえして北上し下エジプト側の隠し港に戻り、最後の一つは同じくドゥルンガオアシスを拠点に南周りにワワトへ向う流れと北上してリビア沙漠へ向うもの。

 時にイブネセル・アヌイは31才。この翌年が実質的に新王の治年第1の年となるが、その時は誰もまだ予想もしていないことであった。


16章へ続く 

14.アムドゥアトの門番

 居心地の悪い思いをするのはいつものことだ!そうだ――だから落ち着けってんだろ!

 イピは目の前で自分をじっと凝視している眼、ギラギラとした光を放つ、それでいて乾いた眼から視線を逸らさぬよう精一杯胸を張ってみる。
 だが、そんな彼の心中はお見通しといったようすの、冷ややか極まりない声が飛んだ。
「たいそうな自信で請け負ったわりには、とんだ不首尾よの」
「…申し訳ございません、メリトゥトゥ様。ですが、今しばらくご猶予を…あと少しで彼も条件を呑みましょう」
 イピが冷静さを装って返答する顔を薄目に見ながら、彼の直属の上司、セケルの祭司長メリトゥトゥは膝の上に組んでいた手をゆっくりと組替えた。わざとイピの不安を煽るような、極めてゆっくりとした動作で、しかも女のように長く美しい指に眼を奪われ、思わずイピの視線がそちらへ流れる。
 だが、すぐさまあたりの静寂を破る鋭い叱声に首を竦めたのだった。
 祭司長は、一向に進展の見えないイピの交渉能力を辛辣な口調で糾弾し、苛立ちを隠そうともしない。祭司長の辛辣な物言いはいつものことだが、いつもは一見茫洋とした雰囲気を漂わせている彼が苛立っているのは珍しいことだった。
「ワァルト侯はもう待てぬと言い出して2日も延ばしておるのだ。拷問にかけてうんと言わせるのは容易いが、それでは後に禍根を残すと説得し続け、ようよう期限を延ばすことに成功したというに…やはりこの手の交渉事はお前にはまだ無理か」
「いいえ!!」
「ではあの男に、愛人が死んだことを隠し立てするのは止めたがよい」
「ご、ご冗談を!それでは一層頑なに拒否させることになるだけでございませんか!」
「そうかな?下手に隠すから、あの男も警戒して我らの申し出に乗って来ぬのよ。時には手の内を見せてみるのも駆け引きのやり方ぞ。ともかく、我らに残された時間は少ない。あの男にはそれ以上に。これ以上拒否するのであれば、あの男はもう無用だ。ここまで引き伸ばせただけでも目的は達したというものだが」
 非情な宣告を聞いて、さすがにイピの顔色が蒼白に変わる。
「では、今夜の交渉で最後といたします。そして彼が諾(うん)といえば、例の件はそのまま実行に移してようございますね」
「諾といえばな」
「必ず承知させてご覧にいれます!」
 強い口調でそう断言して、イピはメリトゥトゥの視線をぎりりと睨み返した。
「お前はこの仕事に私情を持ち込みすぎる。父親に似ておらぬのはそこだな。それが吉に転べば善し、凶ならば…」
「ならば…何だとおっしゃいますか?」
「なに、直ぐにも命を失うだろうよ」
 祭司長はそういうと、くるりとイピに背を向け、退出を促すように手を振った。


 そうして、イピはここ数日通いなれた暗い地下道を黙々と歩いている。
 いや、生来口数の多い性分であるため、自分では黙っているつもりでも口からはぶつぶつと絶え間ない文句があふれ出ているのだった。染み出した地下水でじめじめと湿った暗い道には、気の弱い者ならば悲鳴を上げるような代物がごろごろと転がり、名も知れぬ醜い虫が蠢いてまことに気味が悪いところであった。しかし、考え事に集中しているイピには、そんなものに頓着する余裕もない。
「まぁったくっ…あれだけヌートやアメン神殿に煮え湯を呑まされたってのに、それから手助けしてやろうという申し出を撥ね付けるなんて、一体あの馬鹿は何を考えてるんだか!!ああそうとも、大馬鹿野郎だよ、てめぇは!!この国にはアメン神殿なんか比較にならねえくらい、力があるモノがそこかしこにいるんだ。大王家ですらままならぬような、すげぇ勢力なんだぞ。そいつがあんたを見込んで力を貸してやろうといってんのに、それを何だぁ?『神官なんて人種は大嫌いだ。手先になるなんて真似は死んでも断る』だと。だったら早いとこ死にやがれってんだ、そのほうがこっちも清々するぜ…」
 などと所詮は愚痴めいた憎まれ口でしかないのだが、当人に気づいていない。そしてそのまま口を閉じることなく道が突き当たるまで歩いていくと、左手に頑丈な木の扉が姿を見せた。
 その前で立ち止まったイピが特殊な叩き方で合図すると、重々しい音を立てて扉が開いた。
 目の前にはもう御馴染みの牢獄の光景が広がり、イピがそこに足を踏み入れるなり見張りの獄吏が代わって室外へ出て行った。
 物音を耳にしたのか、奥の壁際でむっくりと起き上がった人影がある。その影は、嘲笑の色を隠そうともせず、真直ぐにイピのほうへ向って小気味良さそうに話しかけた。
「また来たのか!よくもまぁ毎日凝りもせず馬鹿面下げて、この汚い獄舎へやって来られるものだ。何度来てもわたしの答えは同じということぐらい、お前の水の入った頭でも判るだろうに」
 馴れているとはいえ、さすがのイピもむかっとして言い返すのを止められなかった。
「仕方ないじゃないですか!それが今回のわたしの仕事なんでね。でも、言っておきますけどそうやって強がりを仰られるのも、今夜で最後ですよ。朝が来ればあなたは用済みですから」
「ほぅ…それは一大事…」
 僅かの動揺も見せず、アヌイは同じような皮肉っぽい口調を崩さなかった。だが、それもイピには癪にさわるのである。
「ねぇ、アヌイ様。わたしだってあなたのお命を惜しむものの一人ですよ。みょうな剛情を張らずに、いまだけでも諾(うん)と言っておくお気持ちにはなりませんかね?じゃないと、あなたを信じてサイスで頑張ってるケネプ隊長がお気の毒…」
「黙れ、裏切り者!!殊勝面して、ケネプの名など口にするな、反吐がでるわ!!」
 強く叩きつけるようにして遮り、その罵りがイピの顔を屈辱で青ざめさせた。
「俺を裏切り者と罵る資格があんたにあるんですか!?あんたが任地で遊び呆けたふりをしておいでだった頃、裏でどのようなことをなさってたか、俺が知らぬとでもお思いですかね。あんたが私兵をあれだけ集められた元手は何です?親父があんたに融通したやつくらいじゃ、到底間に合わないはずですからね。それに、故郷の昔のよからぬ仲間を上手く使われて、あちこちの神殿倉庫を襲わせてたのもわかってるんですよ。名領主が聞いて呆れらぁ。人の好いあのサイス侯に近づけたのも、彼らからの情報のお陰だったくせに!」
「ははん、その程度の難詰でわたしが怯むと思ったか、小僧」
 ついに歳若いイピのほうが挑発に負け、堪忍袋の緒を切って怒鳴った。
「判ってないのはあんたの方だろうが!今、地上でどんなことが起こってるのか知ってるか!?とうとうワァルトの軍がこの街を制圧してしまったんだぞ!言うことをきかないやつは悉く捕らえられ、あいつら独特の惨たらしい方法で処刑されてる!!あんたが生かされてるのは、あんたがワァルトと同じヒカウの血筋を引くからだ!あのワァルトは同族の血統を重視するからな、でなきゃ、罠に落ちた敵の州侯なんざ奴が指一本振るだけで首が飛んでらあ!!」
 するとその時、じゃらりと手鎖を鳴らして、アヌイが格子のほうへ一歩踏み出した。
「わたしの心配より、己の首の行く先を心配するがいい。ワァルトにとってこの街に歴史があろうが、王軍の駐屯地に近かろうがそんなことはどうでもよいのだ。奴の最終的な狙いはプタハ神殿領の奪取だからな。替わってあの一族が崇拝するセト神の大神殿を建てたいと思っている。お前達も、早晩、わたしなぞにかかずらわっている場合ではなくなるぞ!」
イピは思わず格子を握り締め
「なぜそんなことがあんたにわかる!?」
 そう言って格子越しに覗き込んだ――とその時、目の前に火花が散った。
 あっと声を立てる間もなく、格子から伸びたアヌイの手がイピの頭を掴み、両手で太い青銅の格子に額を叩きつけ抵抗力を奪ったかと思うと、イピの首を力任せに締め上げ始めたではないか。
「な…ま、待って……うぁ…」
 だが、その嘆願は一層強まる力で絞めあげられて、苦し気な喘ぎに消えてゆく。
 イピの割れた額の傷口からは鮮血が迸り、顔を朱色に染めるばかりか、白目もみるみるうちに血走っていく。それを覗き込んでいるアヌイの顔は、見るも無残なほど黒く汚れきっていたが、今や残酷な満足感に輝いていた。彼は痩せて細くなった手首から巧妙に手鎖を外し、隙を見てイピを襲ったのだった。監禁生活でだいぶん筋力が落ちたとはいえ、もともと武人であるアヌイには彼より一回り小柄なイピを捕らえるくらいの余力はあったらしい。いや、機会を伺ってそのための体力を残してあったといったほうが正解であろうか。
 いつもは用心して格子の前には近づこうとしなかったイピの警戒心も、ここ数日の面会での馴れに加え、交渉の不調に伴う焦りで薄れてきていることを、彼はとっくに計算済みだった。
 両腕ごと後ろから羽交い絞めにされ、首を力任せに絞め上げられては、流石のイピの達者な口舌も役に立たない。それを見下ろして、アヌイは一層顔を寄せてきて、イピの腹に響くような冷え冷えとした声で嘲った。
「だからお前は所詮商人の倅だというんだ、イピ。追い詰められた兵士には近づくなというだろうが。わたしをここから出せ!イヤだというなら、このままお前の首ごとへし折ってやる。そのほうが良いか?どうせ二人とも朝までの命だそうだからな」
 イピの視界は真っ赤に霞んでゆき、研ぎ澄まされた臭覚は、汗と血と垢じみたアヌイの体臭を捉えていた。膚に触れる彼の不精鬚の感触はイピの神経を恐怖でささくれだたせ、かき乱す。
 華やかな都の水にも決して染まり切ることのなかった男、飼いならせない獣の如き気性のこの男に相応しいというべき匂いだ。俺は素手で獅子に挑む馬鹿者だったのだろうか……?
 鼻から生暖かい血が静かに溢れ出てゆくのが判った。生命が流れ出している紛れもない証にイピは背筋が寒くなり、とうとう最後の力を振り絞って
「わ…わか……わかりまし――」
 弱々しくそう言いながら、震える指先でアヌイの腕を降参の合図に叩こうとした途端
 目の前に星が飛ぶほど後頭部を打ちつけられたと思うと、するりと呼吸が楽になった。
 がくりと膝をつき、胸を撫で下ろしながら呼吸を整える。ぽたぽたと鼻から滴った鮮血が腰布に紅い染みを描き、眼からは滂沱と涙が流れて止まらない。関節が鳴るほどに手が震えるのを堪えながら手の甲で涙と鼻血を拭い、そろそろと振り返って背後を確かめ―――
 そして、彼は呆然と口をあけた。

 そこには何も無い。
 先ほどまで自分を死に追いやろうとしていた男の姿も。
 ただ、格子の向こう側の床が両手の幅くらい陥落しているのだった。思い切って覗きこんでみるものの、墨を流したように真っ暗で底がどのへんなのかも見極められない。そこから、風が吹き上げ、イピの顔に流れる汗をまたたくまに冷やしていく。

(プタハの神殿の地下はなぁ、底なしの迷路だというぞ。何せ古い古い神の家だから…お前もうっかり迷い込まないようにしろよ。そこにはな…人の魂を喰うという魔物がいるそうだからな。あそこはアムドゥアトへの入り口だから無理も無いわな。21の塔門、7つの邸宅、15の領土を通り抜けて遂にはオシリスの御座所へ――なんと『へンヌの神廟』へ至るとさ)

 以前に冗談らしくそういった父親ホリの話が瞬時に蘇り、粟膚立ったイピは尻餅をついたままじりじりとあとずさらずにはいられなかった。床にはつうと掠れた赤い線が一筋。
「セケルの神は――ああ…そうだ、あの神は『アムドゥアト(冥界)の門番』じゃねぇかよ…」
 イピの恐怖に掠れた声が、薄暗い牢獄に不吉に反響していた。






 落下ほど不快な経験があろうか。
 それが夢ならば特に。
 大地の神ゲフから引き剥がされたかと思うと、浮遊感を味わう間もなく筋肉が引き攣るあの感覚。一気に血が逆流し、指先が強張り、後頭部だけがかっと熱で爆発するような―――あの恐怖。
 それも目覚めれば全て消える。

 だが今は?
 イピの抵抗が段々と失せてゆき、しめたと思った瞬間足元が抜け、彼は今、凄まじい勢いで落下していた。あっと思う間もなく、反射的に何かを掴むことすらできぬまま、ひたすら下へと落ちていく。
 その瞬間、彼の脳裡を駆け巡ったものに驚いたのは本人であった。
 懐かしい?いや、忘れたいのに忘れられないあの面影こそは……
 それは、苦い毒のように彼の脳を一気に覚醒させた。

――馬鹿な! こんな所で死ぬわけには!!

   頭の上に遠ざかってゆく果てしない暗闇に向ってそう絶叫した刹那、背に強い衝撃を感じ、ふわりと体が浮いた。

 一気に鼻から口から、あらゆる穴から不快なものが流れ込む!

(水だ!!)

 無意識にアヌイは手を大きく動かし、衝撃で沈んでいこうとする自分の身体を引っ張り上げようと奮闘する。手も足も疲労で強張り、おかげて水を幾度も飲みかけたが、もう無我夢中である。元はといえば、アヌイは下エジプトの湖沼地帯の出身で、物心つくと同時に泳ぎを取得していたほど水に馴染んだ体質が幸いしたのか、永遠とも思える時間を潜り抜け、水面に頭を出すことができた。
 途端に、眼が潰れるかとおもうほど眩い光が当てられた。
「誰ぞ!」
 鋭い誰何の声がアヌイの耳を打つ。
 彼は咄嗟に防御の仕草で手を振りあげ、壁らしきものにぶち当たったのをこれ幸いに、そこから息も絶え絶えに我が身を引っ張り上げた。
 何にも変えがたいほど有り難い、固い大地――正確には、紛れもなく人の手になる石畳があった。それを抱くようにして、アヌイは激しく肩で呼吸を整えながら声の主をとらえようとよろよろと身を起こした。水面に叩きつけられた衝撃に加え、水中ですっかり体力を消耗したのか、指は石の上を滑り、突起で傷つけた指先からまた新たな鮮血が迸る。
 そして、必死で力を振り絞り、ようやく彼が顔を上げたとたん、また同じ声がした。
「おや、これはこれは何としたこと。久しぶりの訪問者は誰かと思うたら…。さすがはあの王妃の見込んだ男だ、ヌンの水からも這い上がって地上に舞い戻ったと見える」
 闇に慣れすぎたアヌイの眼には光は毒となって突き刺さり、何度も瞬きをせねばならなかった。おまけに頭髪から流れ落ちる雫が更に視界を霞ませ、一層目の前の人物の輪郭をぼんやりとしたものにしてゆく。だか、彼は朦朧とする頭を振り、何とか声を絞り出した。
「ヌ…ヌン(原初の海)だと…?それに…誰が見込んだと言っ…!?」
 言い終わらぬうちに、鳩尾から込み上げるものがあり、思わずアヌイは膝をついてその場へ嘔吐してしまっていた。
「やれやれ……ただ人の身でアムドゥアトの入り口を覗いたにしては、大層な剣幕じゃのう」
 そう言いながらその声が近づいてきて、俄かにアヌイの鼻腔を強烈な芳香が擽る。思わず顔を背けようとしたが、万力のような力で顎をつかまれ、更にその刺激的な匂いを胸腔の奥深くまで吸い込まされる。
 毒かと思い身を強張らせたのも一瞬で、直ちに頭の中の霧がからりと晴れ、視界がぱっと開けた。
「どうじゃ、わたしが見えるか?」
 だが、さすがのアヌイもとっさにその問いかけに答えることができなかった。
 眼の前に、小山のような黒い大男に抱きかかえられるようにして、僧形の小柄な男が彼を見下ろしているではないか。
 ふっくらとして眠たげな青白い顔立ちは若くも見えるし、限りなく歳を経ているようにも見える奇妙な造作をしている。なんと言っても、すっぽりと総身を包む白い斎服越しでもはっきりと判別できる、その異形。
 立ち上がれば、アヌイの腹のあたりまでしかないであろう、矮人(こびと)であった。但し、短いのは足だけなのか、異様に手が長いだけなのか、常人離れした不均衡な造形が強烈な印象を与える矮人。
 だが、アヌイを射抜かんばかりに見るその目からは、恐ろしいほどの磁力を感じる。
「お前は…誰だ?」
 そう問い掛けてみたものの、アヌイは目の前の人物に魔術で絡めとられたごとく、どうしても視線を外すことが出来ないのだ。どんなに尊い王侯にも怯まなかったこの男が。それほど、目の前にいるのは威厳に満ちた人間だったのである。
 その人物が、表情一つ変えぬ雲尽くような大男に抱き上げられたまま、くつくつと咽声で笑った。それは陰々とあたりに木霊する、闇夜の鳥の啼き声にも似て、寒さのせいではなくアヌイの膚を粟立たせる。
「わたしが誰か知りたいと?わたしの名はメリトゥトゥ。だが、器の名に意味はない。わたしは、洞窟の主人、方位の神、死と暗闇を司る冥府(アムドゥアト)の門番たるセケルを祀る神殿の長である。イメンテト侯にはお初にお目にかかる」
 彼は舞踊手のように優雅に両手を空に翻して組み直し、アヌイを見下ろしたまま恭しげに頭を下げた。その拍子に、闇にしゃらんとこだまするは、なにやら深遠な鈴の音。
「セケル…ロ・セタゥ辺りの墓地の神セケル……の祭司長だと?」
「左様。そなたをこのところ悩ませていたホリの息子は、我が配下の者だ」
 その名乗りに、アヌイの青ざめていた顔が怒気で紅潮した。
「ではお前か!わたしをおびき寄せ、ワァルト側へ寝返れとしつこく言わせていたのはっ!?」
 だがその質問には、またしても奇妙な笑い声が返ってきただけである。
「おお、アアム・ワァルト如きが何であろう。あれはこの黒土に根付けぬ、哀れな異郷の糸柳よな。いっときメフゥ(下エジプト)に生い茂ったとて、ひとたびクヌム神が轆轤(ろくろ)を回せば、瞬く間に押し流されてしまう宿り木にすぎぬ輩…」
「屁理屈はやめろ!セケルの祭司長とやら、いかに詭弁を吐こうと、お前たちはワァルトの走狗ではないか。あの欲深いが小心者の北宰相を唆かして反乱軍に内通させたはよいが、結局、反乱軍に牙城たるヒクプタハを明け渡さねばならぬことになりながら、今更何の強がりか!笑わせるな!!」
 見上げるような位置にあるメルトゥトゥの顔に向けて指を突きつけ、アヌイは唇のかさぶたが裂けて血が滲むのも気にせず一気に言い放った。立ち上がることは出来なかったが、片膝を立て、油断無く後に飛び退れるだけの余力は残してある。
 それを見下ろすメリトゥトゥの眼が、すっと細くなった。と同時に、彼が纏っていた殺気が俄かに消えた。そして、どこか愉快そうな声色さえ覗かせて彼は言う。
「察するところ、そなたは余程『走狗』が嫌いと見ゆる。そなたの父御がジェドウのオシリス神殿にいいように使われたせいか?だが、そう思う心の底で、そなたは知っておるはずぞ。そなたの父は騙されたのではない。自ら望んであの年の謀議に加わり、同輩を陥れんとして敗れた。それゆえに命を絶たねばならなかったということを。違うかな?」
 一瞬でアヌイの表情が強張った。誰にも其処まで話したことはないはずであるから。あの政争の真相と、彼の父と兄が残した財産を、相続人である彼がオシリス神殿に全て寄進してしまった真の理由まではイピも知らぬようであったから。
「父上は罪人ではない!」
「おおもちろん、罪があるわけがないよ。ただ、権力を望んだだけ。そして僅かに手に入れたその使い方を誤っただけよ。権力はその性、貪婪にして保持者を磨耗させる魔の生き物だ。魅入られれば己も魔性と化す。だからこそ、そなたは父と同じ道を辿りかねぬ誘惑には、敏感に反応するのかな?」
 アヌイの動揺を薄目で見透かすようにしながら、祭司長は長い腕を振り
「だがな、お若いの、永い永い時から見ればそんな反発こそ下らぬものだ。これをご覧!」
 その途端、どういった仕掛けか、壁面に一定間隔で一斉に灯火が瞬きあたりを真昼の如くに照らし出される。
 そして、アヌイは今度こそ度肝を抜かれた。
 極彩色の神が彼を見下ろしている。
 メリトゥトゥの声の反響具合から、ここがかなり大きい部屋らしいと見当をつけていたものの、そこは予想を遥かに凌駕する大広間だった。それも室内の半分以上の面積をとるほどの方形の池が背後にあり、さっきはそこから這い上がってきたらしかった。どうやら、室内にある秘密の禊の間のようである。
 しかも、そこは見たこともないほど華麗な装飾で覆われていた。王都で見たカルナク大神殿の豪奢ですら遠く及ばぬほどの黄金貼りの室。
   煌く天井は高くて果てが見えぬものの、円錐形の天井と思しき傾斜。壁面には古風な装飾の玉座に腰掛けた、完全人身の巨大な男神の像が描かれている。見知らぬその神は手に牧杖と竿杖を持ち、その頭には雄牛の角の上に載った太陽と羽を象った紅白のアテフ冠。神の顔は豊饒を表す黒色に塗られ、彼の神が纏う白い屍衣には青い星の模様がずらりと描かれている。そして、その傍らには半分ほどの大きさで、羚羊の角を舳先に載せた半月型の優美な船。
 船の上に描かれた「それ」にアヌイは眼が釘付けになった。

  ――― 隼の船!

 盛り上がった丘を表す弧の上に、踏ん張るようにして小さな隼が留まっているのだ。
 そして、驚くのはその精妙な壁画だけではなかった。彼の両脇の壁画のない壁の部分には、等間隔で正方形の穴が上に向って空けられており、その中の全てに金色の厨子が覗いているではないか。遠目にも素晴らしい細工とうかがえ、その数はざっと数えても100はゆうに超えている。
 一昨年、下エジプトを襲った大地震はこの不可解な空間に何の爪痕も残さなかったのか、それとも忽ちのうちに復興したのか?どこにも亀裂も破損も見当たらない、壮麗な大建築がこんなところに。
 アヌイは頭がくらくらしてきた。
「こ、ここは…いったい?」
「こは『イプウト』じゃ。『トトの聖所の奥の院』の一角。そなたも子供の時、昔話に聞いた事がないか?『トト神の魔法の書』の物語、『トトの聖なる数』を知りたがったファラオの話を」
クフ王の聖代に、王子ヘルターターフが父王の許へ、魔法使テタを連れてきたという…あの話の…か…?」
 驚きのあまりかすれ声で問い返したアヌイに、その不思議な祭司長はにこりと笑った。どこか、少年じみて見える晴れやかな、一瞬の錯覚とも思える笑顔で。そして彼は、突如として朗々と


“ テト=セネフェルに住まいするテタは、王子の懇願により、黄金の船にてファラオの許に伺候せり。
 神たるクフ王陛下、かの魔法使にご下問なさりしは
「テタよ、朕の問いに心して答えよ。汝はトゥトの聖所の奥の院、イプウトの数が如何ほどか存じておるか」
 魔法使、大王に奏上して曰く
「畏みて申し上げます、我が陛下よ。この身は、トゥトの聖数は存じませぬが、それを示したものがある場所ならばお教えできまする」”


 黒土(ケメト)に古くから伝わる有名なその物語の一節を語り起こすや、またもとの表情となる。そして彼は言うのだ。
「だが生憎、かの君主が手にした櫃の中のパピルスは不完全なものだった。だから、あのメル(ピラミッド)を擁する大神殿内にそれを復元させたつもりでも、王の魂は未だあの地に繋がれたまま天には昇れず、太陽の船もただの置物だ――哀れむべきかな。ここは彼が知りえなかったロ・セタウの地下にある、古の神王たちの墓所だよ。もうその名も伝わらぬ遥かな昔の半神人たちの…な。中には【ウシル】とよばれた神王の骸もあるそうだ。我が役目は、これらの君主の瞑りを見守ること。いわば、いつか、彼の貴人らが彼方の御国より戻られ、完(まつた)き御姿を取り戻されるまでの、器の見張り役だな。だから、セケル神は『アムドゥアト(冥界)の門番』と言われるのだよ」
 灯りに照らし出されたメリトゥトゥの青白い顔は、それまでより幾分人がましいとはいえ、神話時代の人物のことをさも親しげに語る彼はかなり人間離れして見えた。彼は手にした小さな杖を振ると、真直ぐ、船の上の隼を指差した。
「あれが何かわかるか? 美しき隼と真理の羽の徴を戴く者」
 その言葉にアヌイはぎくりとした。それは彼ひとりしか知らぬ筈の、あの日のナスリーンの言葉の一節だったから。

” 美しき隼と真理の羽の徴を戴く者よ 隼の船の向うところへ進みなさい“

(そうだ…確かにあの時、ナスリーンはそう言った。“ 黄金と血に染まったアセトが待っている”――と言わなかったか…?)

「わからん。何だ…船――なのか?」
 動揺を押し隠して彼は問い返す。
「あれはセケルの船へヌ――つまり隼神へルゥがこの地に舞い降りた御座舟よ。古い陽の神へルゥの徴である隼もまた、セケルの眷属だからの。わが神はプタハにも擬せられるが、もともとはこの地の水神なのだよ。生命を養い育て、天と地を繋ぐ水が本性。よって植生の神にして冥王たるウシル(オシリス)とも重なり、全ての命を育む夜の陽の神、隼のへルゥは我が神の似姿とされるのだ。同じく隼の神でも、ウシルの息子たる灼熱の昼の陽の神ホルスはそうではない。まあそれは別の話なわけだが」
「セケル…セケルとはいったい何者だ?そもそも、プタハ神殿はオシリス神殿と対立してきたはず。お前たちは何を企んでいる?」
 さすがに混乱を隠しきれぬアヌイの表情が面白いのか、メリトゥトゥは再び奇妙な笑い声を立てた。
「さぁて…それは僅かな時間では語りきれぬし、所詮わたしの知っていることなぞ瑣末事に過ぎぬ。だがな、肝心なことは一つだけだ、ヒカウのアヌイ家の生き残りよ」
 祭司長は朗々と詠唱を吟ずるように語り掛け、ついと奇妙に長い手を上に差上げた。
「我らが望みは、この『北の都』を全(まつた)き姿に戻すことだ。上つ国と下つ国からなる二つの地ケメトには、ふたつの都がなければならぬ。そして都とは即ち神々が立ち顕われた『原初の丘』を持つ場所のことをいう。下つ国メフゥには《夜》の神都ヒクプタハ、上つ国シェマウには《昼》の都ネケン。それを、200年前にあの狡猾なスメンクマアトは、廃れて久しいオンの神殿を担ぎ出し、王都ウアセトに全ての神の王であるアメン・ラーの神殿を置くと宣言して、神々の系譜を勝手に書き換えおった。ネケンから神都の権威を奪ったばかりか、アメン・ラー神の神殿をこの都にまで建て、『原初の丘タテネン』の全き力を削いだのだ」
「タテネン――?丘の上の大神殿タテネンは健在だぞ」
 不審そうに問い返したアヌイに、祭司長は
「残念ながら本来の姿に非ず。我が神のカァが戻って来られぬのでは最早『タテネン』とは呼べぬわ」
「悪いが、神学好きな坊主の謎かけくらい頭が痛くなるものはないんだ。わたしに聞かせたいことがあるなら、手短に言え」
 いかにも胡散臭いものを聞くといった顔のアヌイに対し、祭司長は厳粛な面持ちになり
「ここは『ヒクプタハ』だ。『プタハの王城』であり、プタハを筆頭に『夜』を支配する古き神々の力の源でもある。天地万有の創造の時より、この地は霊域なのだ。それをあの大王家は貶めおった。こともあろうに『ファラオの父』たるアメンの神を、おのが一族の祖霊に擬し、『隠れたるもの・尊きアメン』をだだ人に堕しめたあの一族は、この神都ヒクプタハに偽の神域を設けた。アメン・ラー・スメンクマアト神の御座所だと!?神を一王家の血統に組み込むとは、神をも畏れぬ暴挙、到底許されぬ冒とく。そしてその歪みが、今やケメトの秩序を崩し始めておる!」
「はん、結局、負けが悔しくて、偽せ神呼ばわりしかできんのか。大王はお前らのような無能の懐古主義者より一枚上手だっただけだろうが」
 皮肉っぽいアヌイの憎まれ口にも、祭司長は晃乎(きらり)と目を光らせて
「そうだな。オンの陽の神ラーが、『顔隠したる貴人』と結びつき、時の王権によってその威光が高められるのは、仕方のない時の趨勢ではあろうよ。だが、それでも大王家が、我らの古き星の神を貶めたままにすることは許しがたい増長というべきだよ。ケメトの神々の秩序は、『最初の時』に既に完璧な宇宙として定められている。それを人ごときが変えられるものではない」
「…するとお前らは、自らの代わりに、あの丘の上の大王を神として祀ったアメン・ラー神殿を叩き壊す者が欲しい…それをわたしに手を貸せ、とこう言いたいのか?」 
「早い話がそういうことになろうかの」
 アヌイの表情が珍しく嫌悪で歪んだ。彼は右手を上げて壁面の厨子の数々を指差し
「は!古の神王の守護者だとかなんだとかもったいぶっておきながら、神殿ひとつ、おのれらは壊せぬのか?それでヒクプタハの支配者だと?『星の者』だと?とんだ虚仮おどしだ!」
「わかっておらぬようだな。『神殿』はただの石の家ではない。偉大なる神々の御力を顕現させるための『装置』だ。そのために必要な意匠は完璧に再現されておる。ゆえに、それがどんな経緯で作られたものであれ、それを壊すことなどマアトに反する。我らとて力ずくであの神殿を破壊することは容易いが、さすれば永遠に我が神はケメトには御降臨にならぬであろう。むしろ怒りを買い、討ち滅ぼされるに違いない。大王を神と崇めた王家が血みどろの同族争いを繰り返すうちに、この国が傾いてきたのもその所為よ。地上の神であるべきファラオの玉座を忌まわしき近親の血で汚し、挙句それらの怨嗟でケメト自体を弱らせた。ゆえに、その穢れが致命的にならぬうちに、アメン・ラー・スメンクマアトには速やかにこの地から退散願い、プタハの都を元の地位に戻したいのだ。これで飲み込めていただけたかな?」
 アヌイはそれでも合点がいかないといった風で
「矛盾しているではないか。お前は今、わたしの手を借りたいようにいったが、お前の手下はわたしがワァルトに組せねば用済みのように言っていたぞ。あれはどういうことだ?」
 くっくっとまたメリトゥトゥが不気味に笑った。
「己のなすことの真の意味を知るものは少ない。イネブヘジュ州侯パーセルを引き渡すのと引き換えに、そなたの助命をワァルトから取り付けたのはわたしだよ。少なくともわたしはそなたを買っておるぞ、イメンテト州侯殿。そなたは大王家が崇めるアメン・ラー神を崇めぬ男だが、ヒカウが崇めるセト神もまた重きを置かぬであろう?ワァルトとそちが決定的に違うのはそこよ。もともとあのヒカウの当主はそなたを警戒しておった。そなたが西メフゥを手中にしてからは特にのう。いっそ暗殺してはと持ちかけられたが、我らが時期尚早と言い張ったのでそなたは監禁されるだけで済んだのだ。しかしそれも今朝で期限が切れる」
「何故?」
「パーセルが処刑されたからだよ。ワァルトの代理人たるケラ将軍に、一昨夜、刎(くびき)られた。主人同様、あの男も気が短くて困るわ。そして、ワァルト軍の勢いはこのヒクプタハから更に南西へ拡大し、そなたの勢力圏をも飲み込んだぞ。今や、アヴァリスはワァルトの王国の都の如しだ」
 その情報を耳にするや、凄まじい勢いでアヌイの頭が回転を始めた。そして暫く考え込んだのちに
「何故王都はそれでも動かない?王軍の北面師団…は疾うに散り散りか…では南面師団はどうしたのだ。それももう無いのか、まさか!?」
「いやいや、兵はくるぞ。まもなく最後の大軍がアメン・ラーの幟(のぼり)を押し立てて、意気揚々と川を下ってここへやってくる。南面師団はおろか、王都の神殿兵を四千も投入した一万三千の大部隊だそうな。まもなく南のファイユームあたりは決戦場になるだろう。その様が目に見えるようじゃな」
 メリトゥトゥは、まるで神を称える讃歌を朗詠するように、来るべき災厄を告げるのだった。その表情は再び限りなく歳をとった老人のようにアヌイには見える。彼の目をまともに捕らえた途端、アヌイは弾けるように叫んだ。
「読めたぞ!お前が真に手を組んだのは、《ナルカ王家》の当主だな。ヌートを裸にするため…そのためだけに、わたしの勢力を根こそぎ奪い、これだけの混乱を引き起こしたのか?見返りは…ヌートの首だけでなく、大王葬祭神殿一派の壊滅なのか?アメン神殿も乗ったのか、その話はっ!」
 その叫びを耳にするなり、小さな祭司長は黒い大男に抱かれたまま身を震わせるようにして哄笑したのだった。手にした杖を膝に打ち付け、莞爾として笑う様はそれでも不気味な威厳に溢れている。
「そうこなくては!だがのう、イメンテト侯、あの王妃の言い草はさらに巧妙だ。大王葬祭神殿の壊滅に力を貸すとは言ったが、アメン神殿との交渉は己らでせよと言って寄越しおったわ、まったく、あの狡猾さ、たかが王妃にしておくは惜しい!」
「ちっ…それで、お前たちはわたしを使うことにしたのか。プタハ――といえば、職工の元締め。そういえば《ナルカ王家》はシナイのマガラ銅山に権益を持っていたな。ワァルトがあそこを抑えたにしても、維持することは難しい…あれをやると王妃にいわれたか」
 アヌイの声が一層低くなった。
「ご明察。『大王家』の威光を高めることにさして執着せぬあの王妃は、王家の貴重な資産をこちらへ譲ってもよいと言う。それほど王妃はヌートを王の傍から遠ざけたいし、アメン神殿の頂点に立つイペト・スウトの長老連中は大王葬祭神殿を潰したいのだ。そしておそらく、王妃の望みは更に上をゆくだろうよ」
「………だろうな、蛇より狡猾な王族のことだ。こうなれば見当はつくが…それにしても独りですべてをぶち壊す気か、あの王妃は?気が狂ってるとしか思えんぞ…」
 すっと表情を消した祭司長は、大男に膝まづかせ、アヌイの目の高さまで降りて来た。青白く眠そうに垂れた瞼の下からアヌイを見つめる目は、夜の河面めいて昏冥の深みを増した。彼がアヌイに長い手を差し伸べ、空になにやら印を切った途端、しゃらん、とまたもや玄妙な音が響く。
「まさに今、糸が絡み合い、一つの模様が織り上げられつつある。意図したのは誰か?一人ではないぞ、みな導かれているのだ。王妃にもイペトスウトにもそれぞれ思惑があり、我らは、我が神の都に古の地位を取り戻したく、ワァルトはメフゥ全体が欲しいのだからの。しかし、神々は、そのすべてを己が道具として用いられる偉大な御方。そなたの望みはなんじゃな?」
「お前が、今すぐ私の眼の前から消えてくれること」
 アヌイの鋭い一声に動じることなく、祭司長は薄笑いをうかべてまた続けた。
「つまりわれらは王妃の企みに乗り、ワァルトに一度わが街を引き渡すと見せて、ヌートの私兵を誘い出したというわけよな。そのために、そなたに今、下手に動かれてはまずいゆえここへ幽閉しておったのだ。そなたの軍は、見過ごすには手強すぎるのでな、一旦は勢力を削がせてもらった。だが、ここから先はまこと武人の領域。そなたにも失地挽回の機会到来というわけだ。王都からの討伐軍は必ず内部で瓦解するであろう。元々が寄せ集めだからな――そして、我らは我らの都から侵入者を追い払う。勿論、そなたの軍と我らで」
 謎めいた祭司長の声は、奇妙な姿と、朗誦めいた語り口でアヌイを引き込んでいく。それらはどこか魔術めいていた。
 本能的に危険を感じ取った男は、とっさに身を引きながら怒鳴った。
「誰がお前らに加勢すると言った?勝手に話を決めるな!」
「さてもつれないのう。元はといえばそちもオシリス神殿に縁あるもの。そちにとって、この黒土の国に御坐(いま)すどの神も大して意味は持たぬにせよ、まさか『死の王』の御手から逃れられるとは思っておるまい?冥府の君主は、無知は赦されるが、不敬は見逃さぬお方よ。プタハは偉大なる独り神であらせらるが、日の出の神でもあり、それは夜の陽の神、我が主人セケルとも復活の神オシリスともまた切っても切れぬ関連を持つ。どうじゃ、われらとそちは案外近しきものかもしれんぞ」
「なんと言われても断る!」
「ふむ。拒否してここで死を選ぶのは、あまり賢い選択とはいえぬがな。そなた、たかだか下つ国を手に入れるくらいで満足か?王位に――上つ国と下つ国を束ねる地位に挑んでみたくはないのか?われらはあの大王を神と崇める神殿を解体したい。それには正統なファラオの勅令によらねばならない。今の王家にそれが無理なら、われらが意を通すファラオを立てるまでよ。そしてそなたはファラオの権力に惹かれるであろう?何とならば、一度はその一端に触れ、その威力を思い知ったはずだからの。あれは芥子の汁の如き甘美な毒よ、無しでは生きられぬようになる。そして美女の艶視の如く逃れがたいものじゃ」
「おのれ、うぬら、またしてもわたしを利用するつもりか!?」
 激昂したアヌイを祭司長は、心底不思議そうに一瞥し
「これほど言うてもわからぬのか。存外、頑迷な男じゃのう…悪い取引ではなかろうに。兵を持たぬわれらの神殿は、加勢をしてくれれば、今は劣勢にあるそなたの軍にそれ相応の見返りはあたえようと申しているのだ。ここをそなたの拠点にするがよい。いったい何を躊躇うのだ?あの悩めるファラオを葬り去るのに、まさかそなたが心痛めるとは思えぬ。まして、それこそがそなたの真の望みではないのか?そうでもせねば、そなたの想い人は手に入らぬであろうし…いや、想い人ではないかな、あの女人こそは此度そなたを陥れた真の敵。自分を虚仮にした彼女が憎くはないのか?」
「黙れっ!お前のようなバケモノが、わたしの心を量るな!」
 誰にも突かれたくない秘密を暴露され、アヌイは顔を紅潮させた。だがますます合点がいかぬといった表情の祭司長は、ぱさりと袖をひるがえすと
「情けなやのう、アヌイ殿。“隼の翼の船の向う道を進みなさい”とそなたの予知者はいわなんだか?わたしにはそなたの胸に宿った野心がありありと見える。故郷で政争に敗れた父と兄からそれを受け継いだであろうが?同じ黒土の民ならば、鞭を振るうものとなれと教わらなんだのか。“己が真の望みを蔑ろにするは自ら破滅を選ぶも同然”」
「父上の…それにナスリーンの言葉を何故お前が…?」
 ずぶ濡れの所為ばかりではなく、アヌイは全身が総毛だつ思いだった。呆然とつぶやいたアヌイに向って、メリトゥトゥがついとその指を天に向けた。
「我は死者の神の祭司。死者の声を聴くことはいと容易いこと哉。それに、そなたに知らせることがある。そなたの愛人ナスリーンは死んだ」
 瞬時にアヌイの顔が蒼白に変わる。
「嘘だッ!」
「残念だが事実なのだ。そなたが囚われる3日前のことだよ」
 その冷静な宣告に、アヌイは我を忘れて飛びかかった。しかし、メリトゥトゥを守る大男に軽く腕で振り払われて壁に跳ね飛ばされてしまう。
 それでも彼は無我夢中で身を建て直し、渾身の力で叫んだ。
「嘘をつくなっ!そんな…ナスリーンが死んだだとっ!?お前らが殺したのかっ!」
「信じる信じないはそなたの自由だが、われらが手を下したたわけではない。あれは本当に不慮の事故だったのだ。何事につけ敏感なそなたの女楽師は、そなたに迫った危機を予知し、それをそなたに知らせるべく焦ったあまり、もみあう警備兵から逃れようとして城壁から足を滑らせたのだよ」
「証拠は!?まことナスリーンが死んだというなら、骸をここで見せてみろ!!」
 激昂したアヌイの声が、室内をびりびりと振るわせるほど反響した。
 メリトゥトゥの視線が反対側の壁を指し示す。
 目をやると、今まで薄暗くて見えなかった壁際の祭壇に、白く盛り上がったものが載せられているのが判った。アヌイはそれに気がつくなりよろよろと立ち上がり、這いずるようにしてそこへ近づいた。
 そして、一気に布を取り払って凍りつき――やおら絶叫する。

 白く透けるような、まるで石の像のように変わり果てたナスリーンがそこに横たわっていた。白い胸高のドレスをきっちりと着せ掛けられ、腕を胸の前で交差して組んでいる。床にまで届く黒髪は生前のままの黒い滝のよう。だが、硬く閉じられた瞼は蒼白く凍りつき、何より類稀な美声を産み出した唇は青黒く乾いていた。顔の造作に目立った損傷はなかったが、腰から下が奇妙に曲がってしまっている――だが、間違いない。彼が愛し、彼の娘を産んだ女楽師ナスリーンの変わり果てた姿だった。メリトゥトゥの告げたことが事実ならば、ナスリーンが死んで一月以上経つ筈であるが、ふしぎなことにミイラにされた痕跡もないのに、彼女の骸は美しさを保っていた。
「どうして…なぜだ…なぜお前がこんなことに?」
 搾り出すような声でアヌイは囁き、造作だけは見慣れた以前のままのナスリーンの額に顔を寄せた。触れたとたん、心臓まで凍らせような冷たさを感じて思わず身を離す。そしていつの間にか彼の目尻から、熱い涙が流れ落ちていた。
「ナスリーン、わたしだ。目を醒ませ…おい、聴こえているのだろう?芝居はよせ…機嫌を直せよ」
 いつもしていたように、ナスリーンの顔を両手で挟み込み、その色の失せた花のような唇を捕らえて深く深く口付ける。だが、氷のようなそれは生命の温もりはおろか、僅かも彼に応えることはなかった。
 彼の耳の底に、ナスリーンのあの声が――楽神ハトホルの愛娘とまで評された透明な歌声が蘇る。
 だがそれこそが幻。

(彼らは果たして安らぎに至りしや 知るひとぞなし 彼らの行きし国に、われらもまた行き着くまでは…)

 あの稀有な歌声が今にも零れそうに見えるのに、白く乾いた唇は固く閉ざされ、ニ度とその歌を聞かせることは無い。
 彼の我侭も見抜いた上で、それでも傍にいつづけてくれた女。彼が心を開いて見せないことを悲しみながらも、それを淡々と受け入れ、さらに彼に唯一の血族を与えてくれた心優しいナスリーン…

(わたしが守ってやると…お前を怯えさせるあの恐怖から解き放ってやると約束したのに……わたしの所為でお前を死なせてしまったのか!!またわたしは同じ過ちを繰り返してしまったのか!あんなことはセシェンだけで沢山だと思っていたのに!わたしがお前をこの街へ遣らなければ…イピの二心には感づいていたのに…)

「許せぇ!」

 アヌイは我知らず慟哭していた。
 今まで押さえていたもの、胸の底に閉じ込めていた感情が一気に爆発して、彼は天を仰いで絶叫した。それは壁面に鎮座する骸の主たちをも覚醒させようかという程、悲痛な哭き声だった。

 メリトゥトゥは、壁の壁画に溶け込んだように無表情を保ちつつ彼を見守っている。その間も、祭司長の鋭い目はアヌイから一時も離れようとはしない。

 だが、もうアヌイはその視線を意識することを放棄してしまっていた。両腕にかき抱いた冷たく固い感触と、全き沈黙の重さに惑溺してしまっていたのだ。ナスリーンの仄かに薫香の残る黒髪を握り締め、彼女の冷たい骸を揺さぶり、号泣しながらー――そして、さすがの彼の強靱な意思の力も、緊張の持続力もそこでぷっつりと切れた。

 疲労と絶望のせいで、彼の精神力も限界に達していた。囚われてよりすでに闇の中でひと月以上。いかに彼の強靱な意思の力をもってしても、そろそろ限界が近づいていることは判っていた。だからこそ、地上への唯一の連絡係であるイピを盾に、脱出を図ってみようとしたのだ。しかしそれも失敗に終わり、今、彼の目の前にあるのは予想だにしなかった残酷な結末であった。

 愛した女の無残な死と、同じく彼の心を魔的な力で縛りつづける者の裏切り。後者については心の底で薄々察していていたにせよ、突きつけられた新たな事実の重みが彼を打ちのめした。そしてその衝撃は疲れ果てた肉体にはあまりに大きすぎた。
 アヌイは意識を失って昏倒し、冥府の闇にも劣らぬ己の心の闇の中に投げ出されたのである。  





15章へ続く

 13.ファラオの剣



 さながらそれは、地平線に揺らめき立つ蜃気楼。
 あるいは、一瞬で空を黒く染め替えるハムシーンの如くであったという。
 いつものように、アヌイは少人数の供周りを連れただけで、ヒクプタハへ密かに入ろうとしていた。しかし、何処からともなく現れ、彼ら一行を取り囲むなり、無言で威嚇してきた覆面の集団には不意を突かれる格好になった。
 このところの物騒な世情を考慮して、イムゥから真直ぐに南下してヒクプタハ市に入ることを避け、わざわざ川を渡ってから迂回し紅海側の隊商ルートを採った。にもかかわらず、もうすぐ例の白い城壁が見えようかというあたりで、その不審な一団と遭遇してしまったのだ。

「やあ…すまぬがお主ら、どこかの誰かとお間違いでは?我らはシナイの銅山遠征隊の一員だ。北宰相様のご命令でヒクプタハへ帰還途中の身。そこを通してもらえぬか?」

 のんびりとした口調でアヌイが告げたにもかかわらず、先頭にいた首領らしき強面の男はにこりともしなかった。

「目くらましの口上はこの際結構。あなた様はイメンテト州侯閣下でござるな。わが主の命により、我らとともにお出で願う」

 アヌイの濃い眉がくいと上がった。

「これは意外な名を聞くものだ。この身を誰と仰ったかな?」

「問答無用。お連れせよ!」

 男の命令一下、ゆうに50人は超える兵士がアヌイの一行に襲い掛かった。
 舌打したアヌイは、白刃を抜き放つなり瞬く間に数人を馬から斬り捨てたが、如何せん、多勢に無勢であった。すぐに乱戦になり、渦中のアヌイは最も身の軽い供の兵士を傍へ呼び

「お前は我らに構わず、今すぐ取って返してケネプのところへ帰れ。わたしが戻るまで、軍を持ちこたえよと伝えるのだ!」

 と伝言するやいなや、馬の尻を剣でぴしりと打ち、一目散に包囲の薄いところへ向わせた。
 そして援護すべく振り返った、その時。
 肩にかっと激痛が走った。
 見れば深々と鏃が食い込んでいる。飛んできた方角に首をねじり、射手の手にあるものを見たとたん彼の顔に烈しい動揺が走った。

「馬鹿なっ!!その弓をどこから……そちたち、まさか!!」

 しかし、瞬時に痺れが全身に回って目が眩み、馬から振り落とされ地に叩きつけられたかと思うと、あとは深い闇の中に意識が落ちていったのだった。



 そして目覚めてみれば、自分はどことも知れぬ地下牢に繋がれていたというわけである。
 一度だけ抵抗してみたのはいいが、したたかに殴られ蹴られの目にあって以来それは諦めた。とりあえず、襲撃者側としては命までとる気はないようで、獄吏は彼を痛めつけたものの食事と水は運んできた。しかし、瑕の応急処置をこまめに取り替えるでもなく、排泄もその場で済ませるしかないとなれば、自分が今どのような姿なのかは想像するだに難くない。肩の矢傷も未だ熱を持っており、その痛みが一層彼を苛立たせるのだ。劣悪な環境なら戦場で慣れているが、何も情報を与えぬ(しかもどうやら口がきけぬらしい)獄吏とのやりとりは、さすがのアヌイも疲労させていった。

 そんなある日、囚われてから優に20日は経ったように思ったころ、目の前に懐かしい姿が見えたというわけである。
 いや、懐かしいとはいえない。彼があの日、ヒクプタハに入ることを知っている者は僅かしかおらず、今の事態を考えればまさしくおびき寄せられたと考えるのが自然なのだから。
 しかし、アヌイは何故か怒りを見せない。
 それが判るのか、イピは不審そうな顔で口火を切った。

「お怒りにならないんですね。わたしが手引きしてあなたをここへ連れてきたというのに」

「腹が立つのは、己のうかつさ加減であって、お前の裏切り程度ではないのでな。それより、外の話を聞かせてくれ。今は何日だ?」

 アヌイの声はひび割れてひゅうひゅうとかすれていたが、無精ひげが伸び、未だ傷が治らぬ血の固まった口元にすら、相変わらずふざけた風情が漂っている。それを目に留めると、イピは呆れたように肩を竦めくるりと背を向けると、隅にあった水甕から柄杓で一掬いして運んできた。

「さあどうぞ。あなたにはまだ喋って頂かなくてはなりませんから」

 フンとせせら笑うと、アヌイは空いている左手を差し出して柄杓を寄越すようにひらひらさせた。しかし、イピは用心深く首を振り

「駄目ですよ。そちらの水鉢をこちらへ下さい。入れて差上げますから」

 と拒絶したので、アヌイは仕方なしといった顔で素焼きの鉢をイピの手許に蹴り転がした。イピは身を屈めてそれを拾い上げると、慎重に柄杓から水を注ぎ、そろそろと格子から手を伸ばして差し入れた。とはいっても、それはアヌイが鎖を目一杯伸ばしてようやく届く距離である。アヌイはくつくつと笑いながらそれへ這いずり寄ると、手にとって一気に飲み干した。勢いあまったのかむせて暫く咳き込んでいたが、喉を鳴らして実に美味そうに飲み干し、空になった水鉢をコトリと床に置くなり

「随分と用心深いな。私がそれほど危険に見えるか?」

 と問いかけたときにはもう、いつもの低い声に戻っていた。
 イピも格子から少し離れて、アヌイの真正面に胡座をかいたが、そうすると体格の違いから自分よりだいぶん高い位置にアヌイの顔があることになってしまった。その不具合に内心舌打ちしたものの、気にしない体を装い、改めてアヌイの醜く腫れあがった無残な顔を見つめた。

「それにしても、随分抵抗されましたねぇ…。あなたは妙に剛情なところがおありだから。察するに獄吏を挑発なさったんでしょう?」

「お陰で水も呑めぬ身体にしてもらったわ。…で、今日は何日かという質問に答えて欲しいのだがな、わが友イピよ」

「今日はペレトの2の月の15日です」

「ということは、わたしが囚われてから22日めだな」

「そういうことになりますね」

 普段愛想の良いイピがにこりともしないのに対し、アヌイのほうは酷い風体にもかかわらず声色も、態度もいつもどおりであった。

「単刀直入に聞こう。お前は、ワァルトの手の者か」

「いいえ」

「では、王都の?」

「いいえ、まさか!」

「ならば答えは一つだな。《星の者》であろう」

 その言葉に、無表情だったイピの瞼がぴくりと動いた。

「《星の者》?それは何のことでしょう」

 アヌイは大儀そうに足を組替えると、がりがりと頭を掻きながら

「とぼけるな。まあ、正式にはそう呼ばぬかも知れぬが、わたしが生まれ育ったあたりではそう呼ぶのだ。“大いなるウシル”即ち、冥界の主、いにしえの王たちの御祖(みおや)にして、永遠の星の神オシリスを奉ずる者のことをな。つまり、大王家がこの国を統べる以前からこの地にあって、なにかと無視できぬ者たちのことだ。お前もいずれその一人だろう?」

「その呼び方は初耳ですが、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。それにしても、あなたがなぜそんな影の者の存在をご存知なのです」

「きっかけはお前と似たようなものだろうよ。忘れたつもりでも、地縁・血縁というやつは尾いてまわるからな。有り難くもないが…」

 淡々とそんなことをいう彼に、平静を取り繕おうとするイピの表情が好奇心で動いた。

  「…確かあなたは、オシリス信仰の盛んなジェドウ(ブシリス)のお生まれですよね。父祖の領地をオシリス神殿に寄進して、あなたはサイス州軍への足がかりを得られたとか」

 アヌイはおやと腫れあがった瞼を上げると

「調べたのか?そうだ、私は一族の祭祀その他諸々を神殿に一切合財任せ、あの地から自由になったというわけだ。その後のこともその様子では知っているな」

「イブネセル・アヌイ――ウセルハト王の治年第18の年生まれ。ジェドウの小領主であるあなたの一族アヌイ家は、ジェドウのオシリス神殿と強いつながりを持った一族だった。しかも、300年ほど前にメフゥ一帯を支配した異国の民、ヒカウの血筋も引くそうではありませんか。《アヌイ》というのは明らかにそちら系の名ですよね。あなたはその家の三男だ。お父上と兄上は神殿所属の兵団を率いる将校で、17年前にサイス侯領一帯を巻き込んだ紛争でお命を落とされたと聞いています。あなたはその後サイス州軍を経て王都警備隊に転入、次いで王軍南面師団の要職を歴任し、センウセレト内乱に功ありとして遂には現イメンテト州の長官となられた。…そして、いまは我らの囚われ人」

 イピはアヌイから目を外すことなく、記憶したものただ吐き出すように事実を列挙していった。一方のアヌイは益々愉快そうな表情になり

「ほほう。流石に良く調べてある。親父のホリがそう言ったのか?それとも、おまえの属する組織はわたしにそれほど関心があるのか」

「当然ですよ。あなただって、ご自分がそれくらいの注意を払われる人物だという自覚はおありでしょう?今は一介の貧乏貴族の子弟でもなく、王軍の下端兵士でもなく、イメンテト(西)州侯。しかも、サイス、ジェドゥ、バスト、ブトの西メフゥ一帯の諸侯を味方につけ、シーワ・バハリーヤオアシスまで含むリビア西部の有力部族を取り込んで、一大勢力圏を作られたお方。あなたが動かせる兵は今や一万余に達するのだから。そして、今度は大胆にも北宰相パーセルに食指を伸ばされた」

「それも今度ばかりは失敗した――といいたいのだろう」

「さあどうでしょう?これからのあなたのお心次第で、事態はすぐにも変えられるかもしれませんよ」

 イピの薄い唇がにっと吊り上り、ひたとアヌイの視線をとらえた。そして彼は、まるで馴染みの顧客と取引に臨んだ時のように、愛嬌たっぷりにこう言い放った。

「さてっと…取引は如何ですか、ハァティ(州侯閣下)?これからこちらが提案するのは、あなたにとっても悪い話ではない筈ですよ」

 そうして饐えた匂いの充満する薄暗い地下牢で、二人の密談が始まった。



 そしてこの時イピは、アヌイに驚くべき事実を告げたのだった。
 この日から10日前、ジェドカラー王の治年、第5の年のペレト(播種季)第2の月の5日に下エジプトの勢力図は一気に塗り替えられていること。
 下エジプトの20ノモスの筆頭にあたるイネブ・ヘジュの州侯、北宰相も兼ねる大王家重代の臣下レレト・パーセルがアアム・ワァルトに内通したという。ヒクプタハの支配権を実質上に手中に収めたワァルト軍は、これから一気に東部デルタから中エジプト中央部へ進出するだろうと。

   以後、黒土の国は最後の大内乱に突入していくことになる。





 北宰相の裏切りが発覚して数日後、上エジプトの王都テーベでは、燦燦と日が差す王宮のバルコニーから眼下を埋め尽くす兵士を眺め渡して、宰相ヌートが満足そうに背後を振り返った。

「なんと壮観な眺めでございましょう。皆が陛下の御下知を待っておりまする!」

 確かに宰相が自慢するだけのことはあった。

 謁見用の臨御の窓の下の広場にずらりと並んだ兵士は、皆一様に黒い肌の男たちで、背には弓を背負いアメン・ラー神の意匠を白く染め抜いた緋色のマントを靡かせているのである。つまり、それらは大王葬祭神殿に帰属する神殿兵《アシャ》の軍団であった。宰相が神殿に蓄えた黄金をばら撒いてまで、クシュの王子(ヌビア総督)から精鋭の傭兵団を雇い入れたと評判の部隊である。王都周辺においても、上エジプトの各州諸侯は長引く戦乱にさじを投げつつあり、王命を持ってしても自軍を合流させることに消極的だ、という内情は徐々に明らかになりつつある。

 結局のところ、何かと口実を設けては派兵命令を辞退してくるそんな州侯を罰するだけの力も、王都にはもはやありはしない。
 アビュドスに駐屯する南面師団の長、王軍の4将軍の一人で近衛長官でもあるケルエフ将軍などは、いまだ王家の命令の届く南部諸州の説得に忙殺され、本領発揮するはずの戦線からは半年も遠ざかっている。そのように指揮線がバラバラになりつつあるところへ、この美々しい軍団は派遣されてゆくのだ。

「これだけの馬揃えは前代未聞でございまするな」

「なんと勇ましいことよのう」

 眼前に広がる事態の意味を捉えることのできない大臣たちは、表面上の勇壮さに心奪われ、このような見事な軍団を揃えた宰相に対し追従交じりに驚嘆の声をあげる。
 そして彼らの最高指揮官であるジェドカラー王はといえば、無言で手すりの方へ踏み出すとゆっくりと両腕を広げ兵士たちに祝福の印を与えた。
 ざっと武器の触れ合う音がして4000の兵士が一斉に跪き、一斉に頭を垂れた。その先頭にいたこれまた黒い膚、口許に大きな切り傷がある逞しい大男が

「アメン・ラーの愛し子にして、偉大なるスメンクマアト大王の末裔(すえ)なる御方、ジェド・カ・ラー陛下に生命と、健康と、永遠の名誉を!我らはこれより、反逆者アアム・ワァルト及び、レレト・パーセルの討伐に向いまする。大王家と陛下の軍に勝利のあらんことを!!」

 腹の底に響くような大音声でそう宣言すると、後の兵士の掛け声が続いて広場を揺るがせた。
 バルコニーに立つ王は、それに朗々と応える。

「そなたらにアメンラー神から栄誉と武運が賜るように。余もいずれ後からそなたらに合流する、それまで余の領土を守れ!」

 王の表情は何時になく高揚感が漲っており、赤と白の二重冠を抱き、黄金の王衣を纏った姿は神々しいまでに綺羅びやかで、堂々とした立ち居振る舞いと力の籠もった声は、王者らしい覇気に満ちている。
 思いがけない激励の言葉に兵士はどよめきをあげたが、王の傍らに立った宰相のほうが慌てたのをネフェルキヤ王女は見逃さなかった。
 14歳になった王女は、先月ようやく成人式を挙げ王家の公式行事への列席を許されたばかりである。本来、大王家の王女の成人式ともなれば大々的に国中に布告して祝われる慶事であるが、現在の内戦で混乱している状況を考えた王女の姉、ネフェルウルティティス王妃は王都と領地内に限りその日を公休日とする旨の布告を発しただけで、祝いの儀式は《ナルカ王家》の内々で済ませてしまったのだった。
 堅苦しい神官に取り囲まれて、息が出来ないほど飾り立てられ長い時間を過ごすことを殊更嫌う王女に異論があろうはずが無く、それどころか姉王妃のそうした裁可を喜んでいるほどであった。
 しかし、当の王女もこうして公式行事の末席に連なるようになると、いやでも目につかざるをえないのが、宰相ヌート一派の勢力の盛んなこと、義兄のジェドカラー王の奇矯な振る舞いの数々、そしてそれを黙って静観している姉の姿の不思議さなのである。
 今も、そのうち王自身が出馬するかのように取れる発言をしたことで、宰相の自信満々の顔はみるみる険悪になり、うろたえる大臣達の視線が飛び交い、そして王自身はそれを無視するように傲然と踵を返して屋内へ引っ込んでしまった。その夫の姿を、姉王妃が傍らでじっと見詰めているのも、王女は確かに見たのである。そして、王妃はというと、いつもどおり気品の溢れる典雅な微笑を浮かべた彼女は、眼下の兵士に手を差し伸べて祝福を与えると、ゆっくりと王の後を追って室内に入っていくのだった。
 唇を噛んで姉の後に続いた王女は、またしても混乱した王宮の内情を見ることになった。

  「陛下がご出馬なさるなぞ、とんでもないことですぞ!」

 ヌートの良く響く太い声が、謁見の間に響く。宰相は手にした金製の宰相杖で床を叩かんばかりにして、王に詰め寄っていた。だが、玉座に腰を降ろしたジェドカラー王はといえば、二重冠を司祭に外させながら、宰相の方を見ようともしない。

「陛下!」

「そう大声を出さずとも聞こえておるわ、宰相」

「では伺いますが、先ほどのお言葉はご本心でしょうか?」

 それを聞くなり、王は切れ長の眼をすっと細め、右手に持った王笏でピシリと膝を撃った。

「余はケメトの王だ。その余が一旦口にした言葉を撤回せよとそちは言うのか?」

 王の声は平静であったが、みるみる宰相の顔を強張らせ、背後に控える廷臣たちに困惑のざわめきを広げていった。今まで宰相の提案には殆ど反対したことのなかった王の意外な抵抗である。
 宰相は威儀を正して、手を替え品を替えて王の翻意を促そうとしたが、玉座に深く腰掛けたまま宰相を睨み返す王には全く通じていないようであった。
 それを遠くから見守るネフェルキヤ王女の視線は、さらに用心深く臥せられていったのだった。王女は自分にしかわからぬほど、微妙に姉の表情が変わったのがわかったのである。

(あれは―――わたしと『セネト』をなさるときの眼だわ。わたしが上手く姉上の誘いかけた罠に入り込んだときの…あの眼)

 だがそれが何を意味するのか推測できたのは、妹である自分だけのように思われた。



 そして同夜。

 ネフェルウルティティス王妃の寝室を妹姫が訪なった。
 機嫌よく飲み物を勧める姉の手を跳ね除けるようにして、気短な王女は前置きもなくいきなり切り出したのだった。

「今日はどうして陛下の御親征に反対なされたのです!今こそ、あの方がファラオであることを示すことができる絶好の機会でしたのに?姉上はこのまま陛下が、王都に篭もりきりで、敵の前にも出てゆけぬ腰抜けと笑われ、ファラオとしての名誉を失っても構わないとお思いなのですか!」

 一応周囲に気をつかったのか、王女の声は高くは無かったが、逆にそれが彼女の内に押し殺した激情を際立たせていたのだった。
 だが、くつろいだ白い部屋着のままでも威厳のある王妃は、にっこりと笑って

「無駄な戦は止め、名誉が失われぬようにすることも王には必要でしょう?」

「かといって、陛下は避けてばかりでいらしたではありませんか。今こそ軍を率いて反逆者を伐ち、王家の威信を示すべきですわ!でないとファラオの権威はこのまま沈んでゆき、王国は本当にバラバラになってしまいます!」

 王女は烈しい気性のままに頭を振るや、姉の前にすっくと立ち、畳み掛けるように言った。

「だいたい、姉上はヌートがお嫌いのくせに、どうして今日ばかりはあの者を後押しするような事を仰るのです?おかげで、またあの男が我を通し意気揚揚と帰っていったではありませんか!」

 しかし、王妃はそれには応えず、手許にあった『蛇(メヘン)遊び』の丸い遊戯盤をくるくると回しながら、妹の顔を見上げて口を開いた。

「ヌート宰相が神殿の軍を割いてまで、叛乱軍を討伐したいというなら、わたくしが反対せねばならぬ理由があるかしら?」

「それでも反対なさるべきでした!」

「無駄よ。宰相は陛下を王都から出したくないのです。陛下を引き止めるためなら、どんな手段も厭わぬでしょうよ」

 王妃はそういいながら視線を落とすと、遊戯盤の上に彫られたとぐろを巻く蛇の鱗に駒を並べはじめた。
 彼女の的確な指使いで、白い蛇の背の鱗は瞬く間に黒色に変わる。そして己の尾を呑む蛇は、永遠の時を繰り返す渦となるのだ…。
 蛇の目が灯火の下で赤く煌くのを目にしたとき、王女のなかで何かが爆発した。
 つかつかと小卓子(テーブル)の前に歩み寄ると、姉の手許から遊戯盤をもぎ取り、窓から外へ放り投げてしまったのだった。白大理石に蛇の模様を象った細工のゲーム盤は、黒瑪瑙の駒とともに放物線を描いて夜の闇に消えていった。それらはごく軽いものであり、窓の下にはパピルスの繁みがあるため何の音もしなかったが。

「…キヤ…無作法が過ぎるのではない?」

 さすがの王妃も優美な眉を顰め、咎める視線を送る。だが、王女は窓辺でくるりと振り返ると

「姉上がどんな企みごとをなさろうと、わたしは姉上に幻滅したりしません。それほど子供ではないつもりですから!だから、お願いです。わたしの言葉を聞いて下さいませんか」

 王妃は妹を見つめたまま殊更にゆっくりと瞬きをすると、いつも通りの柔かな調子で

「いつでもお前の言う言葉には耳を傾けていますよ。誰が裏切ろうと、お前だけは信じているわ」

「わたしもこの世で姉上だけは信じています。姉上は今日、罠の成果をご覧になったのですね?だから宰相に反対なさらなかった…」

「……どうしてそう思うの?」

「わたしは姉上のように、自在に人を動かすことはできませんけど、姉上のお気持ちの動きくらいはわかるつもりですから。姉上は陛下の名誉を損なってでも、どうしても宰相に軍を出させたかったのでしょう?」

「……そう思いたいならそう思いなさい。答えることはしないし、聞かぬほうがお前の為です」

 その途端、王女の勝気な眉がきりりとあがり

「わたしの為?知らぬほうがわたしの幸せと仰るの?その論法で、陛下の願いも封じ込んでしまわれるのですね!いえ、わたしのことは構いません。わたしは姉上の庇護の元にある身。ですが、陛下は?この黒土の国の王ともあろう方――大王家の長ともあろうお方が、一軍を指揮したいという当たり前の願いも叶わないなんて。陛下は戦場に行かれるべきです。兵士とともにこの国の行き着く先をご覧になるべきなんだわ!いままで、それが恐くて神殿に篭もりっきりだった陛下が、やっと外へ出て王らしきことを始めようと仰るのに、妃である姉上がそれを妨害してどうなさるの?姉上も先の内乱で戦場に出られたのだから、陛下のお気持ちも、それが今の状況に必要なことくらい十分ご承知でしょう?せめて姉上くらいはお味方して差上げねば、ファラオがおかわいそうよ」

 今や姉と殆ど背が変わらぬほどまで身長が伸びた王女は、真直ぐに目の前の姉王妃の顔を見詰めてそう抗議するのだ。王女の目は爛々と光り、だが顔色は真っ青である。
 そして、彼女に対峙せざるを得なくなった王妃のほうも、妹に負けず劣らず唇まで青ざめていた。

「仮にもファラオである方に対して、その物言いはなに?陛下のお心の裡を忖度(そんたく)するなど不敬の極みですよ。第一、お前から妻の心得をお説教される覚えはありません!それ以上言うなら、いくらお前でも赦しませんよ!」

「そんなつもりでは…でも、姉上だってそんなにお怒りになるのなら、御自分のなさってることが陛下を苦しめる結果になると判っていらっしゃるのでしょう?どうしてそんな酷いことがお出来になるんです?」

 絶句した姉の顔に心がちくりと痛んだ王女であったが、ここまで来たからには一気に言わずには居られない性分の彼女は、ままよとばかりに続けた。

「陛下は昔からいろいろと口喧しく、格式ばったことがお好きでいらしたけれど、決して話のわからぬお方ではありませんでした。なのに、今日の陛下にはわたしも混乱させられてしまいました。一体何をなさりたいのか、親征なさる気がおありなのか、そうでないのか全くわかりませんでしたもの。あの後あまりにあっさり御翻意なさるので、自分の耳が信じられなかったほどです」

「お黙り!!」

「いいえ、黙りません!陛下はすっかり変わってしまわれました。王妃である姉上を平気で蔑ろになさるばかりか、側室たちをあの場に列席させるとは、呆れ果てた御振る舞いです。でも、陛下があのように卑しい女たちを傍に置かれるのも、姉上がお話し相手にならないからよ。姉上は平気でいらっしゃるの?陛下が他の卑しい女をご寵愛になっていることを我慢できるなんて、わたしには判りません」

「キヤ、いい加減におしというのが判らないの?」

「聞いて下さい、姉上。今のなさりようは姉上らしくありません!!どうぞお考え直しを。陛下の真のお味方は姉上だけ…」

 王女は突然頬が熱くなり、驚いて口を閉ざした。何が起こったのか、一瞬理解できなかったのだ。
 足元には、弾け飛んだ碧石の髪飾りの欠片。
 そして頬と唇にはひりつく痛み。口の中には塩辛い味が。
 王妃が手を振り下ろしたままの姿勢で、凍りついたように妹を見つめていた。
 どんな酷い我侭を言った時も、叱りはしても怒鳴ったりせず、まして一度も手を上げたことなどなかった王妃が、初めて自分を叩いたことに気付いて、キヤ王女は信じられぬといった表情で姉を見返した。その王妃はといえば、自分のしたことに驚いたのか呆然と立ち尽くしている。そして王妃は肩で息をするようにして、ようやく言葉を搾り出した。

「で…出ておゆき!!当分、お前の顔は見たくありません。公式の行事にも、後宮の勤めにも出なくて宜しい。わたくしが赦すまで、お前の宮殿で謹慎していなさい!」

 口許を手で覆いながら、顔を背けた王妃は扉を指差した。

「あ…姉上…わたしはただ…」

「退れと申したに、聞こえませぬか!!」

 差し伸べた手をばっさりと切り捨てるような、一際強い口調だった。キヤ王女は頬を押さえたまま唇を噛むと、だっと身を翻して外へ飛び出していったのだった。一方の王妃はがっくりと膝をつき、壁に身をもたせかけてうなだれてしまった。威厳に満ちていたその背は小さく縮こまり、乱れた黒髪が灯火に乱反射している――影は小さく震えていた。



 そうして月が随分と西に傾いた頃のこと。

「あなた様でも、図星を指されて逆上なさることがおありでしたか」

 灯火を消してしまった王妃の書斎の闇のなか、乾いた声がした。

「お前を呼んだ覚えはありませんよ」

 椅子に顔を埋めるようにして床に座り込んでいた王妃は、顔を上げることなく不機嫌そうに返事をした。だがその声は涙で湿っているようにアンクエレには聞こえたのだった。しかし今は、それには頓着する時間がない。アンクエレは相変わらず闇に沈んだまま、壁際の秘密の仕切り戸越しに報告を続けた。

「お許しを…火急の事態が出来(しゅったい)いたしましたので、ご報告にあがりました 」

 だが、それを聞いても王妃は尚も顔を上げようとはしなかった。

「何です?」

「ヒクプタハの北宰相パ―セルが、どうやらワァルト配下の将軍に殺害されたようでございます」

「…いつ?」

「一昨日のことらしゅうこざいます」

「ではこれでヒクプタハ一帯は完璧にワァルトの勢力下に入ったということね…まずは予定通り。…では、セケルの祭司長に依頼しておいた件はどうなりました?」

「未だ交渉中とのことでございます」

 それを聞くなり、王妃は顔を上げた。やっと王妃の声がいつもの調子に戻り

「拘束されてから、かれこれもう30日にはなるでしょうに、やはり剛情な男だこと……だがパーセルが殺されたとなれば、出来るだけ早くあの者を城外に出さねばならぬ」

「先方ではそれも任せて欲しいと申しておりましたが」

 アンクエレの声には揺るぎなく、だがどこまでも慎重。ケメト特有の暑い夜の空気も、この場だけはひやりとした空気に変わるかと思われた。

「……よろしい。それならば、後はセケルの祭司長に任せましょう。それより西メフゥの彼の軍は持ちこたえていて?」

「は、さすがはあの将軍仕込みと申しましょうか、副官の州軍長と旗下の隊長連が諸侯の軍をまとめ、なんとかサイスとブト周辺は維持しております。ですがそれも時間の問題かと。あの方の不在は殊のほか響いておりますようで…特にチェヘヌ(リビア)人には」

「イメンテト侯はチェヘヌ人にそれほど人望があったのですか?」

「人望…というより、シーワオアシスあたりの諸部族の揉め事に介入して貸しをつくるのがお上手であったようですな。ケメトの王は嫌いだが、侯の頼みならひと肌脱がねばという輩が多いそうで」

「では、その効き目があるうちに最後の仕上げを急ぐとしましょうか」

「御意」

 そういって退出しようと腰を浮かしかけたアンクエレに、思いがけない問いが飛んだ。

「お前も…わたくしがしていることは陛下を追い詰めるだけだと思う?」

 王妃の声は夜風に消えるかと思われるほと微かで、微妙に震えていたように聞こえた。
 アンクエレはまた跪くと、神妙な声で女主人に答えるのだった。

「王妃様…キヤ様の仰ったことはお気になさいますな。姫様は…いつも一生懸命でいらっしゃるだけで、決して悪気がおありでは…ただ…先ほどのあれに関しては、少々率直すぎましたかな」

「率直なあの娘はいつだって一番残酷なのよ。だって…それは本当のことなのだもの」

「…だからこそ、皆があの方を愛するのでございましょうね。素直にご自分が正しいと信じたことを信じていらっしゃる。真っ直ぐで勁(つよ)いお方ゆえ、見ていて安心できます。人の上に立つものとしては、まずは佳きご気性と申すべきでございましょう。わたしがお育て申し上げたにもかかわらず、幸いにもひねたところがおありでない」

 アンクエレの声色には、そこはとない自嘲の響きが感じられた。

「それに、わたくしにも似ず…ね」

 疲れたような調子で王妃が呟いた途端、ざっと仕切り戸が引き上げられ、王妃の前に今宵初めて露になったアンクエレの顔は厳しく引き締まり、彼もまたなぜか不機嫌そうであった。

「この期に及んで後悔なさいますか、あなた様らしゅうないですな!もう《セネト》の駒は振られてしまいましたぞ。責めは…」

「ええそうよ!責めは全てわたくしが負うと言ったわ。たった一人の妹に、人でなしと罵られようと、愛する方とわたくし自身の名誉を地に堕とそうと!」

 王妃はアンクエレを振り仰ぐなり叩きつけるように言った。彼女の切れ長の目が、闇の底で一瞬光ったように見えた。

「わかっています。わたくしの他に出来る者がおらぬのだもの。ならば、わたくしがやるしかないでしょう?それを嫌だと思ったことなどないわよ」

 それでもなお、もの問いたげなアンクエレの視線をきっと睨み返した王妃は

「心配おしでない。誰の信頼を失っても、人でなしと罵られても、わたくしは今度のことをやり遂げます。さもなければ、すべてが無になってしまうではないか」

 それは若干20歳のうら若い女性に似つかわしい言葉ではない――と、アンクエレは思ったが、この王妃だけはそれを吐く覚悟も、資格らしきものあるのかもしれないという気もする。

 父親を5歳で、次いで母親を僅か9歳で失い、幼くして勢力を失いつつある大王家の重鎮に据えられてしまったこの女性は、きわめて自制心が強く、感情に溺れることを非常に嫌う性格である。であるから一見水のように穏やかな気性と思われがちなのだが、底に秘めた激情はまさしく烈火そのものであった。王妃の二面性は、大王家の血筋に共通する激烈な性格の親族のなかにあって、際立った個性を放つものだったが、すべては幼時に自分から両親を取り上げた両王家の内紛を見て育ったせいでもある。
 王妃の父、メリイルディス王子は、同母弟のメリサトラー王子と王位を争い、大王家内の大半の勢力を味方につけ、弟を暗殺ともいえる方法で葬った途端、奇病を得て夭折してしまった。威風堂々として未来を嘱望されていた父が、みるみるうちに病み衰えて死んでいく様を幼い彼女は間近に見たのである。悪霊となったメリサトラー王子の仕業と怯える女たちの哭き声に取り巻かれながら、幼い王女は育った。優しい母親はまもなく同じ《ナルカ王家》の傍流の王子と再婚し、王女には異父妹にあたるネフェルキヤ王女を産んだ。しかし、一家の希望であった長子のシェマイトラー王子が何者かに暗殺されるという悲劇が重なったことで、幽鬼のように王宮内を彷徨いはじめ、娘たちの顔の見分けもつかぬほど憔悴した挙句亡くなってしまったのである。

「そうよ…ここで挫けてはならない。わたくしが真実《イシスの娘》であるのなら、陛下のケメトを安んずる義務があります。そのためなら…そのために誰に憎まれようと本望ではないか…」

 王妃の述懐を黙って聴いていたアンクエレだったが、血の気の引いた女主人の痛々しい顔を見て思うところがあったのか、表面上は無表情に問いかけていた。

「姫様は何かを焦っておられますね」

 思いもしなかったことを言われた王妃は一瞬言葉を失った。
 アンクエレは構わず続ける。

「誤解なさいませぬよう。今になって姫様の企みに異議を唱えようとは思っておりませぬ。ただ…もうすこしじっくり腰を据えて時をかけた上で、同じ結果を出すこともできましょうと申し上げたいのです。最近の姫様は特に性急であられるようにお見受けします。わたしは、ただそのお心の裡を伺いたいのです」

「前にも言ったわ。わたくしはよりましな毒を選んだだけ。それが即効性のものゆえに、急ぐ必要があるのですよ」

「かといって、あまりに激烈な効き目は、病んだ本体の息の根を止めることになりまねませんぞ。姫様も陛下もまだお若く、時間はおありなのですから、今すぐ全ての病の根を絶たんとなされずとも…」

「いいえ、今だからこそやらねばならないのよ。王家に未来がない今だからこそ」

 ぽろりと零れた己の一言に、王妃ははっという顔になり、それにもましてアンクエレの顔に動揺が走る。

「未来がないですと?それは…もしや先ごろカイト女官長が後宮から去ったことと何か関係がございますのか?」

 そう追求されて、王妃は悲しげにうっすらと笑い、アンクエレのほうに視線を上げた。

  「そうね、お前には隠していても全てお見通しね。だから今ここでお前に告白しましょうか」

 王妃は深々と溜息をつくと、またもやアンクエレから顔を背けて、ぽつりぽつりと語り始めた。彼の位置からは、王妃の上半身は影となり、膝の上できつく組み合わされた両の手しか目にすることはできない。
 金の台座を象った華奢な指輪が僅かに震え、それに共鳴するような震える声がアンクエレの耳を打つ。

「キヤの言ったことは正しいわ。いくらもっともらしい事を言ってみても、わたくしは陛下のお悩みも、お怒りの一部もわけていただけない妻なのよ。それなのに、そのわたくしが陛下の御為を唱えるなんて馬鹿げてるわ」

「姫様…」

「お願いだから、今だけは黙って聞いて」

 きっと顔を上げた王妃は、口を挟みかけたアンクエレをその一言と目線で黙らせ、また続けた。

「わたくしも努力はしたわ。あらゆるものを試してみたの。でも、祈祷師の呪文も、呪い婆の媚薬も、陛下のお心をわたくしに向けるには役に立たなかったわ…占師は、わたくしはこの先もおそらくは陛下の和子を産めぬだろうと告げました…わたくしは本来、陛下には用なき者なのよ。御世継ぎを生んで差し上げられない王妃ですから。ひょっとして、陛下を欺いて、マアト女神の御業を歪めているのはわたくしなのかもしれない。だからこの国は乱れているのかもしれない。どうしたらいいのか、わたくしにはわからなくなってきたわ…それどころか、ふと、わたくしさえ陛下のお側から身を退けばよいのではないかと思う時もあるの」

 ついに彼女は口元を震わせてそう叫び、すとんと床に腰を落としてはらはらと泣きはじめた。
 アンクエレは黙って王妃の傍へ膝行し、俯いた王妃の前にひっそりと座った。

「いいえ、それは違います」

 声を立てぬまま落涙する王妃にそう声をかけて、しばし押し黙る。
 尚も泣き止まない王妃を見守りながら、彼は優しいとも思える声音で囁いた。

「人を欺くことはマアトを減少させはしますが、本来マアトというものは少なすぎもせず溢れさせもせず、ほどよく満たされることにその本質があるのです。だとすれば姫様は、ケメトを守りたいという御自分の心は欺いておられぬ。ならば、それはマアト女神を欺く所業とは申せますまい。そうではありませぬか?それに、姫様はわたしの御主、《ナルカ王家》を率いる《王》なのですよ。大王家の子孫を産まねばならぬ、今までの王妃とはお立場が違います。身を退いて済む話ではございませぬ」

 アンクエレは敢えて月並みな慰めは言わなかった。生来そういう男なのである。

 だが、王妃の告白は、彼の底の醒めた部分を確実に揺り動かし始めていた。
 彼は今やっと、王の乱倫にも、宰相の専横増長にも涼しい表情を崩さなかった朗らかな王妃が、この血腥く陰惨な陰謀に乗り出した真の理由を理解したのだ。
 王妃は世継ぎの子が産めぬことを内心深く悩んでいたのに違いなかった。腹心のアンクエレには自分が王の世継ぎを産めぬなら、側室腹の庶子か別の王家の係累を立ててもよいとは言いはしたものの、内心ではそれほどまで愛する王の子を産みたいと願っていらっしゃったのかと、今更ながらアンクエレは王妃の女らしい苦悩を思い知るのだ。しかし、王妃の必死の祈りはむなしく、夫である王は彼女の許を訪れもしないと聞く。
 随分と歳が離れているとはいえ、乳兄弟でもあるアンクエレの前であるせいか、とうとう王妃は苦しい胸のうちを吐露せずにはいられなくなったらしい。

「違うわ、わたくしが何者か以前の問題よ。どんなに疎まれてもそれでもお側にいたい…と思ってしまうわたくしの醜い執着の話をしているの。ずっと陛下を慕って育ってきたわたくしですもの、あの方のいらっしゃらない生なんて考えられないわ。でも陛下の御傍に行こうとすると、したり顔の女達を見なければならぬのが嫌!あのような下卑た女たちに陛下が触れるのだと思うと、その辺り中みんなめちゃめちゃにしてやりたいわ!もし誰かが陛下の和子を産むことがあっても、その子に二重冠は与えません。だってわたくしが、どうしても我慢できないのだもの…。王位も、王国も、何の負債も引き受けてこなかったすまし顔の王族などには渡しません!」

「姫様…」

 珍しく感情的な王妃の言に気おされたのか、口篭るアンクエレに対し、王妃は引きつった泣き笑いのような顔で言う。

「だからわたくしにいくらかでも力が残されているうちに、道をつけておきたいの。陛下はわたくしの考えがお分かりだから、遠ざかっておしまいになったのかもと考えると気が狂いそうよ。ああ、わたくしは何て浅ましいのでしょう、卑しい嫉妬だけはするまいと思っていたのに、負けてしまいそうになるわ。そしてこの醜い嫉妬が、いつかあの方を傷つけてしまうに違いない…」

 震える声でそういうと、王妃はまた両手で顔を覆って激しく泣き出してしまった。見たことのない王妃の姿にと胸を突かれたアンクエレは、いま一歩近寄ると、王妃に向って

「ティティス様、誰かを愛すればそうやって浅ましく、また醜くもなるものです。そうならぬものは最早人ではなく、また、そうでなければ愛したとは言わぬもの。わたしでも覚えがありますよ…。それに、あまり思い詰められらると、物事の本質を見失います」

 いつになく男の悲しげな呟きに、王妃ははっと泣き濡れた顔を上げた。

「そうだった……赦して…わたくしがお前にそんなことを言う資格はないわね…」

 だがアンクエレはいつものように、淡々とした表情で視線を返す。

「お気になさるに及びませぬ。とうの昔の事、済んでしまった事ですから。それに、あなた様に見出していただいたあの時から、この身は生涯ティティス様とキヤ様の一守役と決めております」

「お…アンクエレ…お前…」

「何も申されますな。わたしはこれまでどおり、姫様のご指示通りに事を進めます。先に申し上げた事はお忘れください。では、これより例の通信文を出しますが、宜しゅうございますね?」

 アンクエレはごく事務的な口調でそう言い、王妃の顔を覗き込んだ。それがかえって王妃の動揺を鎮めたのか

「ええ。頼みます」

 そう言って彼を見上げた王妃も、もう先ほどの怜悧な彼女である。

「畏まりました」

 そういって頭を垂れた拍子に、アンクエレは王妃の顔に隠し戸の隙間から月光が差し込んだのを見た。白い輝きを放つ一本の筋は、王妃の首元を横断するかのように反射して、咽に下げた金の飾りを冷たく輝かせる。

(傍目にどのように頼りなく見えようと、この方こそがファラオの剣なのだ。若干20歳のこの王妃の、この国と夫であるファラオを守り抜いてみせるという気概こそが。だから、王妃様はどこまでも非情になりきれるのかもしれない。時に無慈悲にして自己中心的とも思えるこの方の言動の全ては、己の目指す道の正しさを確信しておられるからこそ)

(だが、それならこれから先はあまりにも辛い道行となるだろう――戦はすぐそこに迫っている)

(それに、王妃様がわが子を産むことを諦めねばならぬとしても、まだ次代の王の誕生に望みがないとはいえない。宮中で根強く囁かれるネフェルキヤ第2王妃待望論は、その証左……)

(だが、これだけは王妃様はお譲りにならないだろう。大王家の歴史では姉妹同士で同じ夫を持った王族など珍しくもないが、この方はそのような結びつきを心底厭うていらっしゃるのだから。このまま王族出の妃腹の和子誕生の可能性が消え、更には、庶子さえもおらぬとなると…まさに王家には未来が無いということになる)


(そしてわたしはその先に何を見たいのだろうか?)

 かつて同じ事を自分に言った者がいたことを、アンクエレは不意に思い出した。

―――大王家は滅びる。それはナァ・イルゥの流れの如き自然の理だ。貴殿にはそれが見えると思ったが、わたしの買い被りだったのか?

 一瞬、あの倣岸無礼な男の声が頭を掠めた。アンクエレはそれを強引に意識の底に沈め

「では、わたしはここで失礼いたします。姫様、今宵はもうお寝みなされませ。あまり月の光に当たられては、トトの神が悪戯な夢を見せると申しますぞ」

「そうしましょう。わたくし、月は嫌いよ。あれは冴え冴えと美しいけれど…隠しておきたい心を覗き込む無礼者だから」

 そう言って、王妃はゆらりと立ち上がると、力ない足取りで扉の向うに消えていった。



 その夜の不吉な月光は、密かに抜け道を通って河へ出て行くアンクエレの心もまた、ざわざわと波立たせてやまないのだ。

 ふいに彼の視界がひらけ、高台にある王宮から川向こうの様子が見下ろせた。対岸に、皓々と照らされた至高神アメン・ラーの御座所、カルナク大神殿の城壁が横たわっている。壮麗な塔門の両脇には、天を貫かんばかりの二基のオベリスクが月に輝いて聳え立ち、その威容はあたかも二振りの剣――瑠璃なす天穹のヌゥトの胸に突きつけられた白刃さながら。

 王妃様があくまで妥協を拒まれるもやむをえぬが、やはりどこかで無理をしておられる。しかし、心のままに生きることなど、この乱世においては許されないのだ。破滅を望むならともかく。
 ならば、あの方の畢生の賭けを無駄に終わらせぬためには、あれ、あのように、もう一振りの剣が必要だ。   
 それはどこにあるのだろう…わたしの力では見出せないのか…?

 いや、是非にも見つけ出さねばならない。命に代えても。

   アンクエレの美鬚に縁取られた口許が、僅かに歪む。
 トトもまたラーに先立つ古き神にして、夜の守護者。あまたの人びとの秘めた嘆きを聞くという…――。  





14章へ続く