4.長星

イムゥ市の夏は、灼熱の黒土(ケメト)の国にあっても比較的過ごしやすい部類に属する。
それは、下エジプト・デルタ地帯でも比較的大緑海側に位置するこの市の地勢上、南の乾燥地帯に比べて僅かに湿度があるためである。時には川下から涼しい風が吹き、僅かながら雨を運んでくることもあった。そんな時は、慌てて葉の繁ったイチジクの木陰や日干しレンガの我が家へ駆け込む農民たちの姿が見られる。
その日、ナスリーンは愛用のリラの手入れをするため、川縁の四阿にいた。
遠くマリのあたりからきたという彼女のリラは、両脇に貴石を砕いて嵌め込んだ牝牛の顔があり、16本の弦を張った横木は金でメッキが施された華麗なものである。ナスリーンはリラの胴に蜜蝋を刷り込み、つやを出し終わると、いとおしむように一弦一弦つま弾いて、音を調節し始めた。
初めは、バラバラの音階で。次に、短いメロディーを奏でて飽きる様子もない。
弦の上を滑る指は、ほっそりと長く、リラに寄せられた夢見心地の玉子型の顔は、小さく可憐な白ケシの花のよう。その顔を彩るのが漆黒の渦を巻いて膝に流れる豊かな髪であるが、彼女には少々重すぎるのではないかとさえ思える。取り留めのないメロディーはいつしかはっきりとした旋律を象り、形の良い唇から、甘やかで嫋々たる美声がこぼれ落ちた。
  
 ・・・・・私の心はあなたへの愛情に傾いていないですって?
       私とあなたヘの愛は断ちがたい。
        たとえ人が私を打とうとも。
         たとえ鞭の小枝を持ってヌビアまで
          たとえ杖を持って高地まで
           たとえ若枝をもって低地まで
            私の思慕を捨てよと迫ったとて。
              他人の忠告なんぞ 無用のもの・・・・・・

彼女の魂は楽とともに宙を漂っている。
と、そこへ笑いを堪えるような男の声がふってきた。
「なんだ、ずいぶん陰気な歌を歌っているな。雨上がりだから、もっと浮き立つようなのを歌ったらどうだ?」
楽神とともに浮遊していた彼女を捕まえたのは、この屋敷の主である。
「あら、殿、お早いお帰りですこと」
ナスリーンは振りかえって彼の姿を目にしたとたん嬉しそうに笑った。彼が帰ってきても、絶対に笑ってなどやるものかとの朝の決意はどこへやら、さながら満開の花がこぼれるような可憐な風情を湛えて。

ここは、下エジプトの第3ノモスを治める西(イメンテト)州侯の公邸内。
彼女はこのところ州侯が贔屓している楽師である。贔屓といっても専属ではなく、乞われれば他の貴族の宴席にも連なり、近隣にも美声の主と名高い。元はイシスの神殿で育った巫女見習いだったが、長するにしたがって抜群の楽才を示し、稀代の歌い手として下エジプト中に名を轟かせた女であった。その類稀な美声と同じく神秘的な美貌も有名で、一曲なりと聴きたと願う貴族が競って彼女を招いたという。
そのナスリーンが、最近テーベからきた西州(イメンテト)侯の想いものになったという噂が、州都を席巻したのは3月ほど前のこと。それは、数多の有力貴族を嘆かせたが、都からきた州侯の心をとらえたということで、逆に、彼女の声望を高める結果にもなった。以来、彼女は侯の邸宅の楽師兼愛人といった待遇で暮らしている。
「視察なんぞつまらぬものだ。ケネプにあとは任せて、お前の歌を聴きに帰ってきた」
西州侯は磊落にそう言うと、ナスリーンの顎をつと持ち上げて、ごく軽く口付けた。あまりにあっさりしているので、ナスリーンが笑い出してしまったほど。しかし彼は一向に頓着せず、ナスリーンの傍らにごろりと横になる。そればかりか、彼女のほっそりした腰に手を回して彼女を見上げる目には、少年じみたいたずらっぽい輝きが覗いていた。
 連日政務を放擲して部下のケネプを嘆かせている西州侯は、すらりとしているが、鞭のようにしまった体つきの男である。いかに放蕩しようと、歴戦の戦士らしい体格は崩れず、その点はさすがと嫌味をいわれているのだったが。
ナスリーンを一心に見つめる顔は、よく日に焼けていて、通った鼻筋と言葉より雄弁に語る鋭い目が印象的であった。そして、陽気でいながらどこか皮肉っぽい口許。すっきりと面長な顔立ちだが、幾分顎ががっしりしすぎており、決して美男といえる貌ではない。しかし、笑うとその目に何ともいえない愛嬌が出て、それが女にもてる一因といわれていた。
その西州侯イブネセル・アヌイは今年29歳。テーベから赴任してきて1年と2ヶ月が経つ。
主の希望を聞くなり、ナスリーンは一瞬困ったといった表情になった。
「まだ、調整途中ですのよ。あまり長いものは…」
「だったらリラなんぞ置いて、リュートかいっそメメト(フルート)でも聞かせよ」
「でもせっかく雨が降ったから、今のうちにこれを調整しておきたいのです」
「やれやれ。どこまでも楽師気質が抜けぬ女だな」
アヌイは諦めたように笑い、つづけよという風に鷹揚に頷く。相変わらずナスリーンの腰は抱いたままで、肩肘をつき半眼をとじてナスリーンのつま弾くメロディーを追いかけているようであった。

  ……今日の日を悦び楽しめ
     世の儚き声誉など心に留めること莫れ
       徒に嘆き悲しむことを止め 苦悩をば背後に投げ捨てよ
         悲泣は未だ冥界の神に届かざるを……

ナスリーンの奏でた一節に、アヌイの声が重なった。意外にも通りのよい美声である。
「殿はどうして、この歌がそんなにお気に召したのです?」
ナスリーンの問いに、アヌイは半眼のままつぶやいた。
「さあ…わからん。…ただよい詞ではないか、今の私にしっくり来る…」
「“今日の日を悦び楽しめ――”とはまさにあなた様の為にあるような曲。それより、昨夜はどちらへお出であそばしたのです?また北の方へ?それとも今度は西ですかしら?」
 やや刺がある言い方ではあったが、アヌイの愉しそうな目を見ているうちに、彼女は諦めたように溜息をつき
「よろしいですわ。ここにいらっしゃる殿が幻でないのなら」
「そう、お前を抱いているのはわたしだ。確かめてみるか?」
 そう言いながら彼はぐいとナスリーンの手を引き寄せて、彼女に悲鳴をあげさせるのだった。ごつごつとした指がナスリーンのこめかみに差し込まれ、黒く渦巻く髪をゆっくりと梳いていく。彼の好む仕草に、ナスリーンは身を委ねてゆっくりと彼の咽の窪みに顔を押し当てる。
 ひんやりとしたその部分が俄かに動いて、彼がまた呟いた。
「汝の頭に神の愛でし薫香(ミルラ)を載せ、最上のリネンを纏わせよ…お前にもそうしてやろうか?」
 ぼんやりとその声を聞きながら、ナスリーンは思わず
「私はあまり好きではありません、この竪琴の歌」
「うん?そうか、なぜだ?」
アヌイの声がかすかに笑いを帯びたようだった。
「だって歌っていることが、あまりに刹那的ですもの。私は長く心に残るものが好き。カナーンの恋歌なんて素晴らしく美しいですわ」
そう言ってナスリーンはリラを置くと、目を閉じて異国の歌を口ずさむのだった。

   ・・われはシャロンの野の花 谷の百合花
      女子らの中に我が花嫁のあるは 茨の中に百合花のあるがごとし
        我が愛するものの男子らの中にあるは 林の木の中に林檎のあるが如し
          われ深く喜びて その陰に座れり その実は口に甘かりき
           彼われをたずさへて酒宴の室に入れたまへり
             その我が上にひるがへしたる旗は愛なりき・・・・・・

唐突に、ナスリーンは歌うのをやめた。
その目は見開かれ、虚空の一点を見つめている。
アヌイは急いで身を起こし、ナスリーンの顔をのぞき込む。すると、彼女の目は黒々とした深淵をたたえて、剛毅なアヌイをも怯ませるほどの底知れぬ闇がのぞいている。
「ナスリーン、おい、還ってこい!」
 小柄な体を乱暴に揺すぶってみるも、彼女はかばかしい反応を示さない。頬を軽く叩いてみても同じであった。アヌイは急いで、側にあった水差しをとると直に口に含み、ためらわずアヌイはナスリーンと唇を重ねてそれを流しこんだ。
一呼吸置いて、ナスリーンが我に返ったようにむせる。
「大丈夫か?」
アヌイの手がナスリーンの華奢な背中を撫で摩り、ナスリーンは荒い息を繰り返した。
「久しぶりだな、例の先見(さきみ)か?」
ナスリーンは激しく頭を振ると、アヌイに懸命にすがりついた。額に玉の汗が浮かんでいる。
「違います。私のこれは先見ではない。ただの幻視です。わけのわからぬ映像にすぎない…」
「何が観えたのだ?」
アヌイは麻の手巾を取り出し、ナスリーンの額を拭うとその青ざめた顔をのぞき込んで問いかける。しかし、ナスリーンはいっそう激しく身を震わせてアヌイの逞しい首に腕を巻きつけ、ぎゅっと眼を閉じるのだった。そうすれば恐怖は去るとでもいいたげな態度で。
「わかりません。ただ怖い…ひどく怖いの……」
「怖いではわからぬぞ、なんの絵が見えた?」
「なにも、ただただ真っ黒な闇が…異神の歌を歌ったので、イシスの女神がお怒りになられたのでしょうか?」
「はっ、なにを馬鹿なことを。お前は『愛の歌』とやらを歌っただけだ。涜神の罪ならば、巫女を抱いた私に下るさ。心配するな」
アヌイの言葉を耳にしたとたん、ナスリーンは頬に透明な涙を伝わせた。
「殿はお勁(つよ)い……なぜ私のようなただの楽師に、こんな変な力があるのでしょうか。知りたくないことまで、観えてしまう――」
「泣くな。怖いことなど、ここにいる限りありはせぬのだ」
小鳩のようになき震えるナスリーンを腕の中に抱きしめて、アヌイは慰め続けた。
戦場においては並びなき剛勇を歌われた彼でも、女の涙だけは立ち向かいようも無いらしい。無論泣くだけの女は好みではなく、彼が相手にするのはいつも芯のしっかりした、笑い顔の魅力的な女ではあった。ナスリーンを見出したとき、その華奢な身体に似合わぬ不羈の魂が彼に興味を抱かせたのであったが、深い仲になってみると、ナスリーンが秘めていた苦しみをみることになった。それはイシスの巫女に時折みられる、予知能力者であるという苦しみである。
ナスリーンは、楽神と戯れているときに、その症状が起こりやすかった。しかも、彼女の力は様々な事象の抽象的なイメージを捉えるだけで、予知としてはものの役に立たない。誰の、いつのものとも知れぬ負の感情に取り巻かれ、苦しみや恐怖は確かに彼女自身のものであるのに、「予知者」としては無能なのである。
その耐え難い苦しみ故に、ナスリーンは神殿を去った。ただし、歌うことはやめなかった。やめることは出来なかったのだ。苦しみを忘れる為に、彼女は歌い祈り、神を追い求めて高みに翔ぶ。それは、聞くものの心をうつナスリーンの歌声の秘密ともいえた。
アヌイはナスリーンを抱きしめ、その顔に優しく笑いかける。滅多に表に見せることはないが、ナスリーンがひと目見て以来囚われた、諦めに疲れたどこか辛そうな顔だ。だが、彼はナスリーンの瞳に映る己に気付くことはない。
「わたしがお前を苦しめるものから解き放ってやろう。いや、必ずそうしてやる。だからそんなに嘆くな」
 彼の静かな声を耳にして、ナスリーンは縋り付いて彼の胸に顔を埋めるしかなかった。
 こんなに近くにいて、こうして触れ合っていても、彼がこのように心を砕いて慰めてくれようとも、己に負わされた闇と恐怖は消え去ることは無い。眼を閉じても、意識下に押し込めても、それらは必ず追いかけてくるのだ。わたしのアブ(心臓)に刻み込まれた印は、あなたにも癒すことは出来ない。だからこそわたしは、黄金にも勝るこのひと時の幸福を離したくない。忘れたくない。彼女は強く強くそう願う。
 血が滲むほどに爪を立ててしがみ付いたナスリーンの手をゆっくりと解きながら、彼女の顔を両手で挟みこんだ彼の顔もどこか思いつめた光がある。
 だが、恋人達はとりあえず、その不安を投げ捨てるしかない。
 白い石造りの長椅子に漆黒の滝のようなナスリーンの髪が広がり、昼下がりの柔らかな光が、その薔薇色の頬を輝かせた。アヌイの指がその輝きにそっと触れてゆく。
ナスリーンの涙はもう乾き始めていた。彼女はアヌイの湿り気を帯びた唇の感触を感じながら、うっとりと目をとじる。下へ下へと戯れる彼のゴツゴツした指が彼女の感覚の奥をざわめかせてゆき、彼女の掌に伝わるゆっくりとした波とひとつになる。彼の固い腿がするりと彼女の華奢な両膝の間に滑り込むと、執拗に足を絡めて来る仕草も、彼の指の動きがくすぐったくて彼女が笑い出すのもいつものことだ。そして、ナスリーンの背が音色を奏でる弦のように、たわわに撓ると、夏の午後特有の熱気と恋人達の吐息が溶け合っていく。
ナスリーンはもう一人の神をその手に捕らえた。そして彼女もまた神になるのだ。生も死も、恐怖も、運命すらいまこの時だけはわたしの物だ。
その時、瞼に浮かんだのは、暗闇を横切って流れる巨大な箒星――怖ろしく巨大で、しかも白く輝かしい長い尾を持つ箒星の映像だった。

(あれは、私の運命だろうか?それとも…)

しかし、ナスリーンも予知できないことであった。
箒星の影を捉えたものが、彼女のほかにいたことは―――。

イムゥより100キロほど南に下ったナァ・イテルゥのほとりに、ひときわ古き神殿が鎮座していた。
それは、いまはもう伝説でしかない初代のケメトの神王が建立したと伝わる大神殿であり、この神殿を中心に広がる都もまた、かの神王が造ったものといわれている。白い城壁で囲まれたその都は、城壁の威容から昔は「イネブ・ヘジュ」と呼ばれていたが、現在は「ヒクプタハ(フゥト・カァ・プタハ)」の名称のほうで定着している。
その意味は「プタハ神の魂の城」で、この古の都を統べる存在が、今も昔もただひとつであることを暗に示唆している。
その存在とは、丘の上の大神殿の祭神にして、ぴったりとした衣装を纏い手には杖、顎鬚をつけた剃髪した男性の姿で崇められるプタハ神のことである。
開闢神プタハは、この黒土の国に偏在するあまたの神々のなかでも群を抜いて古い神であり、それだけにそれを祀る神殿の歴史も古く、奥が深い。
そして、今も昔もヒクプタハ市がエジプトの要であることを否定するものはいない。この黒土の王国を南北に貫いて流れる大河は、下流で2つの支流に分かれ、肥沃な湿地帯を蛇行して大緑海に注ぐ。神の目で見下ろせば、紅い大地に咲く黒い睡蓮花が見えるはずである。
そしてその花弁の咽元の部分、即ち支流の分岐地点に位置するこのヒクプタハは、文字通りの水上交通の要衝であった。カナーン地方の諸国、即ち大録海の東沿岸からエジプトに来る大型船舶は、海に注ぐ東の支流からデルタ地帯に入ったのち、
を通り過ぎてして必ずここヒクプタハに停泊することになるからである。 
政治の中心は、長年の変遷で南方へ移っていったものの、この町が捨て去られたわけではない。それどころか逆に、エジプト帝国が富み栄えれば栄えるほど、エジプトの海上の玄関口としてのヒクプタハ市の地位の重みは増していった。市内には小さいながら幾つもの商人が店を構え、それらは国内の何れかの神殿・王領・貴族の代理人の役目を果たしていた。そしてこれらの商人が、ここを拠点に国中へ品物を流しているのである。更にまたヒクプタハからはシナイの銅山が近く、ギザの王軍の駐屯地に近いこともあって、国内でも最高のレベルの業を誇る金工職人が独自の工房を構えていた。それゆえ、この古の王都の守護神プタハは、職人の守護者ともいわれるのである。  
こうして国内の内乱をよそに、市内の秩序を乱すことなく国際商業都市という地位を着々と築きあげてきたヒクプタハ市は、今や、別名「北の都」とよばれる下エジプトきっての宗教と貿易の一大中心地となっていた。

テーベへ都を移し、大王と称えられたスメンクマアト王も、勿論この聖都の重要性を熟知していた。
ただし、大王が認めたのは貿易都市としてのヒクプタハである。下エジプトの第一州(白壁)の州都がここに置かれ、州侯は水上交通と港湾の安全確保を至上命題としていたことからも大王の意図が伺えよう。州侯の公邸は、市内中心部からやや南に外れた川岸にある。そのあたり一帯は広い船着場と倉庫群をもつ広場、造船所に修繕用工廠、外国使節を迎えるための迎賓宮などの諸々の港湾施設が整備され、水上交通の監督官たる州侯の権威を如実に現していた。
現在のイネブヘジュ(白壁)州侯は王家の血を引く貴族レレト・パーセルで、彼は下エジプト諸州を監視する「北宰相」の職も兼任している。
大王は、この都市の古顔であるプタハ神官団を抑圧することはしなかったが、無視といった形でその威光を貶めようとはした。その方針はその後中央政府の政策として引き継がれ、その結果、永い歴史をもつプタハ神官団が表舞台に登場することはなくなってしまった。
大王の採った手段は、古典的だがすこぶる巧妙なものである。
この街の少し北に、同じく古い歴史を誇るイウヌ(オン)という都市があり、その街は太陽神ラー信仰の中心地として名高い。スメンクマアト大王の治世より更に600年遡った頃にこの国を統べた王朝が特にこの神を庇護し、ラー神官団は強大な権勢を振るったと伝わる。
ただし、この街にかつての栄光はなかった。権勢を誇ったラーの神官団は時の流れとともにいつしか勢力を失い、僅かに残った神官が朽ちた大神殿を守っているか、あるいは近隣のプタハ神殿を頼るしかないという衰退ぶりであった。
だがしかし、スメンクマアト大王は、この昔日の栄光の失せたイウヌ(またの名をオンともいう)市からわざわざラー神の聖船を勧請して王都にアメン・ラー神殿を建立し、ヒクプタハにも小規模ではあるが、同じようなアメン・ラー神殿を町の中央の丘に建立したのである。いわば古い太陽神の威光でもって、自らが国家神に仕立てたアメン・ラーを権威づけたのである。
そして、プタハ神殿側がさしたる抵抗もせず、唯々諾々と大王の方針を受け容れたために、王家とプタハ神殿の大々的な対立は避けられてきたのであった。白壁州侯が居座る港も、もともとはプタハ神殿所有のものであったが、この地もあっさりと王家に引き渡して久しい。このため大王家が君臨して以来、プタハ神官団が表立って国家の祭事を取り仕切ることも絶えてなくなってしまった。
しかし古の神王の栄光は失せようとも、現在、プタハ神殿の付属の「生命の家」は最高学府として国内外に名をはせていることに変わりはない。その学問所は他神殿からの留学生も多く受け容れ、卒業生にはアビュドスのオシリス神殿、エドフのホルス神殿等の国内の有力神殿の幹部となった者も多い。この寛容なる神殿の方針は、プタハ神殿の伝統ともいうべきものであった。そして、なんと言っても国際貿易都市ヒクプタハの守護神として、プタハが下エジプト一帯で篤く信仰されていることは疑うべくも無いのだった。
プタハ神の御形(すがた)は、どこか東方のシュメールの神々の系統を思わせる。
この神は、言葉の力を重んじるという。何しろプタハ神学によれば、開闢神プタハは隼神ホルスを目に、月神トトを舌として従わせる偉大な神であり、言葉とともに天地を創造したばかりか、イウヌの九柱神も創り給うたといわれているのだから。
そして、プタハ神学において特筆すべきはその深遠な天文学である。彼らの技は、神事を執り行う日を定めるために星を読むために発達したのであるが、究極的には神々の創り出した「原初の時」を見極めるためのものだといわれている。もともとその技も遠く東方由来のものといわれており、プタハ神同様長い歴史を誇るものだという。更に、その業の奥義は神から授かった魔術の如しと囁かれ、ゆえに、プタハ神殿の天文神官長の発する観測予測書は未だ全国の神殿に独自の影響力をもっていた。
そのプタハ神殿、星見の塔がある神域内の一角でのこと。

「何?近く、箒星が流れる兆しが出たと?」
「はい。先ほど観測官が計算によりそのような結果を弾き出しました!一際大きなものであるとのことでございます!」
 神官の習いでつるりと頭をそり上げたものの、幾分青さが残っている若い神官が、興奮を隠し切れないといった様子で報告した。だが、椅子に腰掛けたままの老神官は眉一筋も動かさなかった。
「して、長老がたはなんと仰せだ」
「これこそ予言された星だと…今度こそ、間違いないと申されました」
「ふん、前回110年前の記録でも、似たような勧告があるぞ。…が、それはそれとして準備するに越したことはなかろう。全予言者と、全長老、四方の観測神官を直ちに呼び集めよ。『セケル=プタハの評定』を開く」
「はっ」
「あ…と、イレト・メセジェル(耳と目)の頭を呼べ。殊に、王都のカアニィ(庭師)には直ちに連絡を取るよう」
「承りました!!神殿長さま!」
 若い神官はそそくさと一礼すると、駆け出すように室を後にした。
 重々しい青銅の扉が再び閉められると、真っ暗な天井がぽうっと蒼白い光を放つ。さながら、満天を埋める星空の如き壮観さであった。天井を埋めて広がるその星図を見上げながら、老神官は一際感慨深げなため息をつくのだった。
暗緑色の石の天井に、金箔を貼り込み更にその上に特殊な液を塗布して象った星が煌めいていた。十二の星座とそれを表す獣頭人身の神々が、ぐるりと円形を描いて躍っている。
彼は腰掛けたままその一つに向ってつと手を伸ばした。
そしてその姿勢のまま、傍らにひっそりと腰掛けてそれまで一言も発しなかった人影に向き直り
「いよいよ時が満ちて参りましたな」
 真っ白い眉が目の表情を隠しているものの、神殿長が興奮を押さえきれないことはその声の調子からもあきらかであった。しかし、語りかけられたほうの白い僧衣の人物は、淡々とした口調で
「さぁ…また肩透かしでなければよいのだが。待つのには馴れておりますが、予兆がくるたびにひと騒動では、長老方もさぞかしご迷惑であろう」
「いつもながら慎重なことじゃ、ヘリ・セシェタァ・メリトゥトゥ殿」
 プタハ神殿を統べる大祭司ニアンク、「偉大なる職人の長」の称号を持つ大神官がそういって軽く笑った。
 「ヘリ・セシェタァ」とは「秘密に通じたもの」という意味である。だが、彼ほどの大神官がそう呼びかけたにしては、相手の男は随分と年下に見えた。
「だがのぅ、わたしの勘で言わせていただければ、此度の星は本物のように思われますぞ」
そういって、二アンク神殿長は手許にあった杯をついと倒した。
  石製の巨大な机の上に、ゆっくりと水溜りが形作られていく。仄かな燭火の下で、磨きこまれた石の表面をうねうねと水が這い、命ある蛇のようにのたうった。二アンクは、つとその蛇に手を伸ばすとゆっくりと線を引いて違う形に導く。
  相手の男は、黙って神殿長の太い指先を目で追った。
 そして、みるみるうちに彼らの目の前には睡蓮の花が出現していく。
 水で描いたその花の首の部分をかき回しながら、二アンクは今度こそ興奮を隠すことなく


「ご覧あれ。何しろこれだけの駒が揃ってある。セネトの盤上の陣容も整ってきておる!南では大王家が瓦解寸前、王家の富の泉であったワワトも手放して久しい。中部の諸侯は独立の気運を高めておるし、ことにあの東部のヒカウ出身のの州侯などはあと一息でケメトから離脱しかねぬ。西は西で隣国リビアもろともまた不穏な動きがある…これほど天と地の動きが揃うことがここ数百年でありましたかな。何かがあれば…さようあと一押しで賽が振られ…直ぐにでも盤の情勢は描き変わる」
 そう嘯くと、彼はコトリと杯を倒し、あっという間にその見事な睡蓮を消し去ったのだった。
 それに対して、相変わらず抑揚の乏しい声が応じる。
「それでもすべては御神の御心次第」
 どこまでも感情を見せぬ相手に、神殿長はふっと表情を改めて、自らもうやうやしげに天井の星図に頭を垂れた。
「さよう。我らの介入など、偉大な「原初の時」の御意思からすれば、所詮は微々たるものにすぎませぬよ」
すると薄暗い石室に、初めて醒めた笑いが響きわたった。白い僧衣の神官が声を立てたのだ。
「にしても、プタハの長二アンク殿よ、我らは待った…兆しを待ちつづけてきた…。よもやこの時が私の就任時にめぐりくるとは思っていなかったが、これも御神の思し召しであろうか。だとすれば、このメリトゥトゥの全てを賭けてやってみるだけのこと」
中肉中背の、壁に吸い込まれそうな平凡な印象の男である。年のころは30そこそこか。神官の習いで頭髪を綺麗に剃りあげているせいか、その下のふっくらとした顔立ちは眠たげでさえある。彼は体をすっぽりと抱きかかえるほど大きな椅子に腰掛けていた。膝の上には緻密な文様に織り上げられた紺色の布がかけられ、足元の暗さと一体となりまるで上体だけが闇の中に浮かび上がっているように見える。
一見して、彼は穏やかな風貌の典礼神官そのものの像の如くみえた。
だが、彼――地上の闇と衰えの神セケルの祭祀長メリトゥトゥ――こそが、この古の王都の最終意志決定者である。それは周知の事ではないにせよ、厳然たる「事実」なのだが、この黒土の国の落ちゆく運命を決める決定的因子とまでは言えない―――。

すべては夏も終わりの昼下がり、ジェドカラー王の治年第3の年のアケト(増水季/太陽暦で10月下旬の頃)の4の月のある日の出来事である。
その後、ほどなくして天空に長い尾をもつ青い箒星が流れ、麦の種蒔きを終えて一安心していた黒土の民を慄かせた。その星は、見る者に寒気を覚えさせるほど青く冴えた光りを放ち、闇夜を切裂いて沙漠の果てへ沈んでいったという。


古人曰く、
長星(ちょうせい)は兵乱の兆し也――と。